ゲームホリック

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ゲーム批評への難癖2&

2005年09月07日 | ゲーム
『ゲーム批評Vol,57』第一特集「任天堂は負けるのか」
著者の橋本和明氏は過去の開発環境に見るPSPの展望と題する記事で以下のように述べている。
>> どう考えてもゲーム機としてのPS2はやりすぎだったように思える。PS2のゲームでは特に、見た目などゲームとしては不要な部分での費用がかかりすぎてしまっているので、システム的な部分を丁寧に作るまでの費用がねん出できない。
>> 故に、見た目だけが綺麗な売れないゲームが出来上がってしまう。結果として売り上げが赤字になると、シリーズ化なんて話は出てこない。もしくは、売れる数に合わせたゲームを作るが、どこも無難に調整されたゲームにはパワーがないので、自然とユーザーが離れる。こういったどちらか一方にしか力を注ぐことのできない開発環境により、近年、ゲームは衰退したと考えられる。
>> PS2への進化は仕方がなかったとはいえ、存在は決していいものではなかっ>>たのだ。
>> 対して携帯ゲーム機は、電池で動かす(GBASPはバッテリーにはなっているが、電池2本で5時間程度の充電が可能)、という基本コンセプトを持っているため、機能を高くできない。機能が低いというのは、前述しているように、開発へのコストが低下することでもあるため、実験的タイトルが気軽に開発できた。けれど「PSP」の登場で、そのメリットは消えつつある。(『ゲーム批評Vol,57』26ページより引用)

 橋本氏はグラフィックの高度化の責任をPS2に求めている。しかしそれはテレビゲームがパソコンの延長戦にある技術である以上当然である。遅かれ早かれグラフィックの高度化はどこかのメーカーによって行われていた。それは任天堂であったかもしれない。橋本氏の主張にはグラフィックの高度化を憂いているというよりもPS2の存在自体を売れいているようで仕方が無い。


 一番の問題はグラフィックの表現方法に明確なヒエラルキーが出来上がってしまったことにある。ポリゴンは高度な表現であり、2D表現は劣った表現であるという意識がユーザー、メーカー双方に根付いてしまった。それゆえ過去の名作ソフトが次世代機で再現される祭には必ずといっていいほど3D化されてしまった。例えばそれは『悪魔城ドラキュラ』であり『ロックマン』であり『ドラゴンクエスト』だ。
 ゲームの開発費が何故高騰したかといえば、ゲーム表現の主流がポリゴンになってしまったからだ。しかもそのポリゴンを使った表現のほぼ全てが”リアル”な表現を目指したものであり、そこには必然として細部にわたる作りこみへの欲求が生まれる。全てのオブジェクトをポリゴンで描写し、しかも細部にわたる作りこみを行えば、開発費が上昇するのは当然だ。
 

 テレビゲームがコンピュータの延長線上の存在である以上、グラフィックを含めての技術の進化は嫌でも免れることはできない。それが嫌ならDSのようになるほかは無い。だがDSが売り上げはさておいて、デバイスとして新たなものの提供に成功しているとは思えない。ならば私たちがすべきことはユーザー、メーカー双方に根付いてしまったグラフィック表現のヒエラルキーを壊すことだ。ポリゴンもドットも同じ地表に捉えること。それこそがいま必要なのだ。(またポリゴン表現の多様化も必要だ。現在のポリゴン表現は実写の代替的な部分が多い。『幸福捜査官』のように生のポリゴン自体をひとつの表現として捉える試みが必要だ。)



 橋本氏は見た目はゲームに不要と言い切っているがそれは間違いだ。確かにゲームの本質はゲームのルールにある。しかしながら優れたグラフィックが無ければ、テレビゲームは面白くならない。『スーパーマリオブラザーズ』のマリオやクリボーがただの点で表示されているだけだったならば、果たしてあれほどの大ヒットをなしえたのだろうか。極論ではあるが。