ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

日本のアニメの特殊性、印象仮説②

2006年01月24日 | 雑記
 また構図にしても日本のアニメは欧米のそれとは異なる。ディズニーアニメ、『The Simpsons』や『South Park』と日本のアニメを比べるとある種別物といってよいほどに全く異なるものを目にする感覚だ。日本アニメの特殊性をさらに印象付ける。

 手塚がディズニーアニメに心酔していた事は良く知られている。特に映画『バンビ』を何十回と見たと言う逸話があるほどである。(最近その手塚による漫画海賊版『バンビ』が復刻出版されたことも記憶に新しい。)

 日本アニメ多くの場合、原作がアニメ以前に存在し、またその多くがマンガである。そしてそこにはアニメとマンガの一種の共犯関係が成立している。日本のマンガのコマ割りが特殊なのはそこの下敷きとしてディズニーアニメや映画の存在があるのではないだろうか。手塚がマンガを描く過程で下敷きにしたのは明らかに先にあげた両者である。手塚の『ロストワールド』などを見ると現在のマンガとは比較にならないほどにコマ割りが単調で、かつ非常に大まかなコマでしかない。いちいち大きい。印象として映画の一場面をスクリーンごと切り取ってきたような感覚を覚える。言ってしまうと後期手塚のように、今のマンガのようにコマが洗練されていない。そしてこの単調さは日本の最初期のテレビアニメ『鉄腕アトム』の淡白さにも通じていると思われる。
 そして私がこれらから導き出す結論として、現在の日本マンガのコマの運用と言うものは映画からきているのではないかという事だ。映画に、アニメ映画にあこがれた手塚をはじめとした人々がマンガと言う表現を選び取ったがために、日本のマンガはその初期から映画の影響を受けてきたのではないか。コマに映画を閉じ込めるにはスクリーンを切り取るだけでは足りず、コマ割り・構図に気を配る必要があったのではないか。そして同時にその影響は日本のアニメにも影響を与えてきたのではないか。そしてそうであるからこそ、現代の日本マンガは他のマンガに、アメリカンコミックにもバンドデシネにも共通しないコマ割り、構図を獲得できたのではないだろうか。日本のマンガとアニメは連続しているために、その影響を受けたのではないか。


 全く持って印象でしかない。なんらの検証もしていないので印象仮説というよりは妄想に近いが。後半は疑問文ばっかりだ。

時効

2006年01月21日 | 雑記
 なんとも、なんとも。同局の、同時間枠、金曜ナイトドラマ出身の『TRICK』を良くも悪くも強く、強く意識しているのかなぁと思ってしまう。
 主要キャラクターも、周辺の名もないキャラクターも皆ほぼ変。演出も変。キャストも狙いすぎ。狙いすぎてて鼻に付く。


 でも何故だか憎めない。面白い。時効を迎えた事件を趣味で調べるという設定も面白い。オダギリジョーは純朴路線だけれども、オサレでカッコいい。


 と思ったら脚本・監督が三木聡じゃん。純粋に、率直には、意図の通りには楽しめないけど、凄く面白い。

 追記:趣味ではないけれど時効を迎えた事件を調べると言うのは石森章太郎原作の同局のドラマ『おみやさん』で扱われていた。その点での新鮮味は無いかもしれない。

山崎まさよしと私

2006年01月07日 | 雑記
 山崎まさよし公式

 私の青春期の大半は山崎まさよしと供に会ったといっても過言ではないだろう。もちろん山崎まさよしとは一面識も無いが、ファンとして彼の音楽を受容してきた。

 田舎だったせいもあってか、友達は大抵B'zやラルクアンシェルのファンであったりしたので語り合う仲間は居なかった。そのせいかひたすらにまさやんが出ている雑誌を買いあさって読みふけっていた。ロッキンオンジャパンや音楽と人、ブリッジなどなど。(余談だがあの頃のロッキンオンは最高だった。ロゴと言い、記事と言い、山崎洋一郎編集長時代はアーティストのチョイスも最高だった。)

 そしてひたすらアルバムを聴き続けていた。もちろんいまのところまさやんの最高傑作、『HOME』を。当時はあれしか聞いていなかった。そして喉から血が出るほどに歌っていた。いや実際に喉から血が出ていた。自分で言うのもなんだがあの頃は本当に山崎まさよしだった。恥ずかしながらも録音した歌声はまさやんそっくりだった。
 そのうち調子に乗った私はまさやんのしゃべくりのまねまでやっていた。低い声で「えぇー、山崎まさよしです。」みたいな感じだ。誰も知らないだろうと高をくくり、学校の出席確認時、まさやんの声まねで返事をしたりして一人悦に入ったりもしていた。(一部の女子に気づかれたりしたことも今やいい思い出か。)

 もうすべてが山崎まさよしだった。見た目は似ても似つかないが。今思い返すと恥ずかしさと気持ち悪さで一杯だ。思春期丸出しだ。コンバース党だったのに、ライブでまさやんがアディダスを履いているのを見れば、次の日からあっさりアディダスになってしまったり、インタビューで毎日腹筋、腕立て伏せを欠かせないと言えば、自分もその通りにする。歌い方もまねした。首に青筋を立てながら、口を真一文字にして歌うあのスタイルを真似した。あまりやりすぎて身体化してしまい、今やカラオケで誰の歌を歌おうがあの首と口になってしまう。

 高校に入学した頃、ご他聞にもれずギターを購入。ろくにコードも引けないくせにまさやんを気取っていた。一曲でもまさやんの曲を弾こうと毎日毎日それはもう努力した。あれほど何かに打ち込んだのは受験を除いたらおそらく今までの人生ではないだろう。
 初めて弾けるようになったのは確か『中華料理』だった。今となってはまさやんにしてはなんてことの無い簡単なコードと進行であるので大したことではないと思うが、よほどうれしかったのかしばらく『中華料理』ばかり歌っていた。(3年の文化祭では教室で友達と一緒に『ソノラマ』あたりを遊びではあったが弾いたりもできるようになっていた。懐かしい。)


 そんな私であったが、受験に近づくに連れてまさやんの楽曲の変化のせいもあってか段々と楽曲と疎遠になっていった。まさやんに変わってスガシカオやCream、Muddy watersやミッシェルなんかに移っていってしまった。そして今日に至る。


 紅白でまさやんを観た。大晦日の寒空に桜木町で『One more time,One more chance』を歌うまさやん。演出と言うよりも声が出ないがための編曲、テレビの画面からでも分かるほどにかじかんで震える手での演奏を観ていると、何かがこみ上げてきた。やっぱカッコいい。でももうちょっとやせて欲しいかな。久しぶりにギターを手に取った。