ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

雑感:体験版ラッシュ

2009年11月26日 | 雑記
PSNでPSPの体験版がここ数日立て続けにリリースされてます。本当に良い時代になったものです。

『.hack//Link』(バンダイナムコゲームス)
『.hack//Link』の体験版。『.hack』シリーズ自体初プレイでしたが、所謂「モンハン」タイプの中でもポップな仕上がり。連携技やコマンドアクションなどなど非常にサイバーコネク2らしいアクションゲーム的な仕上がりで、ゲームスピードも本家『モンハン』やそのフォロワーの中でも群を抜いて速いです。期待が大きいだけにどのメーカーもそつなく作りこんできている印象です。

『剣闘士 グラディエータービギンズ』(アクワイア)
『剣闘士 グラディエータービギンズ』の体験版。パブリッシャーがアクワイアに変更され、しかも権利委譲で、アーテインではなくなってしまったのが非常に残念ですが、開発は呉匠のままなので安定感は抜群です。というか、PSP版の方がPS2版よりもプレイしやすいです。そもそも前作も非常に経済的なミニマムなシステムだったのがさらに輪をかけてミニマムに。場所移動も完全コマンド化。


特に『剣闘士』が良かったです。タイトル名やそのフォント、副題とかはB級丸出しで普通の人は敬遠しかねないもののように思えますが、中身はPS2版のまま。携帯機で『グラディエーター』が出来るって素晴らしいです。操作感覚も違和感が無いですし。

雑感:DSi LLを見てみて

2009年11月22日 | 雑記
アマゾンでは早々に在庫が切れ、大手家電量販店では発売日当日に行列が出来るなどその盛況さがレポートされてましたが、実際にその状況を目にしてみると、確かに売れて居そう。


たまたま近所の大型スーパーに行ってみると、なにやらおもちゃ売り場近辺が込んでいました。見事にDSi LLを買い求めるお客さんたちでした。CMのターゲット層や当初の予想とは異なり、ぼくが見かけた範囲ではやはり高齢者というよりも小学生低学年から高学年くらいの層が主要な購買層のように見えました。

老眼仕様だとかいろいろ前評判が悪かったですが、蓋を開けてみると純粋に画面の大きさは若年層には大きな訴求要素になっているかもしれません。確かに画面のサイズが大きくなれば、プレイしたソフトでも新鮮にプレイできるかもしれませんし。特に子供にはそういう単純な進化のほうが歓迎されるかもしれません。


で、実物を実際に見てみると画面の大きさはやはり新鮮に映りました。これは早々に買ってしまうかもしれません。

車のCM

2008年03月16日 | 雑記
「FIT.ギャラリー」(公式)


何気なくテレビを見ていて、ホンダのFITのCMが流れていた。
QUEENの曲がかかってる綺麗なCMだなとしか思ってなかった
のだけれど、よくよくこのCMを見ていたらCMの主人公っぽい
白髪の白人のおっさんは車に乗るのに、一切運転してない。

車のCMなのに運転していないって凄いな。いやむしろ車自体の
求められる要素が変わってきていると言うことなのかも知れなけど。
日産のティーダのCMでも車を中心にスーツ姿の外国人たちが
ティーダの外装、内装を眺め回している。そういうことなのかな。

変わることの必要

2007年06月22日 | 雑記
『セクシーボイスアンドロボ』の最終回。主人公たちを非日常の世界へと導いた地蔵堂の人々は”引退”と称して、主人公たちの街から姿を消して主人公のニコもロボも日常に戻り、別々になる。

地蔵堂の店主との別れに際して、ニコは店主から「変わってゆくこと」の重要性と必要性を説かれる。人間は変わらなくてはいけない。「変わってゆくこと」には自分自身ばかりではなく、周囲やその環境も含まれる。

数話を除いて、このドラマを大半見てきた人間の認識としては、ドラマの魅力の大部分をドラマのキャラクターたちの魅力が占めていたように思う。類型的に云うならば、『うる星やつら』に代表されるような「閉じた学園祭」的箱庭の心地よさが、このドラマの魅力の大きな部分であったと思う。その魅力を最終話で手ずから放棄する。

このドラマに限らず、こういった箱庭的な心地よさを持つドラマは少なくなく、古くは『踊る大走査線』、最近では『時効警察』などがあげられると思うが、多くの場合その魅力であるところの箱庭は視聴者、ユーザーの暗黙の、時には公にされた要望によって閉ざされたままであった。「永遠の学園祭」的心地よさを最終話で軽く批判をした『時効警察』でさえ自らそれを放棄はしていない。


そこに異を唱えて、「変わってゆくこと」を求めたのが前出の『うる星やつら』の劇場版『ビューティフルドリーマー』であり、監督の押井守であった。「永遠の学園祭」の体現作たる友引町の人々に、そこから降りること、現実に帰ること、つまりは変わってゆくことを求めた。
『新世紀エヴァンゲリオン』で、監督の庵野秀明はその変わることの矛先を作品内のキャラではなく、客である視聴者、オタクに向ける。そして劇場版ではオタクを現実に返すこと、アニメと云う「永遠の学園祭」から降りることを促すことを仕掛ける。


どちらも意図は達せ無かったようだろうけれども。



『セクシーボイスアンドロボ』のエピローグでは、結局、ニコは変わってゆくことを決意し、地蔵堂とももう一人の主人公であるロボとも別れる。将来二人の人生がクロスするのかのようなおまけは製作者の視聴者への優しさだったのかな。


人間はいつまでも子供ではいられないわけで、いつまでも学生ではいられないわけで、いつまでも同じ場所にも留まれない。多分そういうことなんだろう。翻って、僕自身はどうなのか。変われるのか、変わるのか。

学園祭はいつか終わる

2007年06月09日 | 雑記
押井守監督が劇場用アニメ『ビューティフルドリーマー』の
中で『うる星やつら』の「学園祭」的状況の永続性を批判した。

庵野秀明はテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』の
最終2話で、苦し紛れのようにも思えるが、同様の自己批判性に
基づいて”はずし”を行ってる。
劇場版にいたっては、ファンが求めていた(であろう)
永続性を否定してしまった。



んで今日の『帰ってきた時候警察』最終回では
最終回前からのファンによる続編希望に対して
自覚的に、署員を「家族」に例えた中で
「なんかもう~ こんな感じで
みんなで暮らして行けたらいいかもぉ~」
と三日月が云う。
そんな彼女の言葉に署員は次々と「そんなわけには行かない」
と冷静に返答をして行く。
そして課長の熊本さんが
「人間はなぜ間違うのか 
それはずぅぅぅっと同じことが続くと嫌だからさ」
と格言めいた言葉を発したのに続けて核心へと導く。
「総武警察だっておなじだろ? 
ずぅぅぅっと同じとが続いたら嫌だろ?」と。



まぁこれからも何らかの形で続編なりが
作られることにはなるのだろうけれど
少なくとも、三木聡監督は
そこにあまり意味を見出していないと
思われる。

備忘録

2007年06月08日 | 雑記
5月携帯電話契約の純増数、ソフトバンクが初のトップ(ロイター) - goo ニュース


今回のソフトバンクの契約者数の純増は
現在の機種ラインナップを見ると
むしろ機種が訴求したのではなくて
サービスが訴求したと思われる。
ってか記事にも書いてあるし。

ソフトバンクがサービスを主に売っている一方で
auことKDDIはイメージを
売ってきているように思われる。
デザイン携帯などにしても、実際に
ユーザーに訴求する以上に
イメージ自体で訴求しているように
思われる。

んで、ドコモは今までPやNみたいなハードを
売っていたんだなぁと思われる。
だからこその機種への依存な訳で
詰まる所の「Docomo 2.0」キャンペーン
なんだろうなぁと思われる。

携帯小説は全面化するか?

2007年02月12日 | 雑記
普通の若者が携帯小説 ベストセラーも続々(朝日新聞) - goo ニュース


 携帯小説の一番の特徴である会話の多さは、その多さと情景描写の少なさをもって文学から批判されてきた。 しかし果たしてその批判は的を得ているのだろうか。少なくともそれは旧来的な文学の評価基準の範疇でしかない。

 例えば、この会話の全面化を意識の変化と捕らえることはどうだろうか。これまでの読者とこれからの読者の注視する先の変化というか。これまでの読者はその興味の対象として世界があった。それはすべてを包含した世界。君も僕もあなたもあの人も、通行人や見知らぬ人も含まれる。

 しかしこれからの読者は果たして同じ世界を生きているのだろうか。その世界には「君と僕」のきわめて狭い、言うなれば一次元的な世界しかないように思える。「君と僕」を結ぶX軸しか無いような。それは良い、悪いの話ではなくて、そうとしか捉えられないものである。そしてもっと言うならば、君と僕は掘り下げられない。

 「君と僕」で何が重要かと言えば、二人の関係性でしかない。内面が要らないのだから表層の会話だけでも小説として受け入れられるのではないか、と考える。だから心象風景や情景描写は望まれなくなった。だからこその文学離れであり、だからこその携帯小説ばやりなのだと思う。


 それにこの状況は決して携帯小説に限られないことは明白で、純文学とは言わないまでも文学小説のヒット作品を時系列的に読んでゆけば年々レトリックが減少していることを実感できるはずだ。

世界観、もしくは設定の大切さ

2007年01月29日 | 雑記
 日本テレビ系列で放送されているクイズ番組、『サルヂエ』が今春をもって終了してしまう。


 『サルヂエ』は元々日本テレビの深夜のバラエティ枠での放送だった。深夜に、つまりは大人向けになぞなぞ番組を放送するという意外性もさることながら、私自身の印象としてはやはり得意な設定こそが『サルヂエ』が人気を獲得し、ゴールデンにまで進出した要因だと思う。

 『サルヂエ』では藤井隆さんと故岡田真澄さんが何故かサルに扮して、ホモサピエンスと侮蔑する芸能人にクイズを出してゆく。これだけでも十分に特殊であったが、さらにセットもバラエティー番組、特にクイズ番組ではそれまで見られなかったような暗めのセット。
 また回答者が4人であったことは満遍なく司会者との掛け合いを楽しむことが出来た。


 深夜の大人向けの時間帯になぞなぞという特殊性を、猿の扮装、暗めのセットがさらにその特殊性を際立たせていた。付け加えるなら、なぞなぞのクオリティも理不尽なものが少なかった。



 なぞなぞという番組の本質の部分も確かに重要である。しかしながら『サルヂエ』が深夜の時間帯で人気を博した背景にはここまでに述べたような演出の力がある。現在の『サルヂエ』を目の当たりにそれが明白となるだろう。潜在視聴者が最も多いゴールデンという時間帯に、明るめのセット、数十人の回答者。
 ゴールデンになってからの番組のリニューアルというものは『サルヂエ』が持っていた特殊性、アイデンティティとも言える部分が猿の扮装以外ことごとく排除されてしまった。またリニューアルによって放送時間が倍加したために、番組内容もそれまでのなぞなぞばかりとはいかなくなってしまった。


 

買い物に行く

2006年07月26日 | 雑記


 買い物へ電気屋まで行く。最近驚くのは街中で携帯ゲーム機を触っている人間を良く見かけると言うこと。そしてその光景が今までと異なるのは子供だったり、オタクのお兄ちゃん達ではなく、老若男女を問わなくなってきたと言うこと。

 電気屋に行けばDSステーションに若い人から老人までが取り囲んで、何やら体験版をダウンロードしている。老人がゲーム売り場でゲームソフトを眺めていたりとびっくりするような光景を目の当たりにしてしまった。
 そういえば先日人間ドックを行う施設に行った際、待合室でおばあさんがDSをいじっていた事にも衝撃を受けた。
 PSPにしても若い男女を中心に音楽プレイヤーとして使用されているのを良く見かける。今日も数人見かけた。


 数年前では考えられない、大人が携帯ゲーム機を街中で使用している、と言う光景を目の当たりにしてゲームが如何に日常となったかを思い知らされた。


 買い物の目的であった雑誌のバックナンバーはなかった。何しに出かけたのか。

カズオちゃんをころころキラーする

2006年07月15日 | 雑記

 小粒が結構リリースされている今週。結局買ったのは『LocoRoco』や『P3』でも『問戦士』でも無く今更に『カズオ』を購入する。

 始めて驚いたのはこれが日本製ではなくて、SUMOーSTUDIOなるヨーロッパのメーカーが製作したということ。コピーライトにもSCEEとあるし。それを考えると、なんか突き放したゲームデザインが納得できる。CMを見てあのかわいげなキャラクターを期待すると、良く言えばそのさっぱりした、悪く言えば簡素なインターフェースに度肝が抜かれる。火とか水とかある意味凄い。

 肝心の中身はさすがブームの中心地で作られたソフトだけあって、初心者の私にはデザイン以外何の不満も無い。ロードも別に気にならないし。あともうちょっとローカライズすれば、可愛くすればなぁ。

 と、思いながら片手間に『キラー7』をやってしまう。おぉ、これは!!やっぱりゲームでないぞ!!さすがグラスホッパーだぁ。