―「物語のメディア」としてのゲーム--「インタラクティブ性」がもたらす弊害:第1回(GameSpot Japan)
ゲームのインタラクティブ性が物語に弊害をもたらすというのがピンと来ない。
以下思ったことの箇条書きと散文
・ゲームにおける物語は設定。始祖は『スペースインベーダー』。
・宇宙人が地球に侵略してくるという物語=設定。
・既存の物語とキャラクター自律後の物語との違い。
・既存の物語では登場人物は物語を駆動するための装置。
・キャラ自律後の物語はキャラに物語性が内包される。というか必要無い。
・キャラが物語に先立つ存在になる。
・こう考えると、現代ののキャラ自律後の物語はゲームに適すはず。
・インタラクティブ性が物語を阻害すると考えうるのは旧来の物語の場合。
・物語がキャラによって帰結されうるというポストモダン的な立場をとるのも面白い。
・それは物語り自体の排除なのかもしれない。
・余計なストーリーが無い世界で、ゲームシステムとプレイヤーの対話を物語と呼ぶのである。
・そのためには記号的な描写ではなく、感情の判断が出来る情報量や対話可能なほどの高度なAIが必要。つまりはそれがヴァーチャルリアリティ。
実際には高度なAIや高度な情報をもったグラフィックも必要ではないのかもしれない。『どうぶつの森』は極めて緻密に管理されたフラグや台詞、そして世界観で従来のクリエーターによる壮大な物語ではなく、こじんまりしたそれもプレイヤー個別の、それこそインタラクティブな物語体験を与えてくれる。同じようでいて違う。それはMMOのRPGの体験、そして物語に似ているかもしれない。
プレイヤー自身が物語を自ら作り挿入出来る余剰のある設定があれば、それでいいのかもしれないし、それこそがインタラクティブメディアたるゲームの物語のあり方なんじゃないかとも思える。自分の作った物語を伝えるだけなら小説でもマンガでも映画でも出来る。ただしそこにはインタラクティブ性は得られない。規定された物語しかないからだ。
だから記事内で言及されている「ルドロジー」と「ナラトロジー」という2つの学派の対立もまったく必要の無い対立だと思える。ゲーム性の重視と物語性の重視は決して対立しはしないのだとぼくには思える。ゲームをプレイすることで生まれ得る物語の成立は可能なんじゃないだろうか、と。体験=物語として。ただしその物語を従来の物語と比して幼稚とされるかもしれないが。
・ゲーム=インタラクティブと言う場合のその範囲はどこまで。
・例えば、マルチエンディングのゲームもあるが一本道のゲームの方が多い。
・何を持ってインタラクティブ(=相互作用)とするのか。
・ゲームのインタラクティブ性の中で物語を成立させようとするならば、物語=設定に寄り添ったシステムが必要なのかもしれない。
ゲームのインタラクティブ性が物語に弊害をもたらすというのがピンと来ない。
以下思ったことの箇条書きと散文
・ゲームにおける物語は設定。始祖は『スペースインベーダー』。
・宇宙人が地球に侵略してくるという物語=設定。
・既存の物語とキャラクター自律後の物語との違い。
・既存の物語では登場人物は物語を駆動するための装置。
・キャラ自律後の物語はキャラに物語性が内包される。というか必要無い。
・キャラが物語に先立つ存在になる。
・こう考えると、現代ののキャラ自律後の物語はゲームに適すはず。
・インタラクティブ性が物語を阻害すると考えうるのは旧来の物語の場合。
・物語がキャラによって帰結されうるというポストモダン的な立場をとるのも面白い。
・それは物語り自体の排除なのかもしれない。
・余計なストーリーが無い世界で、ゲームシステムとプレイヤーの対話を物語と呼ぶのである。
・そのためには記号的な描写ではなく、感情の判断が出来る情報量や対話可能なほどの高度なAIが必要。つまりはそれがヴァーチャルリアリティ。
実際には高度なAIや高度な情報をもったグラフィックも必要ではないのかもしれない。『どうぶつの森』は極めて緻密に管理されたフラグや台詞、そして世界観で従来のクリエーターによる壮大な物語ではなく、こじんまりしたそれもプレイヤー個別の、それこそインタラクティブな物語体験を与えてくれる。同じようでいて違う。それはMMOのRPGの体験、そして物語に似ているかもしれない。
プレイヤー自身が物語を自ら作り挿入出来る余剰のある設定があれば、それでいいのかもしれないし、それこそがインタラクティブメディアたるゲームの物語のあり方なんじゃないかとも思える。自分の作った物語を伝えるだけなら小説でもマンガでも映画でも出来る。ただしそこにはインタラクティブ性は得られない。規定された物語しかないからだ。
だから記事内で言及されている「ルドロジー」と「ナラトロジー」という2つの学派の対立もまったく必要の無い対立だと思える。ゲーム性の重視と物語性の重視は決して対立しはしないのだとぼくには思える。ゲームをプレイすることで生まれ得る物語の成立は可能なんじゃないだろうか、と。体験=物語として。ただしその物語を従来の物語と比して幼稚とされるかもしれないが。
・ゲーム=インタラクティブと言う場合のその範囲はどこまで。
・例えば、マルチエンディングのゲームもあるが一本道のゲームの方が多い。
・何を持ってインタラクティブ(=相互作用)とするのか。
・ゲームのインタラクティブ性の中で物語を成立させようとするならば、物語=設定に寄り添ったシステムが必要なのかもしれない。