ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

Cellが売られる

2007年09月15日 | ゲーム
ソニー、PS3の「セル」生産撤退 東芝に売却へ(朝日新聞) - goo ニュース

「ソニーが、ゲーム機のプレイステーション3(PS3)の心臓部に使う「セル」など最先端半導体の生産から事実上撤退し、その製造設備はセルを共同開発した東芝に来春にも売却する方向で交渉していることがわかった。売却額は1000億円程度とみられる。ソニーはセルの新たな用途に展望が持てず、多額の生産投資を回収しきれないと判断した。」(上記記事内引用)


 PS3、Cellの計画が発表された当時、社長であった久多良木氏はCellの汎用性をしきりに説いていた。テレビを始めとしたありとあらゆる家電にCellを積もうと。だからこそこの莫大な費用を要するCell事業に予算が下りたのだろうが、今の時代によくよく考えてみるとあれほどに高性能なCPUを少なくとも今の段階では必要とされていなかったし、そもそもその利用方法についてすら絵に描いた餅どころではなかった。もっと云えば、あれほどに電力消費の激しいものを省エネ時代のこの時代の家電に詰めると考えた方が今更考えるとどうかしているし、口車に乗った方もどうかしている。

 それは今更云っても始まらなくて、現に今市場にはCellを搭載した唯一の家庭用製品であるPS3が存在しているわけで、明確な事業のリストラクチャーであるこの事業売却のニュースは、ただでさえ順調とは云い難いPS3にネガティブな印象を落とすことは避けようもない。陳腐で今風な云い方をするなら、負け犬のイメージが強化されてしまった。ある種の人々に格好の火種を与えてしまうことになるだろうし、ユーザー自体にも今後の事業継続への不安も生みかねない。


 ただ実際的には、これまで自前で作っていた製品を外部委託するだけに過ぎない。東芝とは今まで通りであり、安直にPS3事業の否定ではない。けれどなぁ、そりゃわかっちゃいるんだけれど、ライトユーザーがこのニュースを聞いたら、目にしたら、どういう印象を抱くかといったら…

ヱヴァはエヴァ3だったのか(妄想・妄言)

2007年09月05日 | ゲーム
「ヱヴァンゲリオン:序」公式

「新世紀エヴァンゲリオン2」バンダイ公式


恥ずかしながら、年齢がドンピシャである為と個人的な理由でちょうど「第三次アニメブーム」の真っ只中にいて、ご他聞にもれずすっかり「エヴァンゲリオン」オタクになってしまっていた。そのせいか、その成果か「エヴァ」のゲームにはすこぶる弱い。セガサターンで「新世紀エヴァンゲリオン」が出ると雑誌で目にすれば、その為にセガサターンをなけなしの小遣いを振り絞って買い求め、「使徒育成計画」がワンダースワンで発売されると聞けば、ワンダースワンを買ってしまう。そんなオタクだった。ニンテンドー64も「エヴァ」が出るから買ってしまった。

私にとって「エヴァ」はそれだけハードの購買意欲を刺激するほどのキラーコンテンツだった。ただ残念なことに、「エヴァ」はゲーム化に数は別として、その内容に関しては決して恵まれているとは云えなかった。セガサターンでの第1作は一言で云えば出来の悪いオリジナルビデオアニメであり、「使徒育成計画」は発売元のバンダイの当時の大ヒットゲームであった「たまごっち」の亜種でしかなかった。それも退屈な部類の。その中でセガサターンでの第2作、「2nd Impression」や64版はそれまでのものに比べれば出来は良いが、原作の魅力を引き出すような優秀なゲーム化といえば、そうではなかった。


故に2003年にバンダイから発売されたPS2用ソフト、「新世紀エヴァンゲリオン2」の発表を目にした時は、云い様の無い嬉しさがこみ上げてきた。開発はSCEから「高機動幻想ガンパレード・マーチ」を発表したアルファシステムであり、しかもタイトルには通常続編を意味する「2」という文字が冠せられていた為だ。当時、「ガンパレ」はネット上でその自由度と巧妙なSF的設定、世界観のため話題となっていた。また戦時下に子供が人造人間に搭乗し戦うという設定や暗めの展開が「エヴァ」との類似性を感じさせていた。


そんなソフトを開発したソフトハウスが「エヴァ」をゲーム化、それも庵野監督から「2」を与えられたというのだから、何だかんだと未だにファンであった人間にしてみたら、期待をするなというほうが無理だ。アルファシステムによる公式掲示板は私のような長年、否むしろ積年なファンの方々とプロデューサーであった芝村氏との討論会…遊技場と化した。私自身は「エヴァ2」のコンセプトには素直に感心し、今までのゲーム化の中で最も率直に「エヴァ」に向き合ったゲームだと思ってはいたが、やはり「ガンパレ」の自由度や謎の解明に期待を寄せた多くのユーザーにとっては不満なものであったことは事実だった。そういう理由で当の掲示板は大きな盛り上がりを見せていた。

その議論だかお遊びだかの中で、「何故「エヴァ2」のエンディングは多くの、しかも原作とは異なったエンディングが無かったのか」とのユーザーの質問に対して、芝村氏は「「エヴァ3」への可能性を残した為である」と、また「監督に続編を作らせることがこのゲームの真の目的である」とのコメントをレスポンスとして返しておられた。この発言がどこまで真実なのか、単なる妄言である可能性もある。またリップサービスかもしれない。だが、しかしながらである。当時発表会見に駆り出されたり、角川から発売されていた「エヴァ2」発売前のムックに登場していた庵野監督の言葉からは「エヴァ」は完全に終わったものである、後はユーザーの好きにしてくれ、というような投げやりなものしか感ぜられなかった。


2007年の夏も終わった頃、劇場では「新世紀エヴァンゲリオン」の続編でもリメイクでもない新作、「ヱヴァンゲリオン:序」が公開されている。公開前、庵野監督によって示された宣言文や大月プロデューサーによる各メディアによる庵野監督についての証言を耳に、目にすると、2003年の時のような「エヴァ」に対する投げやりな感じは一切無く、非常に前向きな創作への意識が感じられる。もちろん、これから公開しようというときにネガティブな発言をするような監督は多くの場合居るはずもないが、そういった点を差し引いても、庵野監督に付きまとっていた「エヴァ」の呪縛をポジティブな形で乗り切ったように思える。

私が注目したいのは、庵野監督のこの「エヴァ」に対するモチベーションの変化もさることながら、この新劇場版「ヱヴァ」の内容である。残念ながら未だ目にする事が出来てはいないが、まとめサイトやブログでの記事を読む限り、アメリカSF伝統のループもののような印象であるらしい。今のところ旧作の登場人物が新たなループの中で生み出している新たな物語であるということのようである。もう、ファンの欲目でしかないが、この視点、ループにより新たに、旧作を否定することなく、物語を構築することになった契機に「エヴァ2」が在ったのではないかと妄想せずにはいられない。

プレイヤーの読み込み(審級とでも云うべきか)如何によってまったく異なる物語を生み出すことが出来るあのゲームに企画の段階から、間接的であれ触れていたであろう庵野監督は触発されたのではないだろうか。「エヴァ」という作品に創作者の一人である庵野監督自身でさえも其処に向き合うとき、大きな困難を抱いたのではないだろうか。旧作のあの結末から続編を作るということは至難の業であり、「エヴァ」の世界観をベースに新作を作ったところで本筋の幕間のエピソード程度にしかならないだろう。かといって単なるリメイクでは新しく作り直す意味も無い。また今更向き合う意味すら失われる。そういうことではないのか。



まぁ、すべては「エヴァ」ファンで、「エヴァ2」信者である私の見聞と伝聞に基づく、まったくの憶測でしかないが、結果として「エヴァ2」のリリースされた後に「ヱヴァンゲリオン」は製作された。相関関係は分からないし、あるのかどうかも疑わしいが、芝村氏の目的は達せられたのだろうと、一エヴァファンとしては大変に満足なことだ。早く劇場に足を運びたい。付け加えるなら、一エヴァ2ファンとしては「エヴァ2」の続編の登場を期待してみたい。

これがゲームだ

2007年09月04日 | ゲーム
プレイステーション陣営の最新のキャッチコピーの一つがこのコピーだ。「これがゲームだ。」かつて「すべてのゲームはここに集まる」といった初代プレイステーションの意気込みを想起させる実に直接的で、安易で、わかり易い率直なコピーだ。


もちろんこの直接的なコピーが提出された理由のひとつに少なくとも任天堂がここ2、3年で仕掛けてきたこと、日本のテレビゲーム業界の構造改革(?)への反動があるのだろう。確かにゲーム市場はここ2年で拡大に転じた。ただし、拡大した市場部分を旧来的な認識で”ゲーム市場”かと問われれば、そには疑問符が付く。昔ながらのゲームユーザーにとっては、少なくとも現状のWiiや特にDSで数多くリリースされているソフトを目にすると、それはもはやゲームの体を成していない。

またそういったゲームの体を成していないタイトルの間を縫ってリリースされたソフトに関しても、欧米のユーザー的なコアユーザーにとっては今までのところ、多くのソフトの場合、エキサイティングな経験をもたらしてくれるものはあまり多くないようだ。Wiiがヒットを飛ばしたために、「グラフィックはこの程度で十分である」や「高品質のグラフィックは開発費の高騰を招く」という意見が多くなったが、果たして私たちはWiiのレベルで満足ができるのか。


現状の国内市場の動向を一見すると、その種の主張が裏付けられているようにも思われるが、それは単にPS3本体の価格が高いこととソフト自体が出揃っていないことに要因があると思われる。またXBOX360の場合は、ブランドイメージの構築が未だライトユーザーの間で遅れているために国内市場ではメインにはなれないためだろう。未だにPS2が売れていることや何だかんだとまだ売り上げの多くの部分をPS2のソフトが占めていることに従来型のゲームへのニーズ、深読みすれば従来型のゲームの延長線上にあるグラフィックがリッチなゲームへのニーズも潜在的にあるのではないか。

ソフトが出揃い始め、また今月の20日にはライバル機のDSLiteよりも30グラムほど軽い新型PSPが登場する。「モンスターハンター」が中高生の間で人気を獲得したことも、PSP陣営に「ゲーム機」たる自信を与えたのかもしれない。マルチメディア機器という今では死語に近い機器を名乗るより、もちろんそれはPSPの大きな魅力のひとつだが、実というか従来型の「ゲーム機」であることを選んだのだろう。ただし「これがゲームだ」だけではそれ以上には進めない。今PS陣営に一番必要なのは「これもゲームだ」と云い得る新しいゲームの形とそれを受け入れる土壌だ。