ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

あなたは任天堂を信じますか?

2006年06月30日 | 雑記
 「あなたは任天堂を信じますか?」

 
 鈴木みそではないけれども、僕はある意味で任天堂の信者といえるかもしれない。任天堂のほとんど全ての作品の根底に息づいているあの優等生的感覚は好きじゃないし、スピリットとしては雑種でもきらっと光る(開発体制に問題は抱えているが)SCEが好きなんだけれど、上のような問いを投げかけられたら、そりゃ「信じてます。」と答える外は無い。

 
 任天堂を信じているとは一体どのような意味か。それは鈴木みそが言ったように任天堂の作品の本質的な質に対する無条件の信頼と換言できる。もしやすると信仰という非科学的な、再現性の無さを軸とする言葉はそぐわないかもしれない。好き嫌いはさておいて、任天堂作品の本質的な質の部分は「マリオクラブ」なんかのおかげで再現性を有しており、任天堂への無条件の信頼は根拠があり、まさしく信仰ではなく、信頼という言葉のほうがふさわしいかとも思う。


 


枯れた技術の水平思考

2006年06月29日 | 雑記

 言わずと知れた横井軍平さんの言葉なのだけれども、この開発思想っていうものは結構ごろごろ転がっている。誰かがどこかで言っていたけれども、ソニーのウォークマンって言うものはどこでも作れたはずのものであると。それを作れるか、作れないかを分けるのはもうアイデアでしかない。

 ipodもそう。ソニーが95年ごろから手探っていた次世代のポータブルオーディオを門外漢といって良いほどオーディオ業界から遠いアップルがipodという形で提示した。これもどこの会社でもある程度の技術があれば作れていたものなのに、どこも作れなかった。そこを分けるのはやっぱりアイデア。


 枯れた技術をどう結びつけて、何を作るのか。それは単なるアイデアでしかないのだけれども、このアイデアを思いつくということは新技術を開発すること同じくらい、もしかしたらそれ以上に難しいのかもしれない。

 ソニーが最近盛んにCMを打っているVAIO TYPE-Lはノートパソコンの亜種でしかないけど、これも枯れた(てないか)技術の水平思考の一例だ。

財布は少しは膨らんだけれど…

2006年06月24日 | ゲーム
 私ももういい歳を迎え、子どもの頃とは比べられないほどに、財布に余裕が生まれた。ある程度であれば財布に縛られることが無くなり、「大人買い」が出来るようになった。一本の値段が高いゲームソフトですら今や「大人買い」が出来るようになり、子どもの頃のように一々ゲームの情報を入念に吟味し、ファミ通のレビューに頼ることも無くなった。手当たり次第に買ってしまう。
 アルバイトや仕事を持つユーザーであれば、封を空けていないものや、開けたとしても中身に手をつけいていないゲームソフトの一つや二つあることだろう。


 だけれどこの「大人買い」はどうもユーザーばかりでは無く、ゲームを作る側も今やリッチになっているようだ


 MSNインタビュー:薗部博之さん「カルチョビット」 サッカーの魅力は「もどかしさ」

 以下引用

--ゲーム開発に大切なことは?

薗部 ゲームのどの部分を強調するかを決め、それを決めたら徹底的にそぎ落とし、シンプルにして、本質を強調するのが重要です。例えば、写真よりも似顔絵のほうが特徴が強調されていますよね。現実に近づけていくことが、リアルになるとは限らないということです。「カルチョビット」だって、2Dキャラがバタバタ動いているだけで、パッとみると全然リアルでないのに、試合を見ているとちゃんとサッカーのプレーをしているように見えてくるんです。<中略>昔のゲームはハードの性能上、データ容量に制限がありましたからどこを削るかで苦労しましたし、結果として特徴が強調され、ゲームに差が出ました。でもハードが進化して面白そうなことをなんでも入れてしまうようになった。結果として似たゲームが増えているのではないでしょうか。 以上
                 
 
 キャメロットの高橋兄弟(&鈴木みそ)も指摘していた通り、ゲームを作るということは切り取るということである。何かを違うメディアを用いて伝えるのだから、その時点で切り取る必要に迫られる。現実の物事をゲームに落とし込む場合、現実の情報量はあまりに膨大であり、現実の物事全てを再現することは不可能である。それは映画でも小説でも通じることであり、だから必然に物事の一側面を切り取ることしか出来ないし、人間もそれら全てを処理することは出来ないし、理解できない。
 ゲームも黎明期はもちろんそうだったし、今でも本質的な部分においてそれは変わってはいない。しかし現代のゲームの技術は昔のそれとは比べようも無いほどに進化している。今まで抽象的にしか描けなかったグラフィックが、より強力なCPUを得ることでより具体的に描けるようになった。そればかりかゲーム内容もより複雑なプログラムが可能になった。


 子どもの頃、お金の無い頃ゲームを買うということは私にとって一種のイベントだった。面白そうなゲームを雑誌などで入念に調べ、なけなしのお金を注ぎ込む。ゲーム屋さんもそうだったんだろう。出来ることが性能的に、容量的にも限られていたから、取捨選択をする必要があった。そしてそれは結果的にゲームの個性を生み出した。
 でも今じゃお金に余裕の出来た私は丹念に情報をあまり追わなくなり、面白そうなソフトは手当たり次第にゲームを買うようになった。その頃からゲームを買うということからイベント性が、ドキドキわくわく感がなくなってしまった。ゲーム屋さんも同じかもしれない。ハードがリッチになって園部さん曰く「ハードが進化して面白そうなことをなんでも入れてしまうようになった。結果として似たゲームが増えているのではないでしょうか。」

新しいゲームを造るということ

2006年06月19日 | ゲーム
 私はゲームを造ったことがない。だから適当なことをぬかす。





 テレビゲームを今造るということは大変に難しいことだろう、と開発者の苦労を空想しては、付随するであろう疲労感に敬意を示すと伴に、その不幸に同情の念を抱く。


 「ゲーム批評」にて「珍ゲー特集」にて、そのフロントランナーっぷりを評価されたソニー・コンピューター・エンターテイメント(SCE)は現状に対するアンチテーゼを(無闇やたらに)市場に投下している数少ないメーカーである。
 例えば、『どこでもいっしょ』などはその「珍ゲー」の中でも100万本を越える大ヒットを飛ばし、続編も多く作られた。また『パラッパ・ザ・ラッパー』にいたっては後の「音ゲー」市場の礎を築いたエポックメイキング的ソフトの1つであり、市場拡大の重大な役割を担ったソフトでもある。
 しかしこれらの「珍ゲー」は多くがヒットせず、それどころか市場に投入されたことすら多くのユーザーに認知されていないソフトが大半だ。そしてより問題があるのはこれらのソフトから、エピゴーネンというかフォロワー、つまりは類似したソフトが皆無であったという点である。



 このことに新しいゲームを”造る”ということの難しさが垣間見える。確かに新しいゲームはある種簡単に出来る。売れなかったSCE製の「珍ゲー」の1つであろう『MAWAZA』はそんなゲームの1つだ。
 「ボールをつないで、図形を作り、作った図形をぶつけることでフロアが現れる。その行為を繰り返してゆくことでキャラクターをゴールへ導く。」こう書いていて、いまいち分からない。
 このゲームは確かに面白い。既存のゲームから、パズルゲームからある程度遠い場所に位置しているゲームだと思う。つまりは新しく見える。あえて言えば、SCEの『IQ』に似ているかもしれないが。
 だが新しいがゆえに、ルールも新しい。そして残念ながら少なくとも、『MAWAZA』についてはルールが分かり辛い。ライトユーザーがメインとなるパズルゲームにおいてこれは大変に致命的である。それゆえにこのゲームの公式ではルールの説明に注力されている。


 
 そう、新しいゲームを造ること、生み出すことは大変に難しい。それは見た目が新しいものを”作る”ということと近似ではない。新しいゲームを”造る”ということは新しいルールを作るということなのだ。そしてまたそこにはエクスキューズが加えられる必要がある。それは分かりやすいということだ。
 「誰にでも分かりやすく、しかも新しいルール」を造ること。それが新しいゲームを造るということなのだ。そのゲームが例えどんなに面白くとも、新しいルールを持とうとも、そのルールが万人に理解し得ないものであったならば、そのゲームは決して売れないし、エポックメイキングには成り得ない。そして当然にフォロワーも出現しない。


 宮本茂氏ではないが、「真似されて、ナンボ」なのである。人に真似される、真似したくなるものを造るということは大変に困難なことなのであろう。