植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

立山初登頂と日本三霊山 -2(完)

2018-08-27 04:35:51 | 日記


北陸の観光スポットレポート その1(No.1365) 

◇立山初登頂と日本三霊山 -2(完)

8月11日(土)山の日立山の雄山に登頂し、日本三霊山(日本三名山)をついに達成しました。富士山には東京在住時の平成2年(1990)8月6日に"はとバスツアー"で登頂。
白山は金沢永住して2年目平成20年(2008)7月20日に日帰り初登頂以来毎年1回日帰りで10回登頂している。私は登山を趣味としているわけでなく体力テストのつもりで、白山日帰りに挑戦している。

■写真は一の越山荘(2705m)を見る



〇立山開山の資料

明治26年(1893)河合磯太郎氏によって、大日岳頂上付近にある修行の行われた洞窟から銅錫杖頭が発見されているが、剱岳の銅錫杖頭とほぼ同じころのものと考えられている。

銅錫杖頭は奈良時代(710 ?794)終わりから平安時代(794 ?1185)初め(1100~1200年前)に作られたものと考えられる。

全国の高い山には、奈良時代から平安時代初めにかけて開かれたものが多い。比叡山天台宗の僧、康済が9世紀後半に「越中立山」を開いたという記録がある。京都・随心院に残る延喜5年(905)7月11日の記録によれば、越中国の長官である佐伯有若が、自筆で名前を残している。「越中守従五位下佐伯宿祢 有若」「常設展示観覧の手引き」富山県立山博物館

■写真は一の越手前のメンバー



立山を開いたのは有頼? 有若? それとも狩人?狩人伝承が国守佐伯有若の伝説に変わって
いった?)

・「伊呂波字類抄」では、「立山を開いたのは越中守佐伯宿祢 有若であった」と いう。しかし、地元に語り伝えられてきた「立山開山縁起」では、「有若の息子である有頼が開山した」と伝えている。「立山黒部物語」立山黒部貫光株式会社

・「類聚既験抄」によれば、「狩人が立山で熊をうち、熊に矢を射立てた。熊は矢を立てたまま死んだ。その熊をよく見ると、金色に輝く阿弥陀如来であった。霊山と熊との深い関係が全国にある。山岳信仰に猟師が関与している。

・熊野権現の縁起では、「猟師が熊を射、血痕をつけていって、熊と思ったのが阿弥陀如来
であったことを驚き知った」

・羽黒山の縁起では、猟師が手負い熊を追っていく場面がある。

・金剛堂山の開山伝説では、役ノ行者が熊に案内されて登頂する。「立山連峰」文部省登山
研修所



■写真は一の越から雄山方面と雄山向かう石場





〇"立山"の山名と語義・呼称等について

・タチヤマ・・・・・そびえ立ちたる山
・顕ち山 ・・・・・神の降り立つ山
・大刀山 ・・・・・刀剱のように鋭い山
・多知夜麻・・・・・万葉集で詠まれる
・立山

■写真は雄山と雄山神社で祝詞の神主



〇佐伯 有頼とは

佐伯有頼(さえき の ありより、天武天皇5年(676年)頃 - 天平宝字3年(759年))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての人物。「立山開山縁起」に登場する人物で、越中国司・佐伯(宿禰)有若の息子とされる。霊示を受け、神仏習合の一大霊場である立山を開山したという。出家して慈興と号したと伝えられる。





■写真は雄山山頂(3003m・雄山神社横)とお札





■写真は雄山山頂より室堂方面





■写真は下山するメンバー



■写真はみくりが池



■写真は立山玉殿の湧き水



■写真は帰りの立山(バスより)

参考:国立立山青少年自然の家HP、立山アルペンルートHP、ウィキペディア、他

撮影:2018.8.11

(立山初登頂と日本三霊山 完)


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