ゲームホリック

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ホワイトバンドを肯定的に考える

2005年09月24日 | 雑記
 今週の『爆笑問題ノススメ』で姜尚中氏が述べていたこと
我々の世代(60年代に学生だった世代)はアメリカ文化にどっぷりつかって、アメリカを批判していたと。と言ったようなことを述べていた。(姜氏は反日の構造も同様のものでないかと指摘していた。)

 あの世代は政治に関心を持った熱い世代のように見えるが、その実は思想をファッションのように消費していただけだ。彼らの言葉を用いれば、ノンポリと何ら変わりはない。そのファッション性が無自覚であったことを考えると、主体性がない分、ノンポリと言われた人々よりも”ノンポリ”だったと言える。
 ひるがえって昨今のほっとけない運動のシンボル、「ホワイトバンド」に関するネットを中心とした言説を目の当たりにすると、今の世代の思想に対する旧世代との違いを感じずにはいられない。端的に言えば非常にまじめで、潔癖な印象を抱く。自らの生活とホワイトバンドの思想とを照らし合わせて、羞恥心を、嫌悪を抱く、偽善を感じるといった趣旨の主張の多いこと、多いこと。
 安易にファッションのような思想に乗らない人間が増えたと言うことはこの社会が少しは洗練されたことを意味するのかもしれない。だがここで少し考えて見たいのはその思想がどういったものであるのかということだ。反米や反日の思想は誰かを、国際関係を傷つけるかも知れないが、ホワイトバンドの思想はおそらく誰も傷つけない。傷つけるとすれば、そのバンドを身につけることでその思想と自らの実生活の実際に偽善を覚える本人ぐらいだ。少なくとも私はそう考える。自らの生活を省みると言う効果は少なくともある。

 だれも傷つけない思想であるならば、ホワイトバンドを身につけても良いと私は考える。またそれを身に着けることで、自らの偽善的な部分に気付かされるのであれば、別の面で効果があると言える。若いならなおさらホワイトバンドを身に付けることは悪くはない。

 先進国で21世紀に生を受けた人間にとって思想的なムーブメントというものはもうあまり残されていないだろう。それが誰も傷つけないのなら、そのムーブメントに乗ってみると言う選択肢も”あり”だと思う。せっかくのムーブメントだ。乗らない手はない。それこそもったいない。



 ただ私は資質的に何かのムーブメントはエレクトロニクス以外には乗れない人間であるためホワイトバンドは身につけることが出来ないが。


追記:少なくとネット上では賛否を含めて大きな話題となった。話題のされ方がたといネガティブであっても多くの人間が貧困問題に何かしらの意識を抱いたという一点においてホワイトバンドは役割を果たしたといえる。