ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

破、凄過ぎでした

2009年07月02日 | 映画
TBSラジオで放送された「Life」の番外編の「ヱヴァスペシャル」を聴いてしまったら、堪えきれずに『ヱヴァンゲリヲン:破』を観に行ってしまいました。劇場に行くといつもの劇場とは違った客層だったのが「エヴァ」が「エヴァ」であることを思い起こさせてくれました。ここは秋葉原かという印象の一方で旧エヴァとは異なりカップルが多かったのも「エヴァ」が単なるアニメじゃないことをまた思い起こさせてくれました。



以下大量にネタバレです。注意。絶対ネタバレ見ないで映画館で観たほうが良いです。
ヱヴァ破





のっけから庵野総監督の趣味爆発でいきなり科特隊な効果音が鳴ったと思いきやミサトの車がマツダコスモスポーツ!などなど。ほかにもわんさかそれっぽいのが心なしかテレビ版よりも戦闘シーンが『ウルトラマン』のようなジオラマ感が増しているような。アスカが手にしていた携帯ゲーム機がもろワンダースワンで涙。「キュイィーーーン」の起動音が。カードリッジのラベルがファミコンのソレっぽいのはご愛嬌。『謎の円盤UFO』は該当箇所が分からなかったです。

ゲンドウが年食ったなぁというか、微妙に髪が伸びている感じでどこと無く監督っぽいです。作画の変更以上に意図的に見かけの歳が上がっている印象が強い。竹熊さんが指摘してたように、シンジのSDATは『序』からトラック25と26を行ったり来たりしていましたが、真希波がシンジにボーイミーツガールした(ぶつかった)途端にトラックが27へ。たぶんそういうことなんだなぁ。

後半カヲルくんが登場し、「今度こそシンジ君だけは幸せにしてみせる」と言い、綾波も意図的に状況を改善しようと努力していて(それが健気でとてもかわいい!)、それもシンジが変わったために及ぼされた影響に見えます。それはミサトやアスカにもあって、みながみな可能な範囲内で建設的にして行こうと努力していると。『序』の公開当時に囁かれていた、「ループ」設定は現実を帯びてきたように思います。鶴巻監督が言ったとされる山手線と京浜東北線というのがぴったり。


こうした「生きることを望む人々」はアニメ版・旧劇場版を知っているほど、キャラクターが魅力的に見えます。ファンの贔屓目ですが、こういうのを見ると『新世紀エヴァンゲリオン2(Evangelions)』の存在というものは何らかの影響を芝村さんの意図通り与えたのかなぁとうっかり思ってしまいそうです。新劇場版が全部終焉したらループを前提とした『エヴァンゲリオン3』とか出してくれないかと妄想をしてしまいます。


安直な言い方ですが、凄かったです。凄い情報量と迫力で圧倒されます。消耗させられます。ファンだったら、元ファンならそれこそ観に行くべき。細部の違いを探し出したらきりがないですが、エンターテイメントとして楽しむのが一番。エンターテイメントだし、分かりやすくなってはいるけれど、安直には落ちないのはエヴァは名前が変わってもエヴァだなぁ。『Q』が待ちきれません。

そしてゲーム版『破』はあるのか、あったとしてどうこれをゲーム化するのか。よほどの覚悟とテクニカルなものを持ってないとかなり難しいと思います。『エヴァ2』はエヴァに向き合ってましたが、『序』は見事に避けてしまっていたので駄作でした。それよりも出せるのかどうかですか。

ゲームシネマ、マックスペインに思う

2009年04月05日 | 映画
『マックスペイン』が公開されます。アメリカでは公開初登場1位で、作品自体もそれなりのアクション映画として評判です。ゲームシネマにしては『バイオハザード』以来久々のまともな映画のようです。


気になるのは、テレビCMやWEBCMでは一切原作に当たるゲームに関しては触れられていないということです。評価は悪くなく、全米初登場第1位、しかも主演はこのジャンルでは珍しいことにまともでメジャーな俳優、しかもマーク・ウォールバーグは原作のファンであるらしい。であるにもかかわらず、大々的に「あの大ヒットゲーム、待望の映画化!!」などとコピーを打たないのはゲームの映画化がネガティブな印象しか与えないのが明白だから。

ひっそりと公開された『レジェンド・オブ・チュンリー』は悪すぎるわけではないらしいですが、公開館数などハード面の諸条件はもちろんこととして肝心の主演俳優がせいぜいテレビシリーズの主演クラスであって、間違っても映画の主演クラスでは無い点などなど問題がありましたがまだましな方で、『デッドオアアライブ』は見るも無残なC級映画というのが見る前から誰もに明確な作品であったりと、このジャンルがネガティブしか見えない要素は十分です。


こんな惨状を見ると、日本ゲームの国内映画化などというのは夢のまた夢です。別に望みはしませんが、そういう可能性が否定されている現実というのはなんだか残念で奥行きが無いように思います。ゲーム業界にしても映画業界にしても。A級はA級として、C級はC級として受け入れられる土壌って凄いと思います。それが良いか悪いか、面白いか面白くないはまったく別次元として横に置いておけば。

『破』

2008年10月07日 | 映画
『劇場版ヱヴァンゲリオン』(公式)



さぁ、ようやく情報が出てきました。セガのプライズが「12月に出る」という情報を見て、今冬に公開かなぁと淡い期待を薄っすらと抱いていたのですが見事に裏切られてしまいました。結局『序』の公開から2年間というスパンでの公開になってしまいました。前作のラスト、予告に登場した女の子役の声優さんが松たか子さんではないかという怪情報ももはや忘却の片隅に追いやられてしまいそうなくらいに待ちました。

『序』が興行収入20億円、DVD売り上げ枚数が60万枚と公式で言われていますので、ゲーム化という選択肢も当然考えられているのだろうとまたまた淡い期待をしております。ガンダムゲーに良作は在っても、エヴァゲーには力作はあっても良作はないこの現状を打破してくれるようなエヴァゲー、もといヱヴァゲーを出してくれればいいなぁ。4部作完結は今のスパンで行けば2013年なので一本くらいは出そうな気がしますが…その頃僕は幾つなんだろうかと考えると絶望的な気分になります。


いつの間にか2015年になってしまいそうな感じです。

芝村裕吏の施策は効果を挙げたのか

2006年09月09日 | 映画
新世紀エヴァンゲリオン10年ぶり新作 (日刊スポーツ) - goo ニュース

 これは『新世紀エヴァンゲリオン3』なのだろうか。それともサンライズがこれまでに『機動戦士ガンダム』で行ってきたテレビシリーズを映画三部作で焼きなおすという例のスタイルをガイナックスが踏襲したと言うだけだろうか。

 数年前、プレイステーション2用ソフト、『新世紀エヴァンゲリオン2』が発売された際に、開発元のアルファシステムによる公式掲示板は、発売前に報じられていた自由度とのギャップやエンディングの少なさや簡素さによって大いに揺れていた。

 そのコンテクストの中で、開発者の芝村裕吏氏は『新世紀エヴァンゲリオン2』というゲームについて、「ユーザーがコントローラーを置くことが真のエンディングである」だとか「このソフトは庵野監督に『エヴァ3』を作る気にさせるためのものである」と言う趣旨の発言をしていた。


 直接な因果関係は無いんだろうけれど、これはこれで嬉しい。どうかバンダイナムコゲームスがプレイステーション3やXBOX360で『新世紀エヴァンゲリオン3』でも『4』でもだしてくれればそれでいい。

UMDーVideoの有り様

2006年08月29日 | 映画
 最近になってようやく低価格帯の商品が流通しだしたが、やはり未だに多くのUMDーVideoは発売当初のままにDVDソフトと変わらない3900円が中心価格帯だ。
 特に高いのが邦画やUMDアニメ。元々DVDも邦画やアニメは高い5000円以上などと言うのもざらにある。もちろんインターナショナルな洋画とナショナルで、ローカルな邦画やアニメとの収益モデルが異なることにそもそも大本の問題がある。
 またアニメに関しては主な購買層がコアなユーザーではあるが、そもそものマーケットの規模が洋画DVDのそれとは比較にならない。幾らコアユーザーが多かろうが、全体で見ればやはり少ない。それゆえUMDでもDVDのその価格を引きずっている。

 
 PSPでUMDが売れなかったのは間違いなくこの価格のせいだ。少なくとも一因であるとは断言できる。

 当たり前だがUMDはDVDと異なる。何が異なるかといえば、UMDはその記憶容量が大雑把に言ってDVDの三分の一。当然情報量が少ないということは映像画質の低下を意味する。

 UMDの最大のデメリットはUMDのメリットにもなりえる。UMDはテレビと比べれば遥かに小さいPSPのモニターでしか今のところ再生できない。そしてもちろんテレビなどへの出力は基本的に出来ない。それは要するにDVDと同じ地平にUMDが居ないことを意味する。
 と、言うことは競合することはないのだ。確かにDVDを買った人がUMDを買うことは、パソコンのスキルがあればあるほど、考えにくいが、逆であるならば、そして値段がUMDの方が安ければ、十分に有り得る話ではないだろうか。


 例えば、DVDが3990円でUMDが1480円在るならば、レンタルは面倒くさいと言う”お試し”で買う人は想定できる。そしてそれは新作であればあるほど。

 9月3日?に『Vフォーヴェンデッタ』のUMDが1500円でリリースされるので購入して見ようかと思う。ちなみにDVD盤より1000円ほど安い。

イエスタデイワンスモア的3丁目の夕日

2005年11月04日 | 映画
 『Allways 3丁目の夕日』公式

 なぜだかVFXを強調している感のあるこの映画。VFXは『リターナー』の山崎貴監督。
 
 日本はゲーム内CGやアニメーション分野などでは世界トップの技術レベルを有しているにもかかわらず、こと映画になるとガッカリな出来となってしまう。特に山崎監督のVFXは。

 実写とCGの合成は親和性が薄く、どこか浮いたような、違和感を覚える。そしてその違和感は作品への没入を妨げる。

 そんな山崎監督が再現した昭和も違和感の塊。無理からに作り出された昭和はどこか紛い物の雰囲気を放つ。美化されただけの昭和。まるでイエスタデイワンスモアの作り出した昭和のような。 
 

 CGは裏方であるべきだ。特にこういった現代劇の場合は。だがこの作品においてはCGはその力を主張しすぎている。映画自体からも、宣伝からも。意識させないCGこそ『3丁目の夕日』には必要だったはずだ。



 商業的な配慮のためか、ろくさんがろくちゃんとなり、茶川さんは青年になってしまった『Allways 3丁目の夕日』は懐かしい昭和でもなければ、西岸良平の『3丁目の夕日』でもない。西岸良平が確立した”昭和人情もの”というべきジャンルのマンガは近年のノスタルジーブームに組み込まれてしまった感がある。残念だ。

 現在一部地域で再放送中のアニメ版の方が原作に忠実な、単なるノスタルジーではない『3丁目の夕日』が楽しめる。

実写映画版、最終兵器彼女

2005年09月26日 | 映画
 実写映画版『最終兵器彼女』公式

 以下妄言
 実写版『最終兵器彼女』はCGをふんだんに使ってちせの兵器としての部分を描くそうな。でも日本の、それも映画界のあのチープなCGでどこまでできるのかまったく持って疑問。映画にだってできないことはある。
 素人の私が言うのはチャンチャラおかしいがもし自分がとるのなら一切CGは使わないで、ちせの兵器の部分は直接には描写しないけどな。反戦的なメッセージは確かにあるけれど、『最彼』の本質はやっぱり恋愛だから兵器を描かなくても高橋しんの描きたかったものは描けるんじゃないかなぁ。


 見てもいない人間がどうこう言うのはやはり問題だけど、面白い映画は断片の情報からでも面白さが感じられる場合が多いような。

ハチミツとクローバー実写映画化をネガティブに受け取る

2005年08月30日 | 映画
 『ハチミツとクローバー』映画化決定(ITGames記事)


 『NANA』の実写映画化を知ったファンはこんな気持ちになったのだろうか。


 『ハチミツとクローバー』の実写映画化が発表された。なんで映画化なのか、しかも実写で。何でも映画にすれば良い分けないだろなどと思ってしまう。

 『ハチクロ』の何が面白いかといえば、どこにでもいそうな人たちのどこにでもありそうな関係性や恋愛だろうか。だが登場人物たちは非常にイノセントな存在として描かれており、やはりそこから生まれる関係性や恋愛もイノセントなものであり、リアリティはない。どこにでもいそうな人たちはどこにも居らず、どこにでもありそうな関係性や恋愛もどこにも無い。恋愛したり、セックスをしたりするがそこには世俗的なものはなく、純真さと呼ぶべきものがあるだけだ。『ハチクロ』は一種の御伽噺なのかもしれない。まただからこそ本一冊の7割方がギャグであったりし得る。(現実感があったらとてもではないが、ギャグでここまですることはできない。)

 これらの要素を実写で表現できるのか。甚だ疑問だ。マンガだから、アニメだから獲得できた無垢。実写では決して得られない、そういう作品もある。公開、予告編すら公開されていない時点でこのようなことを考えるのは良くない。だが竹本君のコスプレをした桜井翔とはぐちゃんのコスプレをした蒼井優のイメージプレイが目に浮かんでしまう。


 アニメ版は本当に出来が良い。話ばかりではなく、キャラクターも良く動くし、声も合っている。惜しむらくは放送時間帯だ。もう少し早い、見やすい時間帯だったら良いのに。

アニメ界のサルバトール・ダリ、富野由悠季

2005年08月21日 | 映画
 BSマンガ夜話公式

 何かをなす人間と言うのはその人柄にひどく惹かれるものを持つような人間だと私は考えている。19日放送の『まるごと!ガンダム』の中で、『機動戦士ガンダム』総監督、富野由悠季氏のインタビューが放映されていた。
 そこに映っているのは世界のSF史に残る『ガンダム』を創った大御所ではなく、いまだにコンプレックスに苛まれる一人の表現者だった。『ガンダム』のムーブメントをオタク層のみと言い切り、もっと大きなコミュニティー、社会へ影響を及ぼせなかったことを悔やんでいた。またそこでは『スターウォーズ』への強烈な劣等感も憚らない。


 60は超えている人間の姿ではない。いまだに思春期の劣等感のようなものに取り付かれ、必死にそれを克服しようともがき、作品を作り続けている。やはりこの人も天才だ。そしてカッコいい。