ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

バーチャルリアリティは現実ではない

2006年09月25日 | ゲーム


 その昔、17歳の犯罪がクローズアップされていた時。その犯罪を誘発したとしてテレビゲームが槍玉にあがった。やれ「テレビゲームのバーチャルリアリティと現実との区別が付かなくなっている」だとかそういったステレオタイプな論調が幅を利かせていた。今でこそそう簡単な論調にはなっていないが、若年層のやんちゃでない人物によって犯罪が引き起こされたときなどはたまにそういった論調を目にした。


 しかしながら、しかしながらである。ここで大きな疑問が私には湧く。果たしてテレビゲームの提供している所謂バーチャルリアリティとは現実と区別が出来ないものなのか。断言できる。残念ながら今現在のテレビゲームは現実と区別することが誰にでも容易な極めて陳腐なバーチャルリアリティと言わざるを得ない状況である。


 それはただ視覚的なことに限られない。今のゲームはあまりにゲーム的過ぎる。そのゲームでかなえられる欲求は短絡的で、そして極めて原始的な欲求を充足させることのみにしか注力をしてはいない。そこには現実世界のようなやるせないことは無く、ましてや絶望など、「物語」としては有り得てもユーザーの実際として知覚できるようなものは唯の一つも存在しない。


 そんな陳腐なゲームで、どのよう現実と履き違えることが出来るのか。彼の現実と言うものはドラゴンや魔王を倒したり、戦争に行ったり宇宙人と戦ったり、女の子と恋愛しているような破天荒な現実か。否であろうことは疑いようも無い。

脅威の1024ビット機、プレイステーション3!!

2006年09月24日 | ゲーム
 ドリームキャストの頃位まで、ハードのパンフレットには「○○ビット!!」とか「××ビット級!!」とかの表記が踊っていたけど、最近ではトンと見なくなった。ファミコンやPCエンジンは8ビット、メガドライブはその倍の16ビット。メガドライブにはハード自体に金字で「16bit」と誇らしげに印字されていたっけ。


 スーパーファミコンでは16ビットとメガドライブに追いついたもの、今度はプレイステーションが32ビット、セガサターンが自称64ビット級を打ち出して、そのためか極めつけのようにニンテンドー64はハードの名前自体に64ビットを主張していた。


 そしてドリームキャスト。どこかに128ビットと書いてあったような…。最後にビットに関しての表記を見たのはゲームボーイアドバンスくらいだろうか。32ビットと書いてあったような。


 いつの間にかゲーム機はビット数を語らなくなってしまった。何か昭和の匂いをかもすビット数。よく分からなかったけれど、友達と張り合ったビット数。「16ビットだからファミコンより凄いんだぞっ!!」とか次世代戦争に際しては「プレステは32ビットだから勝ちぃ~!」だとか「64ビット級なんてウソばっか!!」とか「本当の64ビットはニンテンドー64だけだっ!!」等の様々な良い相が分からないながらもあった。

プレステ3の大きな筐体には久多良木健社長の壮大な夢が詰め込まれている。

2006年09月23日 | ゲーム


 以前SCEの広報の方からお話を伺う機会があった時のこと。広報の方はSCEを評して、「久多良木健の夢を実現させる会社」であると明言しておられた。

 久多良木健と言う人物はSCEそのものなのだ。広報自体がSCEが久多良木健の野望を実現させるための会社であることを明言するほどなのだ。また広報の方はソニーと言う名前からSCEに安定を求めている方はお間違えなきようにとの言葉も付け加えた。

 プレイステーション立ち上げ当時も大賀さん以外は全員反対。「Do it!!」と机を叩いて賛成したとされる大賀さんでさえも積極的な賛成と言うよりも久多良木氏に根負けした形での賛成であったという。言わばSCEはソニー内独立愚連隊のような位置づけなのであろう。



 SCEはソニーの戦略的商品を作る企業ではない。久多良木健とイコールなのだ。それゆえに普通の企業が持つような計画性や根回しと言った部分の欠如を感じる。今回の演説で語られたグリッドコンピューティングもプレイステーション2の説明会の当時も述べられていた。


 それゆえに今回のメガドライブの問題も当然なんだろう。

シミュレーション的テニス、みんなのテニス

2006年09月13日 | ゲーム

 体験版を3時間ほどプレイした限りの印象はまさに『みんなのゴルフ』のテニス版だ。画面のレイアウトやリプレイに代表されるような『みんゴル』独特の演出はそのままにテニスが展開されている様は日常的なものが変容したような違和感。昆布や鰹節ではなく鶏がらで出汁をとった味噌汁の違和感。味噌汁は昆布や鰹で出汁をとるものと言う常識と言うか、固定観念があるように、あの演出は『みんゴル』のものであり、ゴルフのものであると言う固定概念が頭をもたげてしまうという感覚だ。

 要所要所のこだわりも『みんゴル』のそれだ。ボールがラインぎりぎりでインだった場合、「オン ザ ライン」(?)と表示されたりと様々なプレイに細かく名称が与えられているところやネットに近づくとカメラがよったり、これまでのテニスゲームと比べてコートの左右の端まで移動できるなど細かな部分の工夫が面白い。それに加えて全体のレスポンスもかなり良い。


 ただ少し引っかかる点もある。ボールを打つ際の一瞬のラグというか溜め。もちろん意図したものだとは思うのだけれど、『パワースマッシュ』などでは移動しながら打てるが、今作の場合は打つと足が止まる。だから全体的に少々テンポが悪いように感じた。
 また少々サービスエースやリターンエースが決まりやすかったり、アウトになり易かったりするように感じた。あとプレイヤーが全てロブで返していると、少なくとも私が3時間プレイした限りで、CPUは不自然な形でミスをして返せない。
 まぁこれは体験版であったり、私のプレイの癖に由来するものであるかもしれないので、製品版やプレイする難易度によっては異なるかもしれないので欠点ではないだろう。

芝村裕吏の施策は効果を挙げたのか

2006年09月09日 | 映画
新世紀エヴァンゲリオン10年ぶり新作 (日刊スポーツ) - goo ニュース

 これは『新世紀エヴァンゲリオン3』なのだろうか。それともサンライズがこれまでに『機動戦士ガンダム』で行ってきたテレビシリーズを映画三部作で焼きなおすという例のスタイルをガイナックスが踏襲したと言うだけだろうか。

 数年前、プレイステーション2用ソフト、『新世紀エヴァンゲリオン2』が発売された際に、開発元のアルファシステムによる公式掲示板は、発売前に報じられていた自由度とのギャップやエンディングの少なさや簡素さによって大いに揺れていた。

 そのコンテクストの中で、開発者の芝村裕吏氏は『新世紀エヴァンゲリオン2』というゲームについて、「ユーザーがコントローラーを置くことが真のエンディングである」だとか「このソフトは庵野監督に『エヴァ3』を作る気にさせるためのものである」と言う趣旨の発言をしていた。


 直接な因果関係は無いんだろうけれど、これはこれで嬉しい。どうかバンダイナムコゲームスがプレイステーション3やXBOX360で『新世紀エヴァンゲリオン3』でも『4』でもだしてくれればそれでいい。

不自然なSF、形だけのファンタジー

2006年09月01日 | ゲーム
CEDEC 2006:クリエーターの努力次第で“新たなゲーム表現”が生まれる(ITmedia+Dgames)

 
 ゲームが、少なくとも日本資本のゲームが袋小路に入ってしまった要因はまさに名越氏が指摘しているようにゲーム業界が表現と真正面に向き合うことを避け続けてきたことにあるのではないか。

 何をするにもどこかで見たことのあるようなSFやファンタジー。それは名越氏によれば、積極的な選択の結果ではなく、批判を避けるための隠れ蓑として消極的に選択された帰結であるという。

 現代的なモチーフを扱ったものは少なくともバイオレンスが身体性を持ちえるようなアクションゲームからは排除され、SFやファンタジーばかりが題材として扱われ、それが業界内で再生産され続けてきた。プレイヤーもクリエーターも。

 そして、その再生産に自らを組み込むことが出来なかったユーザーは自主的にゲーム業界から退場して行く。また新規のユーザーにとって業界内再生産によって純度を増したテレビゲームが非常に高いハードルと成ったことは疑いようが無い。

 システムや操作はもちろん、ゲームデザインすら新規ライトユーザーにとってあまりに解しがたいものと成っていたであろう事は経験上からも想像に難くない。



 今のゲーム業界は煮詰まった鍋だ。それもただ意味も無く煮込んだだけの鍋である。好きな人はその濃厚さが好きだが、一見さんにはその濃さは耐え難いものであるのだ。「脳を鍛える」ようなゲームばかりがライトユーザーに訴求するわけではない。名越氏が言うように新しいゲームデザインを提示できれば、ライトユーザーに訴求できるはずだ。

 これなんかその一例だ。