ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

SIMPLEシリーズは開発費がSIMPLEだ

2005年07月30日 | ゲーム
 次世代機に入り、ゲーム自体の複雑化が顕著になり始めたころ、カルチュアパブリッシャーズ(現D3パブリッシャーズ)がシンプルで、しかも1500円という低価格な商品群、SIMPLE1500シリーズをリリースした。パソコンではそれまでに同様のコンセプトの商品がリリースされていたが、プレイステーションはもちろんコンシューマーでも初の試みであった。『THE麻雀』や『THEビリヤード』などはともに100万本のセールスを記録した。
 初期のシリーズはこれらに代表されるようにテーブルゲームの類であったが、シリーズ後半辺りから、その傾向に変化が見られ始める。例えば『THE登山RPG』だ。SIMPLEシリーズは『THE麻雀』のように既存のゲームのジャンル名が冠されていた。しかしながら登山RPGなどというジャンルは無い。登山をRPG化した今作の敵は山。既存のゲームでは見られない奇抜さだ。面白いかどうかはともかくこの奇抜さは評価されうる。
 プレイステーション2になってリリースされたSIMPLE2000シリーズとなると、この傾向はより明確になる。裁判をモチーフにしたADV『THE裁判』。巨大な美少女を倒す『THE大美人』。水着姿の美少女たち同士が戦う『THEキャットファイト』。巨大なありなどの宇宙からの侵略者に立ち向かう『THE地球防衛軍』。水着姿の美少女がゾンビを切りまくる『THEお姉チャンバラ』。
 こんなジャンルは聞いたことも見たことも無い。子供が妄想したような、酔っ払って企画されたようなとんでもないものばかりだ。はっきりといえば馬鹿なゲームだ。だがファミコン時代はこれらに負けず劣らないとんでもないゲームたくさんあった。しかしハードの高性能化、市場の拡大、グローバル化の進展などとともに、ゲームが小奇麗になっていった。ゲームは洗練されたが、灰汁は抜けていってしまった。SIMPLEシリーズはもうシンプルではないが、現代の多くのゲームには無いケレン味あふれる昔のゲームを思わせる愛すべきソフト群であるのだ。(出来においてもファミコン時代を彷彿とさせるものがあるがご愛嬌だ。)


 ちなみに発売されたばかりの『地球防衛軍2』は全国で品切れのようである。

ビバップファンは鴨ねぎなのか

2005年07月29日 | ゲーム
『カウボーイビバップ 追憶の夜曲』公式 

 キャラクターゲームに良ゲーなし。これは真理である。しかしそれは過去の話になりつつあると思っていた。最近のキャラクターゲームは概して出来がいいからだ。『ドラゴンボール3』はアニメと見まごうようなグラフィックばかりか、開発は元SNKのスタッフのディンプスであり、しかも本作で3作目であり、チューニング具合も非常に良く出来ている。『魔法先生ネギま 一時間目』はファン層のニーズを的確に捉えているばかりか、ファン以外にも訴求できるシミュレーションゲームとしての品質も備えている。



 地上波でのアニメ本放送当時に『カウボーイビバップ』は一度ゲーム化された。しかしながらゲームの中身といえばアニメの内容に直接には関係しない異世界が舞台であり、なおかつ3Dシューティングであった。正直、別に『カウボーイビバップ』をモチーフにする必要性の無いゲームである。詰まるところ典型的な昔ながらのキャラクターゲームなのである。
 あれから7年。『カウボーイビバップ』がゲームに帰ってきた。それがこの『カウボーイビバップ 追憶の夜曲』である。しかもプレイステーション2で。おそらく前作より良いものとなるだろう。そんな淡い期待であった。動画を見ただけで駄目さが伝わってくるゲームも最近では珍しい。キャラクターのグラフィックはトゥーンシェードによって表現されてはいるが、ドリームキャストの『ジェットセットラジオ』のクオリティにすら届いていない。近年のレベルのそれではない。またキャラクターのモーションもプレイステーション時代のレベルであり近年のそれではない。ポリゴンモデルによる芝居も同様の出来である。これをリリースするのはユーザーを鴨としか思っていないといわれても仕方の無い出来である。アニメ版のスタッフに対しても侮辱と取られかねないような有様である。
 ちなみにこの作品、キャラクターゲームのご多分に漏れず、CDやTシャツなどの特典つきの限定版が通常版に6000円増しの価格でリリースされる。見るべきところは菅野よう子氏の書き下ろし新曲CDと限定版使用の川本利浩氏書下ろしのジャケットだけか。


 7年たっても『ビバップ』ファンは鴨なのだ。いや鴨ねぎなのだろう。 



秀逸なゲームデザイン

2005年07月28日 | ゲーム
 テレビゲームとは何か。端的にこの問いに答えるなら、ボタンを押すことによってモニターに表示されたオブジェクトが反応するといったところだろうか。すべてのゲームは基本はこのように単純なのだ。『スーパーマリオブラザーズ』も『バイオハザード』も同じなのだ。では何が異なるかといえば、演出なのである。『マリオ』なら、ジャンプをし、『バイオ』なら銃を撃つ。そしてそれらの行為をその世界で必然性を持たせる設定なのである。それこそが各ゲームの個性であり、アイデンティティーなのだ。
 誤解を恐れずに言うならば、ゲームの面白さの本質は設定にあるのだ。ユーザーが面白いと思えない設定は、単にコントローラーをいじっているだけの状態となんらの代わりはないのだ。だから世間一般に糞ゲーと言われるものはこの点に大きな問題を抱えていると言える。
 この点で言えば、次世代機、殊にプレイステーションの功績は大きなものがある。それはCD-ROMという媒体、3D能力に優れたハード、そしてSCEという企業そのものの資質に由来している。つまりはカードリッジ媒体ではないことによる、音の表現の進展と容量の増大、ハードによる表現の多様化、旧来のシステムにはじかれたソフトメーカーへの寛容及びSCE自身の奇抜さ、もしくは一般性である。
 そしてそれらの要素が絡み合って生まれたのものの代表作が『パラッパラッパー』である。基本的にはただ単に音楽に合わせ、ボタンを押す、ただそれだけなのだが、設定、そしてそれを担保する表現が秀逸であった。キャラクターはロドニーさんこと、ロドニー・アラン・グリーン・ブラッド氏のポップで可愛らしいデザイン。そのデザインを安易に3D化せずに、あえて一枚のポリゴンの上にテクスチャでキャラクターは表現した。それによってロドニー氏のキャラクターはゲームの中でもポップであり、その魅力は失われなかったばかりか、その目新しい表現によってより魅力的なものとなった。またゲーム自体もヒップホップを初めロックやレゲエなど耳に心地よい音楽に乗せて、ラップを刻んでゆくという斬新な設定は単なるボタン押しゲームを心地よく、楽しいゲームに変えた。 

LOVE FOOTBALL

2005年07月25日 | ゲーム
http://www.xbox.com/ja-JP/press/release/20050725-1.htm

 今日次世代XBOXことXBOX360への参入メーカー及び対応タイトルの発表が行われた。なんとも驚いたのがD3パブリッシャーのカルト的な人気を得ている低価格ソフトの続編(?)『地球防衛軍X』と『お姉チャンバラX』だ。気になるのは低価格路線で行くのか、あるいはフルプライス化するのかだ。ほぼないに等しいストーリーや頭が痛くなるような処理落ち、フレーム落ちなど、低価格であったから許せた要素がどうなるのか。(さすがに処理落ちは360ではないだろうが)
 コナミのエロプロレスこと『ランブルローズ』の続編(もしくはバージョンアップ?)なども発表されていたが、もっとも気になるのはナムコの『LOVE FOOTBALL』だ。『フットボールキングダム』の続編かと思いきや、動画を見る限りではどうやら『リベログランテ』の続編のようだ。続報が待ち遠しい。またトレジャーやグレフといったメーカーの参入表明も興味深い。

 と、ここまで見ると魅力的なタイトルに映るが、これはあくまでコアユーザーに限っての話である。発表されたタイトルの中には確かに『ウイニングイレブン』や『機動戦士ガンダム』などのタイトルなどがあり、マイクロソフトのライトユーザー獲得の意思が見て取れるが、どちらのタイトルも360への独占供給では恐らくないであろう。それではライトユーザーを取り込めるようなキラータイトルとはならない。またどちらのタイトルともロンチではない。ロンチの段階でライトユーザーに訴えるキラータイトルがなければ、いくらMTVでCMを投下し続けても、現段階で認知度が低いXBOX360は危ういだろう。また『ファイナルファンタジー11』は『FF』であるといえど、ナンバータイトルではなく、まだライトユーザーにとっては敷居の高いオンラインゲームであり、加えて現行ハードにおいてもリリースされているソフトである。

 東京ゲームショウでの新たな隠しだまに期待したい。やはり一強皆弱の状態は長期的に見るとよろしくない。『LOVE FOOTBALL』に期待。

過去の表現

2005年07月24日 | ゲーム
 ゲーム業界というところはやはりゲームを工業製品としてしか捉えていないようだ。もしくは玩具の一分野としてしか。メディアアートなどいうものはアウトオブ眼中なのだ。(もちろんゲームの制作がメディアアートのそれとは比べられないほどに大規模であり、組織的であり、それゆえ利益を得ねばならないという、大きな違いは存在するが)
 ゲームにおけるオブジェクトの描写はすべてハードウェアの性能によって、もたらされてきた。それは線による表現であり、ドットによる表現であり、ポリゴンなどの3D物による表現である。ファミコンになるとドット絵が全盛となり、スーパーファミコンになるとより色数を増やしたドット絵が主流になり、プレイステーションになるとポリゴンなどの表現がメインとなった。

 ここで重要なことはこの表現の変遷はハードウェアが進展したことのみが理由であり、そこには製作者による表現の必然などは皆無であるという点である。新しい表現こそが良い表現であると考えていたかどうかは分からないが、少なくとも発表された作品を見る限り過去の表現を自覚的に表現方法のひとつとして捉えている作品はごく一部の作品に限られる(それも何故かSCEの作品、『幸福捜査官』でのキャラクターや『フリップニック』の一部のステージなど)。現在リリースされる最新作に過去の表現が見られることはまずない。如何にリアルか、如何に原作の漫画に忠実か、などの3D表現の洗練にのみ力を注いでいる。

 それは良いことなのか。過去の表現を表現の一つとして捉えることをしてみてはどうか。過去の表現は表現の一つなのである。そこに必然性があれば、決してユーザーに否定をされることはないはずだ。


 色数の少ないドット絵のゲーム、ポリゴン数が少なくテクスチャーも張られていないゲームもプレイしたい。表現には意味がある。どの表現を行う人々も意識的にそれらを選択してきたのだ。にもかかわらず、ゲーム業界というものはほぼそういった思考は皆無である。


 

ゲームリパブリック

2005年07月23日 | ゲーム
 岡本吉起は何がしたいのか。いや私が勘違いして変な期待を抱いていたことにやっと気づいた。元HAL研の桜井氏や元セガの水口氏たちとは異なり、この人は自身でも言っている様にオリジナルな作品を創るクリエイターではない。既存のゲームを自身の方法で再構築するクリエイターなのだ。
 『ストリートファイター2』は前作から受け継いだもの。『バイオハザード』は『アローインザダーク2』を下敷きにしている。これらを初め、どれも既存のゲームの流用であり、新機軸のものではない。だがどのソフトもテレビゲーム史に残るエポックメイキングなゲームばかりだ。『ストリートファイター2』は格闘ゲームというジャンルを確立し、『バイオハザード』はその後の3Dゲームに大きな影響を与えた。
 だが今回の『GENJI』はそれらのどれにも当たらない。強いて言えば、氏の『バイオハザード』の派生作品『鬼武者』のようだ。そして『GENJI』は『鬼武者』の派生と言える。そこにはゲーム的な面白さは神威アクションのみであとは『鬼武者』そのもの。氏の過去の作品のように新機軸では決してない。だが過去の作品と違うのは他社に影響を与えるような力を持った、面白さを持ったゲームではないということだ。ゲームパートとムービー。やっぱりこれは『鬼武者』だ。

 独立後初の作品であるから、手堅く行ったのだろうか、それともこれが岡本吉起の限界なのか。ただ事情を知らない人間が思うのは、『GENJI』なら上場企業にいても創れたのではないか、ということだ。『バイオハザード』における『鬼武者』や『デビルメイクライ』と何の違いがあるのだろうか。 
 新機軸でなくとも『ストリートファイター2』や『バイオハザード』のようなゲームをファンは期待しているのだ。そのようなゲームがリリースされることを切に思う。


 昨日のPlayStation Meeting 2005でPS3での『GENJI2』の制作が電撃発表された。だがどのくらいのユーザーが続編を望んでいるのか、甚だ疑問だ。

ゲームでの自由とは

2005年07月22日 | ゲーム
 日常は退屈だ。映画やドラマのような出来事などはたいていの場合起こらない。退屈な日常を変えるのは、非日常を手に入れるのは難しい。だから人は娯楽に走る。結果が現実には反映されない非日常を間接的にでも経験したいのだ。ヒーロー、ヒロインに自らを重ね合わせ、没入してゆく。そして日常には決して無い非日常を生きる。
 例えばそれはゲームである。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』ならば、モンスターと戦い、世界を脅かす絶対悪との戦いの日々を迎えることが出来る。『スーパーマリオ』では恐ろしい魔王から姫を奪還する。日常では決して直面することのない非日常を経験することが出来る。
 しかし昨今それまでのスケールの大きなゲームがリリースされる一方で、自由度の高さを強調するゲームが続々とリリースされている。自由度の高いゲームとは何でも出来る(ように感じる)ゲームのことである。
 全世界で大ヒットしているピカレスクゲーム、『グランセフトオート』シリーズは暴力描写ばかりが取り上げられているが、自由度の高いゲームとしても知られる。ストーリーを進めなければその行動は本人のまさに自由である。別に車泥棒をしなくても良いし、通行人を殺さなくてもよい。売春婦を買うか買わないかもプレイヤーの自由なのだ。それこそプレイヤーの倫理意識に委ねられているのだ。『ワールドネバーランド』では現実世界のように家庭を持ち、社会生活を営む。『ガンパレードマーチ』などでは現実世界のように人間関係の中にくらし、仕事をする。そしてAI相手ながらも、人間関係にもさらされる。『ファイナルファンタジー11』などのMMORPGにおいてはゲームの中の相手はプログラムではなく、生身の人間だ。そこには日常世界と同様の煩わしい人間関係も存在する。自由度が高いということは現実社会に近いということであり、日常に近いということなのだ。
 だがなぜ人は非日常をゲームに求めているにもかかわらず、日常に類似した自由度という名を冠されたゲームを求めるのだろうか。『ドラクエ』などのゲームであれば、わずらわしい人間関係など存在せず、イベント以外では何も言わない仲間と情報をもたらす村人と倒すべき敵がいるだけだ。
 突然にもたらせる非日常よりも日常から一端を見て取れることの出来る非日常、日常とつながっていて、自らの意思によって選び取れる非日常を、それこそを真の非日常と捉えるのかもしれない。例えば映画の中の非日常。『GTA』シリーズにも影響を与えた映画、『タクシードライバー』の主人公は社会に不満を抱きつつ、淡々と日々を送る。そこで描かれる非日常は突然に生起するようなものではない。彼はそんな日常を日常の1コマの中で少しずつ非日常へと転換させてゆく。ふとした出来事によって良い意味でも、悪い意味でも世界が一変してしまう。日常でのフラストレーションの蓄積が暴力という形で噴出。そう、非日常は日常とは異なる地平に存在しているのではなく、地続きに存在しているのだ。

 自由度を求める背景には唐突に現れる壮大な非日常よりも自らが選べる日常という形の非日常というものに対しての憧憬を抱いているのだ。つまりは現実の世界でも何かをしようと思えばすることは出来る。だがそこには周囲の目などのリスクがあり、また望んだ結果にはならないかもしれない。だから人はそのようなリスクの無い非日常を、自由度のあるゲームを好むのだ。

PS2 ICO

2005年07月21日 | ゲーム
 手を繋ぐという行為はとても切ない。そこには世俗的な性の匂いはなく、純粋な好意だけなのだ。ただ手と手が密着しているだけなのに、その後に何かがあるわけではなく、日が暮れれば、時間が来れば、手をほどいて別れ別れになるだけなのに。ただただ切ない。
 ゲームでもそれは変わらなかった。やはり手を繋ぐことは切ないのだ。どこか遠くにある広大な、美しい城の中で言葉の通じない女の子と手を繋いで進んでゆく。そしてこの世界には無粋なパラメーターもない。画面の中には背景とキャラクターしかいない。そればかりではない。手を離せば、彼女は何者かに連れ去られてしまう。それをプレイヤーはただの木の棒で追い払う。差し詰めちょっとした白馬に乗った王子様だ。でもこの王子様はその女の子とは決して結ばれない。切ない。
 
 プレイヤーの操作によって主人公は動き出す。ボタンを押している間だけ、主人公は女の子と手を繋ぐ。当然ながらボタンを離せば、主人公も手を離す。なんともインタラクティブで、感情移入を促される。また設定では言葉が通じない、主人公には角が生えている。これが主人公と女の子の間の性的なもの可能性を完璧に排除している。純化された関係性はプレイヤーをも純化させる。
 
 なんともやさしい、そしてそれ以上に切ないゲーム。終わってほしくないと初めて思ったゲームだ。

PS ボクサーズロード

2005年07月19日 | ゲーム
 スポーツゲームを含めて、格闘ゲームというものはその文法を今に至るまで変化させていない。例えば、体力の表示。FC時代からPS2時代に至るまでバーゲージによって表示してきた。あるゲームでは0に近づくにつれ、色が赤くなってゆく。またあるゲームはバーゲージではなくよりデジタルに、点(例えば『ロックマン』の体力表示)で表示をした。そしてそれらが未だに体力表示の主たる表現である。ミリオンヒットの『真・三国無双』シリーズ、『デビルメイクライ』シリーズなどもこの表示方法である。
 これはスポーツゲーム、ボクシングゲームにおいても同様である。任天堂の『パンチアウト』をはじめナムコの『ファミリーボクシング』も。PS期ビクターの『ビクトリーボクシング』など、PS2期ではEAの『ノックアウトキング』シリーズも同様の体力表示方法である。  
 リアルな表現が推し進められてきたPS期、PS2期においても体力の表現方法においては前世代のままなのである。8bit期なら性能の問題でバーゲージなどのほかには表現方法が無かった。だがハードの性能が向上したPS、PS2などにおいては他の表現方法も可能であったはずであるのに現れなかった。

 そのような流れの中で唯一の存在、異彩を放つ表現方法をとったのがNEWの『ボクサーズロード』である。『ボクサーズロード』ではそれまでのゲームにあったような体力表示は取り払われ、すべてを画面のなかのキャラクターの動き、音、コントローラーのレスポンスの変化によって表現している。スタミナが落ちてたり、ダメージを受けすぎるとキャラクターのモーションがスローになり、レスポンスが悪化する。たったこれだのことだが、その効果は絶大。直感的にキャラクターの状態を把握することが出来る。またバーゲージなどではキャラクターの体力が尽きるのをデータで分かるため緊張感を欠く部分があったが、キャラクター自体での表現によってより緊張感のあるゲームプレイが可能になった。
 しかしこのゲームは体力表現ばかりではない。操作方法も右手、左手にそれぞれストレート、フック、アッパーの三種類のパンチが当てはめられており、多彩な攻撃が出来る。またスウェイやガードもありボクシングの戦略性も再現されている。加えて実際のボクサーやボクシング漫画の必殺技なども盛り込まれている。またポリゴンキャラクターも個人的には大変魅力的なカクカクしたポリゴンで表現されている。

 ちなみに開発もとのNEWはPS2において実質的な続編であり、キャラクターゲームでもある『はじめの一歩』も開発している。
 
 

MD バーチャルバート

2005年07月18日 | ゲーム
 キャラクターを用いたゲームに面白いゲームは少ない。洋の東西を問わず、これは心理である。特にゲームの作りが荒かった時代の西、アメリカのゲームはかなり酷い出来のものが多い。
 本国アメリカばかりではなく日本でも人気の高いテレビアニメ『ザシンプソンズ』もそんなゲームを数多くリリースしている。歴史があるため、FC時代から数多くの作品が発売されているがそのほぼすべてが典型的な作りの悪いキャラクターゲームであり、『バーチャルバート』もそんな作品の一つである。レスポンスは悪く、ゲーム内容もどこかで見たようなものにキャラクターをただ当てはめただけ。そして難易度もレスポンスの悪さもあいまってか、アメリカ生であるからか、不条理に高い。
 だが見るべき点もある。シチュエーションだ。赤ん坊になって、街を行くステージ。豚となって、場から逃げ出すステージ。トマトを道行く人にぶつけるものなど。原作の雰囲気に合った演出も見られ、その点ではなかなかの出来である。ただステージ構成などに既存のゲーム以上のものは見られず、また水準以下であるためゲームとしての出来はやはり酷く、ファンアイテムの域を出ない。

 と、つまらなくファン以外には訴求しないこんなゲームも何故か市場価格は異常に高い。SFC版とMD版が存在するが、SFC版がせいぜい3000円程度であるのに対し、MD版は50000円もするという。MD末期に発売中止になるのではという状況の中での発売であり、日本国内ではマイナーなキャラクターのゲームであったことであったために、出荷数が少なかったことがその理由であるようだ。
 
 高いゲームが面白いゲームであるわけではない。プレミアがついているゲームが面白いゲームではない。このゲームはそんなことの好例もである。