ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

バイトヘル2000は売れない

2006年03月24日 | ゲーム
 『バイトヘル2000』公式

 公式でも見れるが最近頻繁にテレビやJRのモニターで『バイトヘル2000』のCMを目にする。『バイトヘル』はやはり売れていないようだ。企画のピエール瀧も認めている。そしてSCEはCMの投下で長期的なセールスを計る気なのだろうか、CMを投下している。

 だがあのCMで一体ユーザーに伝わるのだろうか。ライトユーザーがゲームを買う場合、その選択はほぼCMによって決まる。翻って現在放送されているCMを見ると果たしてライトユーザーを、新規ユーザーを獲得できるかは疑問だ。


 ナイスミドルが会社の会議室らしきところで、会議中に『バイトヘル』でバイトに勤しんでいる。画面は上下に分割にされ、上はナイスミドルの満足げな表情、下はバイトの画面が映し出されている。ナイスミドルはバイトの順調な進捗状況に笑みを浮かべる。そんな概要のCMだ。


 普通のキレイなミニゲーム集であるならば、これでも良いのかもしれない。しかしながら今CMの扱う商品は『バイトヘル』である。その違いこそ『バイトヘル』の最大の魅力であるはずだ。しかしCMではおそらく意図的にそこを隠蔽している。CMの仲でプレイされているバイト、『蒔き割り2』は婆さんが出す薪を割るという大変に単純なミニゲームである。しかしそれがほかの作品と一線を画すのは演出にある。婆さんは唯の婆さんではなく、青島以上の意地悪婆さんである。婆さんは薪ばかりを出さず、合間合間に薪の変わりに動物を出す。動物を割ってしまうともちろんゲームオーバー。動物は無残にも血しぶきを散らして真っ二つとなり、婆さんはそ知らぬ顔でお経を上げる。
 ほかのミニゲームもそういったものばっかり。変なゲームばかりなのだ。なのだけれども、CM上の倫理ゆえか全く隠蔽されている。これではこの作品が持つ本来の魅力は伝わるはずもない。いくらCMを打ったところで的外れなものでは意味がない。小奇麗に作ってあるだけに余計に始末が悪い。

RPGの広がり

2006年03月22日 | 雑記
 刺激は天井知らずだ。はじめは少量の刺激でで満足できても、その刺激になれるにつれてそれでは刺激が足りなくなってしまう。だから酒を飲む人の中で酒に”溺れ”る人が出たり、ひと夏の若さの発露が中毒になってぼろぼろになってしまう。この刺激への欲求は本人の意思とはもはやかけ離れたものであり、現在ではそういう状態は世間では病気と認識されている。

 
 私は酒も薬もやらないが、ゲームホリックであり、ジャンキーである。いい加減ゲームの中の刺激はそのほとんどを経験してきた。だが酒や薬のジャンキーがより大きい刺激をもとめて、その摂取量を増やしたり、より強力なものを摂取したりする傍らで、ゲームジャンキー(一般化して差し支えないと考える)も同様の傾向のものを求める。
 振り返ってこの20年、この国におけるテレビゲームの歴史を振り返ってみると、ノンスクロールの箱庭からスクロールへと新たな技術を得て、その刺激を拡張してゆく。限られた平面世界からの開放。プレイヤーはX軸とY軸方向への移動の自由を獲得することが出来た。
 そして平面の中の自由はジャンルの自由へと拡大された。アクションではせいぜい数キロの移動であったテレビゲームは容量の増加と供に広大な”世界”を手にする。狭いダンジョンから広大な大地までさまざまな”世界”へ行くことが可能ならしめた。広大な”世界”という刺激は近年にいたるまで継続して行く。


 ここではテレビゲームにおける刺激をRPGの中だけで考えてみる。PCゲームで獲得されたスクロールという技術やRPGというジャンルは、下層にあるテレビゲームへと導入される。技術の進展によってゲームはZ軸をも獲得し、”世界”はますます広大になった。それは刺激を求め続けた帰結である。
 だがジャンキーはその帰結に満足するどころか満足を通り越して、閉口してしまった。欲望の結果である広大なフィールドという刺激は面白さには結びつかなくなりつつある。「そんなに広くて、どうするの?」これが私の率直な感想だ。何処にでも行けるが、結局はそれだけ。フィールドが広大になると、その広大さに必然性を与えるためにそこで繰り広げられる物語は広大なフィールドを移動する必要に迫られる。故にプレイは受動的に陥りがちになる。

 現行のテレビゲームでの主流供給メディアはDVD。容量で言えば4・5GB。次世代メディアはこの数倍の容量を持つディスクが使用される。どれほど広大な”世界”が提供されるのだろうか。



 酒や薬のジャンキーは更なる刺激を求めて、良・質ともに増量させる。そして最後には死んでしまう。ゲームの刺激で人は死なないが、ゲームは死んでしまうかもしれない。

HUD廃絶運動

2006年03月21日 | ゲーム
 HOTWIRED記事『HUD表示をやめればゲームの臨場感は増すのか?』


 テレビゲームのゲージなどの表示のことをHead Up Display(HUD)と英語では呼ぶのだという。欧米諸国で画面に表示するゲージなどをなくそうという行動が運動の形で存在しているとこの記事は伝えている。そして一方でHUDの持つ優位性を持って文末を締めくくっている。


 ハードの性能向上によって、製作者の意図するグラフィックが表現できるようになった。それまでのハードでは性能の低さによって制限されていた表現が可能となる。ドット絵はもちろん、ポリゴン数の低いモデルも使わなくていい。そして高度に洗練されたグラフィック表現の前ではHUD、ゲージ類は無粋でしかない。故にHUDはゲーム画面から廃絶される。
 技術の進歩、そして人間の情として至極当然の帰結であるといえる。ましてやその発信地が西欧であるとすれば、なおさらだ。


 では日本のゲーム業界を見るとどうだろう。ほとんどといって良いほどにこのような発想は見られない。『ボクサーズロード』を始めとしたNEW(現GRANDPRIX)開発のボクシングゲームやSCEの『ICO』ほどしか思いつかない。スーパーコンピューター並とこの10年、家庭用ゲーム機が評価を得てきたにもかかわらずだ。
 確かにHUDの優位性は記事で述べられているとおり真実である。自分のプレイ状況を簡潔に把握することが出来る。またそれによってゲームへの没入が促進されることもある。だけれども全てのゲームにHUDが”合う”かといえば、首を傾げたくなる。

 
 大変に写実的で美麗なグラフィックを尽くして、物語を描こうとも、そこにたった一つでも異質なものが介在すれば、物語の労力は水の泡と化してしまう。いくら美麗なプリレンダムービーを挿入しても、先頭画面に一々体力ゲージが描かれれば萎えてしまう

 もちろん逆のことも言える。HUDが”合う”表現もあるはずである。製作者が”ゲーム”を意識していれば、HUDが必然になるし、望まれるはずだ。


 書いてきてよく分からなくなってきたが、言いたいことはHUDにもHUDの利点があり、その点では記事の著者に賛成であるが、やはり適材適所ということが大事なのではないかということだ。

as ①

2006年03月18日 | ゲーム
 『新世紀エヴァンゲリオン2 another cases』公式

 
 前作『新世紀エヴァンゲリオン2』は原作アニメ、『新世紀エヴァンゲリオン』のはらむテーマ性を見事にゲームシステムに落とし込んだ傑作だった。だが原作の再現性を見ると疑問符が付き、面白いかと問われれば、首をひねる外無い。少なくとも、万人に進められるものでは決して無い。
 
 確かに原作で「心の壁」とされたATフィールドをATゲージとして取り入れ、その高い低いによって行動が縛られるのはかなり興味深く、また相手との距離によっても行動の選択に縛りが掛かるのもいかにも現実的だ。現実の私たちの生活を大変に写実的に取り込んでいる。


 しかし残念ながら、『エヴァ』の世界観、現実社会を写実的に切り取った本作のシステムは面白いとは言えない。このようなシステムにするくらいならば、同社の実質的前作『高機動幻想ガンパレードマーチ』のシステムそのままの方がゲームとしてしっくりいった気がする。
 

 『エヴァ2』と『ガンパレ』は同じ開発元、同じジャンルということもあり、良く比較されるが、全く異なる。(『絢爛舞踏祭』はこの両方の合いの子といったところか。)『エヴァ2』がその力点を、というか出来ることのほぼ全てがAIとのコミュニケーション。(一応そのコミュニケーションの結果は戦闘に反映されるが。)一方『ガンパレ』ではコミュニケーションがゲームの重要な位置を占めていることに変わりは無いが、それ以上に整備行動や体力強化といったその他の行動にも意味が与えられ、何処に力点を置くかは一応プレイヤー自身に委ねられている。この一応の自由が『ガンパレ』が大きな支持を受けた大きな要因である。



 

フェティ オン ヴィディオゲームス 

2006年03月12日 | ゲーム
 プレイステーションが好きだ。初代プレイステーションのあのフォルムが堪らない。コントローラーの接続コネクタはその安定感は他のコネクタを圧倒していた。また人体工学に基づいて設計されたというコントローラーはグリップ部分にデュアルショックほどの傾斜はないもののなんとも画期的で、握り心地が良かった。
 初代プレイステーションのパッケージもまたなんとも言えず気持ちの良いものがある。セピア調、否。ダンボール調のパッケージはある種工業製品的な匂いを漂わせている。周辺機器のパッケージもまたダンボール素材で工業製品の無骨さを演出している。


 ドリームキャストが好きだ。コントローラーは十字キーが高く、全体的に操作性に難有りだが、そこがまた愛らしい。ドリームキャストのコネクタ部分はセガサターンのそれが非常に不安定で、不恰好であったのに対して、非常に接続が容易で、接続部分も可愛らしい。また出力端子もサターンの接続しづらいそれとは異なり、プレイステーションのAVマルチ端子のごとく非常に接続しやすい物となった。
 また本体のデザインも大変にすばらしい。全体的に小さくまとめられたデザインは両手にしっくり収まるほど。プレイステーション2がどれほどどれだけポリゴンが描写できようが、どれだけ普及しようが、このコンパクトさは変えがたい。もちろん薄型にも変えがたい。

面白さの違い。

2006年03月10日 | 雑記
 「ゲームはシミュレーターじゃないんです。」(鈴木みそ著『おとなのしくみ第4巻』 2002年 エンターブレイン刊)


 上の台詞は作者、鈴木みそによる『マリオゴルフ64』の開発元、ゲーム開発会社キャメロットへの取材の中で同社社長、高橋宏之が発した言葉だ。大変にゲームというものを言い表している言葉である。ゆえにしばしば引用される台詞でもある。

 高橋はテニスの面白さの本質をラリーと位置づける。その上で操作自体を簡単にし、ボールを誰でも打ちやすくしている。

 「難しさをシミュレートしてもしょうがないと」、「楽しさをシミュレートするのか」と鈴木みそが合いの手を入れる。そして「ゲームは切り取る作業なんだ!!」と閉める。



 ゲームがメディアである以上、ほかのメディアと同様に相手に何かを伝えるには伝えたいものを切り取る必要に迫られる。上のマンガの例の場合伝えるものはテニスであり、その面白さであり、ラリーである。この切り取りの作業は作業者によって当然異なる。高橋はラリーにテニスの面白さを見出したが、ほかの誰かはサービスエースに求めるかもしれない。そうなれば操作形態も『マリオテニス64』とは異なり、ショットが複雑になるかもしれない。

 例えばサッカーゲームを見てみると面白さの思想の違いが見て取れる。日本で最も売れているサッカーゲーム、『ウイニングイレブン』シリーズはサッカーの面白さをゲーム展開全体に求めているように感じられる、故に操作形態はアクションであるにもかかわらず、どこかシミュレーションよりな感じを抱かせる。
 一方で私のフェイバリットサッカーゲーム、『フットボールキングダム』はサッカーの面白さをゴールすることの面白さに置いている様に感じられる。だから操作するキャラクターはきびきび動き、パスも通りやすい。


 クリエーターが題材を伝えるとき、切り取り方によって全く別物になってしまうということが良くわかるゲームだ。