ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

日本のアニメの特殊性、印象仮説①

2005年12月31日 | 雑記
 日本アニメは特殊だ。それは欧米のアニメとの相対によって用いられる言葉だ。

 欧米のアニメは非常に頻繁に動くが、日本のアニメは止め絵が多い。欧米のアニメは絶えず動く。静の場面においても背景や周囲の人間、キャラクターの所作が生々しく描写される。一方日本のアニメは良く動く場面とほとんど動かない場面がある。ある場面では画面狭しと動き回るが、またある場面では目と口がかろうじて動くばかりである。
 この差が何に起因するかといえば、周知の通り資本力の差である。手塚アニメの昔から日本アニメは資金難から逃れられず、その中でアニメーションを展開させるため長回しの如く、止め絵を多用してきた。日本アニメをめぐる製作資金の状況はそれ以降も変わらず、故に日本アニメは止め絵を多用せざるを得なかった、との説明が広くなされている。


 しかしながら果たしてそれだけの理由であったのだろうか。日本のアニメに止め絵が多用されるのには他にも理由があったのではないか。私は以下のように考える。
 日本のアニメは手塚アニメが始祖である。そしてそのアニメは手塚の漫画作品『鉄腕アトム』が原作である。言うまでも無いが『鉄腕アトム』は漫画である以上、その表現方法は絵とセリフ。もっと言うならばそれは止め絵なのだ。止め絵が原作であるので、アニメーション表現もそこに引きづられる。言うなれば日本のアニメというものは動く漫画に過ぎないのだ。だから押井作品などの一部を除いては必要以上のセル数は使わない(使えない?)、艶めかしくない。
 翻って欧米のアニメはおそらくは映画、実写を元として、非常に写実的に製作されている。かつてディズニーのアニメーションは一旦実写で撮影した後にそれを動画にしたという。元が実際に動く人間、もしくは映画であった故に欧米のアニメーションは滑らかなのだ。もちろん潤沢な予算がそれを支えているのは言うまでも無い。



もはやクソゲーでない

2005年12月23日 | ゲーム
 『バイトヘル2000』公式

 前作に当たる『グルーヴ地獄V』はそのキャッチコピーを「至上最強のクソゲー」としたが、(もちろん謙遜の意味、クソゲーのパロディという要素も多分にあったろうが)当時の認識では重厚長大でないものはクソゲーだったのかもしれない。
 だが2005年の今日に至っては重厚長大足りえないからといって、クソゲーとはされない。『グルーヴ地獄V』以降のゲーム市場において力を持ち出した携帯アプリゲームは多かれ、少なかれこういった出来であったし、『メイドインワリオ』の大ヒットによってジャンル自体が成立した。もちろん重厚長大な作品への批判が声高にされたということはある。


 こういったゲーム業界における経緯を鑑みると、『バイトヘル2000』はもはやクソゲーではない。クソゲーのパロディであったバイトがミニゲーム集というジャンルに変化したのだ。現に今回のキャッチコピーは「くだらないのに、やめられない」である。実に今作の特徴を端的に現している。

 

 内容といえばどれも一見簡単で、下らないものばかり。だがなんとも面白い。「蒔き割り2」はただ薪を割るのみというだけだが、合間に入る邪魔が絶妙で気が抜けない。「ボールペン工場2」にいたってはボールペンをきちんとはめるだけというなんとも単純なものだが、やはり面白いのだ。内容が単純であるから気概は必要なく、またPSPという携帯ハードゆえ場所も選ばない。電車の中の時間をすごすには最適だったりする。

 もはやクソゲーではない。立派なゲームだ。というか今のゲームがどうかしているのかもしれない。

One more time,One more chance.

2005年12月21日 | 音楽
 八重歯を抜いてからのまさやんはなんとも精彩を欠いた感じが否めない。


 アルバム『HOME』を頂点として、全体的なモチベーションが低下しているのか、出来は良いがなんだか乗れない。『TRANSITION』や『アトリエ』の「アトリエ」には正直悲しくなった。

 アップテンポなナンバーは『SHEEP』あたりから勢いを失い、中途半端な印象を抱かせる。(「Fat mama」を覚えている人は居ても、「Sleeping Butterfly」を覚えている人は居るのか。)アルバム構成上の仕方なしに作ったのかと言うほどに。バラードにしても実に無難な作り。技術があるので、出来自体は高いが心に訴求するもの、というかそういうものが欠けている感がある。事務所の後輩、スキマスイッチの荒削りだが人を惹きつけて止まないバラードとは大違いだ。またバカ歌の名手だったはずのまさやんからそういったものが『TRANSITION』以降、全く失せてしまった。変にまじめで堅苦しく、「アトリエ」では終いにリスナーへの心情を吐露してしまっている。

 新譜がファン以外には全くと言っていいほど売れず、スキウタに入るのが「One more time,One more chance.」だと言うことも頷ける。

 
 出来ることならば、組織票ではなく、純粋なリスナーから支持を受けて「紅白」に出演してほしい。人を惹きつけて止まなかった、”まさやん”をもう一度。是非もう一度見たい。

 追記
前の記事のコメント欄からのご指摘で確認したところ、NHKが発表した「スキウタ」の100曲には「One more time,One more chance」は入っていない。まさやんの出演はスキマスイッチのバーターなのだろうか、はたまた製作側の好みだろうか。どっちにしろ一般視聴者にとっては場違いな人物には違いない。

 

アンガジェしよう

2005年12月17日 | ゲーム
 
 『EXIT』TAITO公式

 大変失礼だとは思うが、ファーストインプレッションは「これがTAITOのゲームなのか!!」だ。グラフィックのデザイン面はPSPソフト中では最高レベルの質を持っていると断言できる。あとは個人の好みだろう。(個人的にはパッケージやオープニング画面のようにシルエットなグラフィックで、よりシャープな感じを出して繰れたらと思うが。)

 
 肝心の中身はゲームらしい、ゲームといったところか。プレイ時間もほどほど。長くても10分弱。アクションゲームの振りをしたパズルゲームのような、それも本当にパズルのピースをはめて行くようなゲームという印象。ファミ通のレビューでも触れられていたが、アドリブがあまり効かない。だがそれがマイナスに働いているかというとそうでもない。見事にピースが合ったときの快感は今のゲームにはあまりない感覚。
 
 また最近のゲームには珍しく一切説明書を読まずとも、ゲームの中でチュートリアルを丁寧に、それもプレイヤーをイラつかせない形で行ってくれることには大変好感を持った。


 残念な点を上げるならば、一部の仕掛けにゲームに徹しすぎているものがあることだろう。たとえば床面に電気が流れるギミック。もう少し世界観に合った表現で示してほしかった。少し類型が過ぎる。これらが作品の全体的な統一感を損ねている感じがする。

 

 パッケージデザインは抜群のクオリティであるし、ダウンロードサービスなど購入後のアフターサービスもばっちり。ロードもあるがほとんど気にならないレベル。作品としての総合的な質は非常に高い。PS2では決して出来ないスケールの小さな作品(もちろんいい意味で)の居場所というPSPの新たな可能性を感じさせる。


 こういうゲームをもっと遊びたい。だが忍之閻魔帳さんなどでも触れられているようにセールス的には相当に厳しい状況のようだ。あれだけ映画みたいなゲームは嫌だとかユーザーは言うのにこの有様だ。
 PS以降、ムービーの多さを業界もユーザーも嘆いた。だがそんな状況を招いたのは、望んだのは外ならぬ彼ら自身だ。ゲームは商品だ。故にその評価は往々にしてセールスのみだ。セールスが上がらなければ、続編や類似したソフトも発売されない。皆が買ったから、そして作ったからムービーがゲームの中に溢れたのだ。


 今の状況を嘆くのならば、率先して自ら望むゲームの姿を体現している、もしくはそれに近いゲームを選択すべきじゃないのだろうか。売れなきゃ、続編はおろか、そのジャンルの先細りさえ招きかねない。現にアクションゲーム、特に2Dのゲームはほぼ壊滅状態。

 ちなみにパッケージの裏にはあの「猿楽庁」のマークが。たまにはやるじゃないか「猿楽庁」!!

360ってこうなのよ

2005年12月11日 | ゲーム
 やはり大方の予想通り、360は売れていない。売れたのはイベントを行ったTUTAYA渋谷店くらいだろうか。まぁ発売を待つ行列の図が撮れて、ニュースで使用されたのだろうから、良かったのか。
 リアル店舗を覗いてみると、360よりもたまごっちやどうぶつの森のほうが品薄なようだ。


 これを考えるとPS2の発売時の状態がいかに凄かったのかがわかる。今回はMSがTUTAYA渋谷店でのイベントを告知していたため集まったが、2000年のあの騒動の時はそういった特別な事情なしに、全国各地で自然発生的に見られた。



 ハイデフとはなんぞや。360ってどう凄いのか。それがライトユーザーに伝わるころにはPS3の全容が見えてくるだろう。

360ってどうなのさ

2005年12月09日 | ゲーム
 ストーンズの『Jumping Jack Flash』に乗せてバイクとともにチョコボが、スーパーカーが、兵士の群が現れるXBOX360のCM。

 どうなのだろうか。ゲームを長年追いかけてきたような人間ならば、パッと見て分からなくとも360の凄さは理解できるが、ライトユーザーには360がどう現行機と異なるのかはおそらく理解できないのではないだろうか。それにハイデフ、ハイデフと言われても、まだ日本ではハイビジョンという呼称が一般的。またハイデフを表現できるテレビの普及率は1割程度。

 ゲーマーにしてもソフトによっては現行機との違いを見出すことは難しいのではないか。


 明日は360の発売日。どれだけの人に受け入れられるのだろうか。

なぜ紅白に出るのか

2005年12月09日 | 雑記
 紅白の出演者が発表されて一番驚いたのはそこに山崎まさよしの名前があったことだ。


 何故いまさら山崎なのか。98年であれば、ドラマに初主演し、主題歌も売れ、アルバムも売れたので合点もいく。だが今年はシングルは2枚、アルバムは2枚だがベスト版の割にはいまいち名売れ行き。本人主演の映画も公開されたが『月とキャベツ』のようなヒットには至らなかった。デビュー10周年であったとしても何か釈然としない。はっきり言えば場違いだ。昔からのファンとしてはお寒いし、悲しい。

 組織票による賜物なのか。スキマスイッチのバーターなのか。そんな風に思ってしまう。『アトリエ』を聴いてがっくりきた私には「天然パーマ」のころの光り輝いていた”まさやん”が懐かしくてたまらない。振り返るべきではないのだけれど。


 出ることが決まったのだ。もちろん見よう。ただ願わくば、『セロリ』や『One more time,one more chance』といった昔の歌は避けてもらいたい。どこぞの演歌歌手ではないのだから。
 

<追記>
まさやんに紅白に出てほしくないのではない。紅白は普通の音楽番組とは今でも異なる。見るのはファンばかりではなく、普通の視聴者が大半だ。それならばそういった普通の視聴者に受け入れられている、望まれている状況のときに出演してほしかったそれだけだ。

神格化がもたらす凋落

2005年12月07日 | 雑記
 神格化は恐ろしい。神格化はその人を駄目にしてしまう。


 古畑任三郎はセカンドシーズンで死んでしまった。あまりの人気に製作側がその人気に当てられてしまったのだろう。警視庁の一警部補に過ぎなかった古畑がいつの間にか、ドラマ内で神格化され、警部にまでなってしまっている。
 またジャンプ漫画に見られるような解説キャラクターが二人も登場し、寄ってたかって古畑の凄さを解説する。それでも足らず犯人までもが古畑の礼賛に借り出される。

 (そんな中で面白いのは、『京都迷宮案内』の杉浦記者だ。固まりつつあったイメージを新シーズンに入った際に主人公杉浦を徹底的に”嫌な奴”に貶めることで一旦洗い流した。それも不自然なくらいに。明らかに意図したものだ。そういう神格化からの逃げ方もある。)


 そんな古畑が来年の正月で終わる。元ネタであるコロンボも神格化され、死んでしまった。古畑は果たしてうまく着陸できるのだろうか。

 『相棒』の杉下警部もそろそろ危ないような気もするが、あちらは別な方面で危ない方向に向かっている気がする。

お金は払わない

2005年12月04日 | 雑記

 ヒューザーの話。現在ヒューザーの物件に暮らしていて、不安に思っていらっしゃる方々は、特にローンが30年以上ある方々は頭金だけをヒューザーに請求したらどうか。某社長は売値の106%で買い取ると仰っているが無論不可能な話だ。それならば、頭金だけでも払っていただき後腐れない方が良いと思う。

 そしてその後はローンは一切払わなければいい。資産価値のないものに払い続けるのはきっと馬鹿らしい。払わなければ、抵当権を持っていらっしゃる銀行の方々の物になるだけだ。そんな危うい物件に抵当権を付けたのだから、きっと喜んで引き受けるだろう。ヒューザーと仲が良いらしいし。


 そんな話をした。