ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

HDMI端子とS端子

2006年05月25日 | ゲーム
 出力端子がアンテナ端子に接続する物だったころ以後のビデオゲームの入力端子はコンポジットビデオ端子とLRの音声端子の黄・白・赤の三色端子が主流だった。PCエンジンも中期以降はこれだし、メガドライブも赤の端子が無いだけで基本的に同様のものだった。

 それはその後の3DDでもPC-FXでも、プレイディアでも同様。プレイステーションやサターンは言わずもがな。ドリームキャストもプレイステーション2もXBOXも。さすがにハイデフを謳うXBOX360では付属の接続端子はD端子だけれども、二股になっており従来のコンポジット端子をもフォローしている。


 何が言いたいかといえば、何かお忘れではないですかと。だいぶ前から存在している彼ですよ。S端子ですよ。コンポジットの黄色君より数段綺麗に、美麗に出力できるんです。それも今ではかなり安価にHDMI端子やRGBアナログ端子が無いテレビでも最近のだったら、ステレオテレビだったらS端子くらい付いているはず。
 既存の技術で数段綺麗に写る。それなら映像の美麗さを言い出した次世代機の数々にデフォルトで採用されなかったのか、同梱されなかったのか、付属されなかったのか。そう、絶対ではないから。今頃さすがにアンテナ端子から接続している人はゼロに近いが、S端子は残念ながらゼロではない。


 HDMI端子はどうだろうか。

有線からの開放においていの三社三様

2006年05月19日 | ゲーム
 テレビゲームと言う文化が成立して以来、ユーザーはコントローラーに縛られていた。



 技術の進展によって現世代においては、サードパーティーによってではあるが、無線技術の進展によって、ほぼ完全にコントローラーゲーム、コードによる束縛からの解放を手にし始めた。そして次世代、もしくは新世代においてはハードフォルダーの手によって標準に無線が、Bluetoothがサポートされ、電力供給時を除いて完璧にプレイヤーの身体は自由を獲得する。


 汎用技術は平等にどの企業でも利用可能だ。だからこそXBOX360もプレイステーション3もWiiも同時期にコントローラーからの自由を手に出来た。だがアイデアは平等ではない。XBOX360やプレイステーション3においてはコードからの開放をコードの煩わしさからの開放としているに過ぎない。一方でWiiだけはコードからの開放をプレイヤーの身体の開放、プレイスタイルの解体、そしてもっと言えばゲーム文法の開放を志向している。




 チャンバラシーンを見ているだけでも、刀を振り回す感覚とコントローラーから出力されるであろう金属音が私を捉えて離さない。基本的に私は天邪鬼なので、黒いものを白いと言いたい人間であるが今回ばかりは文句が出ない。しいて言うならば本体のデザインと身体の開放が無条件にゲーム文法の解体や面白さをもたらしてくれるのかという所だ。


,mede of video games:ゲーム内再生産の限界

2006年05月14日 | ゲーム
 手塚治虫の有名なエピソードの中にこんなものがあったと言う。「漫画を描くなら、映画を見なさい、クラシック音楽を聞きなさい」と彼を慕って集まってきた漫画化志望の若者たちに述べたと言う。

 その趣旨は明白である。手塚はマンガを描くためにはマンガを読んでばかりいては駄目で、他の分野を見、勉強するべきだ、と言うことに他ならない。


 もちろんこの手塚の方法論が全面的に正しいわけではない。実際、この世代以降の漫画家の多くはマンガによって育った漫画家が多い。そして成功もしている。



 だがゲームにおいてこの種の言葉は聴かれないし、ほとんど行われてきていない。ゲームをプレイする人がゲームを作る。ゲーム内再生産とでも言おうか。一つの業界の中でゲームが再生産されてゆく。それゆえゲームは次第に深化してゆく。凝縮されてゆく。外部からの情報やセンスは取り込まれない。外部との繋がりがほとんどと言ってなく、行き着く先は常套句の閉塞感に行き着く。

 お決まりの主人公、あってもなくてもどうでもいいようなストーリー。あってもそれは類型でしかなかったりする。パッチワークでしかないキャラクターデザイン。ゲームデザインなぞは言うに及ばない。ゲームが他のメディアに取って代わられたのもさもありなん。そこにはもちろんインターフェースのマンネリも大きな要素ではあるが、最大の要因はゲームの中身そのものだ。


 ゲームを遊んだクリエーターによってゲームが作られる。この循環に問題がある。否定をする気は無いが、過ぎたるは及ばざるが如しなのだ。何事も程度が肝心である。現に現在評価の高い、小島秀雄や須田剛一などは他のカルチャーの影響下にあったから独特のカラーを放っている。

 ゲームのカルチャーの中でゲームが再び生産されることにより、そこで再生産されたものは純度を増す。しかしながらゲーム系カルチャーの純度が高くなれば、なるほどにゲームのカルチャーに近しくない人からは必然に遠ざかってしまう。今必要なのはゲーム系のカルチャーから離れた”新しい知”であり”血”なのである。

PS3のことを知りたい。

2006年05月13日 | ゲーム
 値段の高さは3DOを髣髴とさせる。3DOの発表時の価格はおよそ8万円。その後、批判を受け5万円台となった。傲慢さは一時期の任天堂を髣髴とさせる。64時代、任天堂はメーカーを選別した。また開発費も当時のライバル機と比べて高かった。これらのためにはじかれたメーカーはプレイステーションに流れた。

 久多良木社長は少しブラフというか、誇張が過ぎるように思う。こういう姿勢は海外では当たり前の姿勢なのかもしれないが(MS幹部の発言然り)、とかく日本においては揚げ足取りの良い鴨になる。PSPの不具合の問題に際して、日経の取材での「仕様である」という言葉である。これはボタンの位置が”仕様”であるという意味に過ぎなかったが、どんどんと一人歩きをし、ネット上でネタとして消費された。またそれ以上に余計に反感をもたらすことになってしまった。単純な文化論のようだが、やはりこの国では謙虚さこそが未だに美徳であるのだろう。

 私が購入したPSPも残念ながら初期不良であった。画面中央部にドット欠け、□ボタンの不具合があった。前出の記事で不安に思いつつもサポートセンターに問い合わせた結果、ドット欠けもボタンも正常に修理され戻ってきた。私が経験した限りにおいては、サポートは「仕様である」と言って、修理を突っぱねたりはしなかった。当たり前と言えば当たり前の対応ではあるが。またそればかりか家電業界では不良品にあたらないドット欠けをも修理と言うか、交換してくれた。こればかりは当たり前ではない。

 今回のPS3の報道においても久多良木社長のインタビューでのブラフ(この場合虚勢だ。見栄か。)はやはり格好のネタとして消費され、PS3の優位性を説くどころか、反感を売っただけだった。



 家電専門店へ行くと、販売不振が伝えられていて、私自身もそう感じているXBOX360の試遊台が。ビックリした。知識では知っていたし、ムービーも見たことがあったが、実際に実機でボクサーが闘っているシーンを見るとやっぱり凄い。遠めで見たら本物の人間がそこにいるかの如しイメージを受ける。だがさらに凄いのは近くで見てみても人間のような感じを受ける。

 これは現行機にはもちろん不可能な領域だ。そしてもちろんWiiにも出来ない。Wiiは主体的にそれを拒絶した。それも選択だ。32ビット機登場でユーザーにはリアルなグラフィックによって可能となった新たなゲームのジャンル。それが一種のロールプレイングゲーム。グラフィックがリアルだからこそ、出来ることもある。ドット絵では例えそのゲームが面白くとも、この種のロールプレイングゲームは不可能である。リアルな、人間に近いものであるからこそ、プレイヤーは感情をゲームに移入することが出来る。

 でもこの種のゲームであれば、XBOX360で事が足りる。値段も定価でもPS3よりも2万円安い。性能はもちろんPS3の方が上だけれども、その違いは見た目からは伝わってこない。私には分からない。何がどう凄いのか、自然界のすべてをシミュレーション出来るとか、出来ないとか。Wiiや360にも出来ない、PS3に出来ることは何なのか。それが知りたい。それが分かれば皆PS3を争って買うはずだ。教えてください、久多良木さん。

 ブラフはもう結構です。

「ゲームはつまらなくなった」言説(仮)

2006年05月07日 | ゲーム
 昨年刊行された伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』で触れられていたのは「マンガはつまならなくなった言説」だった。伊藤は90年代以降、手塚や藤子の死後に現れた「マンガはつまらなくなった」言説と呼べるものをマンガ批評の主たる担い手である団塊の世代の批評家たちの限界によってもたらされた気分に過ぎないものであったとして、退けた。



 ゲームの世界では論文の形で明確にその不満を表明されてはいないが、ゲーム雑誌やサイト、個人のブログからも「ゲームはつまらなくなった」といった雰囲気は確かに感じることが出来る。だがやはり「マンガはつまらなくなった」言説同様に雰囲気に過ぎず、確かな論拠は示されていない。

 ただ、ゲームの場合、マンガと異なるのは「マンガがつまらなくなった」言説はこういった雰囲気が一部の世代の、特に評論家によって感ぜられていた雰囲気であったのに対して、ゲームの場合はおそらくゲームのメインユーザーの中においても共有されているということである。また付け加えるならば小学生などにおいても同様の状況が現在のカードゲームの隆盛と小規模ゲームショップのそこへの依存という実際から推察される。

 「ゲームがおもしろかった」であろう過去において果たしてゲームは今より優れていたのか、色数は少なく、諸々の処理も今とは比べられないほどに貧弱であったはずだ。この前提にはテクノロジーの優劣、進歩がゲームの面白さに直結しているという前提が必要である。



 だが興味深いのは海外におけるこの手の言説の不在である。幸か不幸か、いや明らかに幸か。物量を投入すれば、ユーザーがついて来ると言う判りやすいロジックが立つから。少なくとも私が見る限り、海外においてはビジュアルのテクノロジーと面白さは相関している、と認識されている。と言うよりも欧米人全般の趣味嗜好の確固たる部分にリアリズムが鎮座していると言うことだと思われる。


 考えるべきなのは実際として本当にゲームはつまらなくなったのかということだ。昔の方がはるかにつまらないゲームが、それ以前に遊ぶことさえ困難なゲームが山ほどあったはずだ。『トランスフォーマー~コンボイの謎~』を筆頭に多くのユーザー、特に子供を泣かせてきたことは私自身の記憶にも確かに残っている。

 ゲーム黎明期の持っていた”熱”と言うものが失われたとはいえると思う。残念ながら具体的な論証は無いが。でも明らかに質としては底上げがされ、洗練されているのは確かだ。昔のような冗談みたいな、遊ぶことすら困難なゲームは現在ほぼ流通しない、許されない。私は今のゲームは過去のそれと比べても、遜色が無く優れたものと考える。それはもちろん目に見える部分に限られない。ゲーム性の多様化、システム周りの洗練。それこそ挙げればきりが無い。


 では何故に昔よりも洗練されたゲームが受け入れなれないのか。うーん…何故だろうか…複雑化?ゲームは進化の細分化のどつぼに落ちたからか?よく分からないけれども、まずはゲームが見えにくくなったこと(仮)としてみようと思う。