ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝玉虫色の口紅〟についての追補で~す!

2020年09月01日 | 俳句

 今日は晴れのち曇り…台風の影響があるのか、風はあるのですが、蒸し暑く最高気温も33度と、少しも快適な日ではありませんでした。このところ夏の疲れが出てきたのかしら、今ひとつ気分も低調! 

 いよいよ今日から9月ですね。大正12年(1923年)の関東南部を襲った〝関東大震災〟が、この9月1日ですので、この日を「防災の日」といい、俳句では「震災記念日」や「震災忌」ともいって秋の季語になっています。

  わが知れる阿鼻叫喚(あびきょうかん)や震災忌         

 この句の作者は京極杞陽(きょうごく きよう・1908年~1981年)。東京市の出身で高浜虚子に師事し、「木兎」(もくと)を主宰しました。本名は高光(たかみつ)、豊岡京極家13代当主で少年期から壮年期までは子爵の爵位を持つ華族でした。

 15歳の時、杞陽はこの関東大震災に遭遇し、姉1人を除くすべての肉親を失いました。人も羨む恵まれた環境から一瞬にして姉と二人っきりの悲惨な境涯となったのですから、それはとても私などの想像の及ぶところではないでしょう。〈阿鼻叫喚〉とは、八大地獄の阿鼻地獄と叫喚地獄のことで、その地獄に陥った者のように泣き叫んで救いを求めることです。震災の惨状を目の当たりにした作者にとっては、これ以上の表現は思い浮かばなかったのかも知れませんね。

 そういえば、今日の昼過ぎ北海道の十勝地方に地震があったとニュースで告げていました。しかし、震度3ぐらいではもう誰も驚かなくなって…、慣れって本当にコワイですね。

 新型コロナウイルスの感染に対しても最近は余り大騒ぎをしなくなっています。それで、ちょっと目を放したすきに、宇部市から毎日感染者が何人か出ていて、あっと言う間に40人にもなっていたんですよ。盆前は14人でしたのに。山口県も倍以上に増えて168人にも。だから〝また出たんだって〟と聞いても、みんな〝ふうん、そうなの〟ぐらいの反応なんです。知人や身内から出ない限りは驚くこともなくなったようです。

 さて、さて、皆さん聞いて下さ~い!前回のブログ「〝玉虫色に残暑〟って?」に、ブロ友のKUMIさんからコメントを頂きましたので、再掲させていただきます。(KUMIさん、ゴメンナサイ!) 

…でも、玉虫色に見える口紅は知っています。
子供のころ、家に貝に入った乾びた「紅」がありました。光線の具合で玉虫色に光って、綺麗なものでした。母はお化粧なんかしない田舎のオバサンでしたが、もらったという口紅を大事にしていました(母、明治32年生)。京都の土産に、従妹からもらった、と言っていました。
多分、山形の紅花で作った紅を、当時はまだ使っていたのだと思います。というような昔のことを思い出しました。昭和24.5年頃のことです。
京紅は今もあるみたいですから、やはり玉虫色になるのでしょうね。…

 そうなんです。私もブログUpした後に他のことを調べていて見つけたんですよ。「艶紅」としてウィキペディアに載っていましたので、今度はそれをちょっとお借りして…

 艶紅(ひかりべに・つやべに)とは、紅花の色素を梅酢で分離した色素。本紅ともいう。古くは口紅としても使われ、特に上質のものは京都でで精製されたため「京紅」とも呼ぶ。

紅花から分離した色素の溶液を、紅が退色しないように蓋が付いた白色の陶器の椀や猪口(伏せておけば光が入らないため)、あるいは貝殻に何度も塗り重ねて乾燥させた状態で販売されており、上質のものは非常に高価で、『金一匁(もんめ)紅一匁』という言葉通り、同じ重量の金に匹敵する価値があるとも言われた。なお、容器は再び紅を買う時に紅屋に持っていって紅を塗ってもらう事があったようだ。

純度が高い赤い色素故に赤い光を吸収してしまい、反対色である緑色の輝きを放つため、乾燥した状態では玉虫色に見える。江戸時代には、玉虫色の輝きを放つ紅は良質なものとされ「小町紅」という名で販売された。水を含ませると赤色になるが、唇などに塗り重ねると、やはり、玉虫色がかった色になる。

 浮世絵の美人画などの口元で下唇が緑色に見えるのがあります。純度が高く、精製の密度が細かい小町紅を何度も塗り重ねると、唇が玉虫色に輝くのだそうです。「笹紅」と呼ばれるこの斬新なメイク法は、新しいもの好きの江戸っ子たちの間で、たちまち大流行したんですって。

 このようなメイクがなぜ流行したのか、それを解くヒントが谷崎潤一郎の随筆『陰影礼賛』(いんえいらいさん)の中に見つけることができるんだそうです。ではその部分を…

 私が何よりも感心するのは、あの玉虫色に光る青い口紅である。(中略)あの紅こそはほのぐらい蝋燭のはためきを想像しなければ、その魅力を解し得ない。古人は女の紅い唇をわざと青黒く塗りつぶして、それに螺鈿(らでん)を鏤(ちりば)めたのだ。豊艶な顔から一切の血の気を奪ったのだ。私は、蘭燈(らんとう)のゆらめく蔭で若い女があの鬼火のような青い唇の間からときどき黒漆黒の歯を光らせてほほ笑んでいるさまを想うと、それ以上の白い顔を考えることが出来ない

 当時の小町紅は、現在の金額で1つ6~7万円という高級品。庶民の女性たちにはとても手が届きませんので、一般の女性たちは、下唇を墨で塗りつぶした上から、精製の粗い廉価な紅を塗り、流行の「笹紅」を再現したんだそうです。そんな謎めいた小町紅を唇に塗り重ねることで起こるある「変化」をいち早くファッションに取り入れたのは、当時大人気だった歌舞伎役者や、太夫や花魁など、身分の高い遊女たちだったのです。

 …と、いろいろ調べてくると、蛇笏の詠んだ「口紅の玉虫色に残暑かな」は、本当に玉虫色の口紅だったのだと思いました。若い頃は小説家を目指した蛇笏ですから、当然谷崎潤一郎も読んでいたでしょう。単純に赤い口紅が光線の加減でそう見えたのではないと…。エエッ、だったら遊女?いやいや、歌舞伎か何かを観に行ったとも…。赤線が廃止されたのは昭和21年らしいですからそれまでは東京にも吉原などたくさんの遊郭があったのですね。昭和31年売春防止法が公布され、それが実施された翌年にやっと遊郭も完全に姿を消したんですから。だから、孤高の俳人と言われる蛇笏サマだって…やっぱし男なんだし…なんて考えてたら…ああ、もうこんな話止めましょうね。せっかくの私の蛇笏像が…きっと小説的フィクションなんでしょう…アハハハ…。

 実はこの玉虫色に光る「小町紅」は、江戸時代から続く「日本最後の紅屋」といわれる「伊勢半本店」で、今も作って販売されており、さらにそこには「紅ミュージアム」(東京都港区南青山)というのがあって、口紅の歴史と「紅」の秘密が展示されているのだそうです。機会があったら是非行ってみたいですが…、今はダメですね。その紅ミュージアムの説明には…

 紅ミュージアムは、江戸時代から続く最後の紅屋「伊勢半本店」が運営する資料館です。文政8年(1825)の創業時から今日まで受け継いできた紅づくりの技と、化粧の歴史・文化を数々の資料と共に公開しています。併設する体験ゾーンでは、紅のお試しづけに加え、科学的なアプローチから紅ならではの色の不思議にせまります。「紅」を知り、学び、その美しさを体感できる空間、それが紅ミュージアムです。

紅のイメージ
 

 ちなみに「小町紅」のお値段は、普通のが14,000円~16,000円(税抜き)でした。高い!でも魅力的ですね。写真は、伊勢半本店様のをお借りしました。スミマセン。

 

コメント (10)
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