昭和に伝来した樹木「メタセコイア」の話題

2011-11-28 22:08:34 | 植物と動物

  平成23(2011)年度は、武田薬品工業KKの「京都薬用植物園」と日本新薬KKの「山科植物資料館」を見学させていただいた。両植物園とも最長樹高の樹木はメタセコイアで、前者の樹齢は60歳、後者は65歳と伺った。山科植物資料館のメタセコイア(和名アケボノスギ)は周辺の住宅化が進み、近隣マンションの高さに切断したと聞いたが、恐るべき成長速度である。
 
  メタセコイアの命名者は日本の三木茂博士で、昭和14(1939)年に関西地方で化石として発見、1941年に学会発表され、絶滅種の樹木とされていたが、数年後の1945年に中国四川省に現存することが判明し、「生きている化石」と話題を呼んだ。日本への伝来は、昭和24(1949)年アメリカのカリフオニア大学のチエニー博士が天皇に四川省の苗を献上したのが最初で、その翌年届いた苗が全国に配布されたという歴史の浅い樹木である。

  関西地区で一番有名なメタセコイアは、琵琶湖の北端に近い滋賀県高島市に存在する「マキノ高原のメタセコイア並木道」である。今秋は、メタセコイアの思い出の締めくくりとして見学する機会を得た。
                         
 この並木道は、県道に沿って延長2.4kmにわたって約500本が植えられている。説明版によると、この並木は、昭和56(1981)年に学童農園「マキノ土に学ぶ里」整備事業の一環としてマキノ町果樹生産組合が植えたのがはじまりで、その後も植え継がれてから約30年で現在の雄大な姿になったものである。
 この並木道は、1994年11月に読売新聞社の「新・日本の街路樹百景」に選定された。もう1ヶ所、新潟県豊栄市朝日町のメタセコイア並木が選定されているが、ここは1km・186本であるから、滋賀県高島町の並木道は日本随一の「メタセコイア並木道」である。この並木道は、春の芽吹き・新緑・夏の深緑・秋の紅葉・冬の裸樹と四季折々に美しく、円錐形のメタセコイアの並木とまっすぐに伸びる道路が造り出す対称敬形の整った景観はすばらしいと紹介されている。


山科三条街道商店会フェスティバルで「車石」体験学習会を開催

2011-11-25 21:08:13 | その他

 2011年度の秋季行事として、山科三条街道商店会では「三条街道わくわくフェスティバル」の名のもとに、多くのイベントが三条街道沿いに開催されたが、「車石車道研究会」では“車石体験学習会”を11月5日に開催した。
         
 会場には研究会の山崎代表、久保事務局長以下関係者が説明役を担当され、珍しい形の車石の実物が展示され、車石・車石の解説資料も配布された。車石クイズも用意され、往来の人で初めて車石を見た人や、質問で知識を深める人などがつづき、5時間のイベントが賑わった。
 「車石・車道研究会」は、文化2(1805)年の三条街道車石敷設工事から丁度200年になるのを記念して平成17(2005)年8月に発足した組織で、6年目を迎えて今回三条街道で体験・学習会を開催したが、謎と夢の大きいテーマを抱えて着実に成果を挙げており、今後の発展を期待したい。


平成23年11月時点でのHPの追加投稿項目

2011-11-24 10:01:10 | 琵琶湖疏水

ホームページ http://www.geocities.jp/biwako_sosui/ の投稿追加項目は次の5件ですのでご覧ください。

第460話 分類:散歩道・東海道・第12号(2011-09-24、B-08-12)
      題名:2011年度車石・車道シンポジウムに参加して
      内容:第8回目を迎え講演会の内容にも深み(本部に配布資料のバックナンバーあり)

第461話 分類:技術・建設工事・第22項(2011-09-24、C-01-22)
      
題名:インクラインの追加情報(2)
      内容:蹴上インクラインのレール情報と伏見インクラインの年表を紹介

第462話 分類:雑件・その他・第38項(2011-10-20、G-02-38)
      
題名:武田薬品工業KKの「京都薬用植物園」を見学(事前申し込みが必要)
      内容:広大な敷地内の施設・栽培園の一部を参観、漢方薬の知識を取得できた

第463話 分類:雑件・その他・第39項(2011-11-27、G-02-39)
      
題名:日本新薬KKの「山科植物資料館」を見学(事前申し込みが必要)
      内容:説明が親切丁寧で、珍しい四季の花咲く薬草・薬樹が楽しめる

第464話 分類:文化・観光開発・第12項(2011-10-31、F-04-12)
      
題名:岡崎地区の夜のイベント「アカリとアートのプロムナード」展を見学
      内容:初めての企画で、岡崎の夜の観光について無限の可能性を感じた


講演会「幕末ニッポンに来た外国人たち」に出席

2011-11-01 22:05:13 | その他

 10月19日に山科アスニーで「幕末ニッポンに来た外国人たち」と題した講演会が開催された。私は幕末から明治にかけて来日した外国人について、一部の外国人を個別に調査したことはあったが、総括した本を読んだことはなかったので、事前に簡単な調査を実施したが、総数34万件というビッグサイトで、辞書の形で総括した本も4冊ほどあり、数十人の外国人の名前が紹介されていることを知った。講演の講師・川合章子氏の肩書は歴史ライターであり、1時間半の時間一杯わかりやすく解説していただいた。そして、講談社発行の著書「外国人が見た幕末日本」の紹介があったので手にいれて一読した。
     
           
山科アスニーの講演風景          著書「外国人が見た幕末ニッポン」の表紙
 
 講演内容は、文化5(1808)年から文久元(1861)年までに来訪した外人をアメリカ・ロシア・オランダに分けて、その間の歴史秘話を交えて面白く紹介していただき、知らなかった話題も多かった。また著書は、ペリー・ハリス・サトウ等幕末開国時に来日した23人の記録で、登場する外人が主人公で話しかけるスタイルの文体を採用しており、外人の詳しいプロフィールとエピソードがセットになっていてわかりやすい。
 日本人から見た登場人物の評伝と異なっている点もあるが、23人が共通して認めている日本人の評価は、先進国の貧民靴の生活様式や貧富の差と比較して、庶民や貧しい人達の生活が明るく楽しそうであることと、風景がすばらしいということである。また、馬足に草鞋をつけているのに驚いたり、奇妙な和服姿を珍しがったりしているが、知識を吸収して近代化を進める底力を持っている国であることを認めている。
 観光発展を進める京都も、外国人の旅行者や住民の意見をもっと集める必要性を感じた。300ページを越える著書は、専門的用語を避けてわかりやすく表現しているので、歴史書としての重みはないが、読みやすく一気に通読した。一読をお勧めしたい。


第9回京都学生祭典を見学

2011-10-11 21:20:09 | その他

 毎年秋に「京都学生祭典」が開催され、その活気あふれた若者の演技から「元気」をいただくために数年前からその一部を見学させてもらっている。昨年までは、踊りを中心とした岡崎会場と音楽を中心とした京都駅会場に分けて2日間かけて実施されたが、今年から両方を岡崎会場で1日で実施することになり、かなり混雑することを心配したが、天候に恵まれ久し振りに人波にもまれた半日を過ごした。
 京都市は、人口147万人の約1割に相当する17万人の学生が住んでいる学生の町である。
「京都学生祭典」は、その企画立案・運営~広報・警備・営業活動などすべての行事を学生が担当して実施するユニークなプロジェクトで、配布された資料に示された共催・後援・協賛団体をみると、京都の産・官・学・地域が一体となってプロデュースした祭典である。
 企画種目は年々充実されているが、今年はその中の「京炎 そでふれ!」コンテストに絞って人垣の隙間から覗くことができた。

 「京炎 そでふれ!」コンテストの会場は、平安神宮から赤鳥居までの神宮道に7ステージが設けられ、二条通との交差点に中央ステージがあり、神宮道にそって北側に3ステージ、南側に3ステージの合計7ステージで7分ごとに競演する。この演技には幼稚園から社会人まで全国各地から年齢やジャンルを問わない120団体が参加し、夜には決勝戦まで勝ち残ったトップ演技を楽しむことができる。

            
                             
 京都会館では、ドリーム・オーケストラや京都スチューデント・ミュ-ジック・アワードが開催されており、岡崎公園と岡崎都市公園では名産店めぐりや縁日が楽しめる。
 とにかく、これだけのイベントが同時開催できる施設のそろっている場所は岡崎しかない。しかし観る立場から言えば、行事が詰まり過ぎて現場で戸惑ってしまう。来年は音楽中心に楽しみたいと思っている。


山科区民フオーラムに参加

2011-10-05 22:42:14 | その他

 今年は「第二期山科区基本計画」が策定され、今後10年の町づくりをスタートさせる年として、10月01日に記念行事「やましな区民フオーラム」が京都市東部文化会館ホールで開催された。

 定員500名のホールをほぼ埋める参加者の下で、フルートコンサートのあと橘大学・織田直文教授の司会で、「多世代を惹きつける魅力に満ちた山科区をつくろう!」をテーマにして門川京都市長もパネリストとして参加し、活気ある討論が実施された。
 司会の織田教授は、主導しておられる「山科盆地景観委員会」でお世話になっている先生で、時間いっぱい議事進行を務められた。

 当日の午前中もう一つの行事として、山科の歴史を探索する二つの団体「ふるさとの会」と「やましなを語り継ぐ会」の~山科のいまむかしを知る“山科「温故知新」パネル展”が開催された。
 とくに興味があったのは、琵琶湖疏水の灌漑用水路網が高低差のある地域に誘導されているのを、高低差地図と関係図面でくわしく説明していただいた。
 
私は山科に移り住んで約10年になるが、山科の歴史を知らぬまま過ごし、最近になって研究会や市民団体にも参加し、いろいろと教えていただき、語り合う仲間も増えてきた時期で、今回のイベント参加は私にとって有意義であった。

 


平成23年08月度ホームページの追加投稿項目

2011-09-14 09:35:44 | 琵琶湖疏水

  ホームページ http://www.geocities.jp/biwako_sosui/ の8月度投稿項目4件は、ブログ232号で紹介しましたが、今回追加4件を投稿しましたのでご覧ください。

第456話 分類:雑件・その他・36項(2011-08-08、G―02-37)
      
題目:京の地図学者「森孝安の世界展」が2年計画で開催
      内容:京都アスニーで12回シリーズで開催、第一回展示会に参加

第457話 分類:散歩道・山科疏水・52項(2011-08-22,B-02-52)
      
題目:山科疏水(藤尾地区を含む)の歴史年表(随時追加)
      内容:歴史年表のまとめ、1年がかりで補充完成を目標

第458話 分類:散歩道・山科疏水・52項(2011-08-24,B-02-53)
      
題目:山科疏水を歩いて楽しむ策のまとめ(1)
      内容:ジョギングコースと橋について情報の集約解析

第459話 分類:散歩道・山科疏水・54項(2011-08-26,B-02-54)
      
題目:山科疏水の景観の特徴と問題点と活用策
      内容:景観面からの特徴と問題点・活用策について現時点における情報集約

 


四ノ宮舟溜り周辺に出没するイノシシの話題(4)

2011-08-29 22:59:53 | 琵琶湖疏水

 昨年8月にこの話題をブログに取り上げてから約1年を経過したが、子犬くらいのイノシシの子は順調に成長して立派な大人の姿になり、朝の時間帯に人の姿を無視して餌を求めて動きまわっている。ちょうど夏休みの時期と重なり事故の発生を心配したが、現在のところトラブルの発生は聞いていない。こと地域は、昨年来捨て猫の天国であったが、イノシシの出現以来その姿が少なくなり、最近では諸羽運動公園にある児童用プールの囲いの中(イノシシは入れない)で過ごす親子猫の姿をみるようになった、人慣れしたイノシシは安全かもしれないが、突然遭遇するとスピード感があって怖い存在である。やっと行政当局も山科疏水の各所に掲示板を立てた。

                     
                    2011∸08∸25∸4554 猫やイノシシに餌を与えないで

 この看板は、「建設局南部みどり管理事務所」と「山科区役所まちづくり推進課」が共同で立てたもので、次のように記載されている。
*野良猫が近隣の住宅に侵入し、いたずらやフンをするなど、近隣の皆さまが困っています
*餌付けされたイノシシが付近を徘徊しており、通行中の皆様に危険な状態が続いています
*イノシシは近隣の住宅に侵入し、庭を掘り起こし樹木や草花に被害をもたらしています
*安心のまちづくりに皆様のご協力をお願いします
 このほかにも、イノシシに刺激を与えたり、挑発したりしないようといった看板も存在する。
 私は今後ますます大きく成長するイノシシが公園内を自由に闊歩することを許してはいけないと思う。捕獲して山奥につれていく手段とか飼育場に移すとか何か具体策が必要と考える。当局もいろいろ考えての看板と思うが、餌を与えて大きく育ってしまったイノシシへの対策としては、問題の先送りではないかという感がする。突発事故の発生がないことを祈っているこのごろである。


京都市にも空襲被害があったという話題

2011-08-22 10:25:37 | その他

 毎年8月15日の太平洋戦争の終戦記念日が近づくと、戦争に関連した思い出話しの報道や展示会が開催される。今年は、立命館大学の国際平和ミュージアムで開催された「戦争展」で強制疎開の実態をマップで勉強(前報で紹介)し、東山図書館では強制疎開の様子を描いた絵画と東山区馬町の空襲被害の資料を見学した。

 私は、米国の日本歴史研究者であるウオーナー博士が文化財保護の立場から、京都市を空襲の対象から外してくれるよう進言したという古い知識しか持っていなかったが、戦後に米国極秘文書の公開で事実でないことが判明していた。これによると、京都市には20回に及ぶB-29機の飛来があり、東山区馬町と上京区西陣で爆弾が投下され、大きな被害があったという事実が数年前から新聞情報としてあったことをネット検索(京都空襲で数万件のサイト)で見付けた。
 さらに、京都が大規模空襲を免れたのは、原爆の投下候補地として温存されていたという記事もあった。馬町の空襲は昭和20(1945)年01月16日に警報なしに空襲があり、爆弾が投下されて、死者41名、300戸が被災し、西陣では同年6月26日(終戦の少し前)に空襲警報があり、爆弾7発が投下されて死者50名292戸が被災した。当時は機密事項として細部の報道もなく、手紙による連絡も禁止されたという。
 私は、数年来京都の歴史といえば琵琶湖疏水に集中していたので、地元に住んでいながら空襲の事実を知らなかったが、今年は東北大震災があったため新聞を読む範囲も広がり、疏水以外の京都の歴史に触れることが多くなった。私は空襲被害を軽減する目的で、道路の拡幅(建屋の強制疎開)のための住宅撤去や空襲による実被害など京都市が無傷でなかった事実を知り、改めて人災・天災の怖さを痛感した夏であった。
 私自身、三重県桑名市への勤労動員のとき、米機による機銃掃射の経験があり、故郷の伊勢市も焼夷弾攻撃の被害(我が家は無事)も経験した。金沢の旧制高校時代は、運動場に避難壕を掘り,敵機襲来に備えた。最近では世界各地で住民を巻き込んだ戦争が絶えない。その悲惨さを伝える戦争展を見て、いろいろと思い出させていただいた。


空襲対策のため強制疎開された京都の住宅

2011-08-12 20:17:03 | その他

 最近、西本願寺北部に立地する醒泉小学校の山科郊外学舎について調査を実施したときに、強制疎開の命で撤去された住宅についても情報の提供があり、併せて検討したが、空襲の被害のなかった京都市でも、延焼防止の目的で多くの住宅が終戦間際に強制撤去された事実を知った。その報告書をホームページに投稿した直後に、立命館大学平和ミュージアムで、第31回「平和のための京都の戦争展」が開催され、“京の建物疎開展”が含まれていることを京都新聞報道で知り、見学させていただいた。
   

     
    2011-08-03-4513  展覧会案内           2011-08-03-4507  強制疎開の対象になった地域コーナー

 本土の空襲が本格化した昭和19(1944)年7月から、京都市では空襲による延焼防止の目的で堀川通・御池通・五条通などが強制的に拡幅(5m→50m)され、その作業が終戦の日まで続けられた。このために約1万戸の民家が立ち退かされたのである。この状況を説明するために、実行委員会では戦前の住宅地図30枚をつなぎ合わせ、その上に拡幅された道路の輪郭を赤ペンで重ね書きし、撤去された住宅がわかる地図に仕上げてあった。
 醒泉地区で住宅撤去の被害者となった土山年雄さんから、終戦の4ヶ月前に3日間で立ち退くように命令されたと聞いている。また、「醒泉学区強制疎開の記録(太田嘉三)」の痛ましい記録のコピーを土山さんからいただいたが、展示会の説明者によると、強制疎開の実態を示す文書が整理保存されていないのが残念として、今回の展示の意義を強調されていた。私と同年齢と推定される見学者とも語り合ったが、強制疎開の経験者が多く、戦争の痛ましさを痛感した一日であった。