ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

日本と欧米の危機意識の温度差

2005年10月31日 | ゲーム
 日本においてゲーム衰退の危惧が囁かれてから久しい。プレイステーション期をピークとして日本のゲーム市場は年々衰退を見せていったことが大きいのだろう。

 市場規模の衰退には携帯電話の普及による娯楽分野のパイが食われたことに大きな原因があるとされたが、ゲームの高度化によるユーザーのゲーム離れというものも意識されるようになってきた。
 そしてそのような考え方は今や日本のゲーム業界において支配的になっていったし、現在進行形でもある。またこのことがニンテンドーDSの好意的受容につながったのかもしれない。(またまたそれゆえ今年の東京ゲームショーでの岩田任天堂社長による基調講演、任天堂次世代ゲーム機レボリューションのコントローラーが熱狂を持って迎えられた。)



 しかしながらこのような考え方は日本においてのみの、限定的な考えのような気がしてならない。以前『ゲーム批評』でも触れられていたが任天堂のゲームは海外ではそのタイニーなグラフィックゆえ評価を大きく落としている現実がある。(実が伴っているにもかかわらずだ)
 また海外ではFPSは超メジャーであるのに対して、日本では、特に家庭用では超マイナーであるというまったく正反対の受け入れられ方が見られる。

 タイニーなグラフィックへのネガティブな反応、主観視点であるFPSの大人気。たった二つの事象ではあるが、欧米でのゲームへの要求というものが現れているような気がする。グラフィックはリアルであるほうが、より写実的であるほうがより望まれているのだろう。FPSというゲーム形態もよりリアルにゲームをプレイするためのシステムなのだろう。

 そしてそこから思うのは欧米では次世代ゲームへの危機感、コンピューターゲームへの危機感というものはあまりないのではないか。危機感を抱いているのは日本だけではないのか。ゲーム市場を見ると特に北米は未だに成長を続けている。



 日本がテレビゲームの先進国ということを差し引いても、ゲームの将来への危機感の温度差の理由にはならない。先進国という言葉をもいたとは言え、ゲームにおいては大した差はなく逆に欧米のほうが先進的である分野も多い。レトロで陳腐な文化論の考え方を借りれば、写実主義を生んだ西欧と浮世絵の日本の違い。そういったところにこの差を生み出した要素が含まれているのかもしれない。

良いモニター

2005年10月30日 | ゲーム
 ソニーVAIO TYPE-H公式

 私のような新参者のシューターにとってモニターの問題は切実だ。筐体を買うほどの空間的、経済的、精神的、技術的余裕がないもの場合は特に。

 モニターの小ささに目をつぶるか、火災や故障のリスクを負いテレビやCRTを縦置きにする外はない。

 また少々の経済的余裕に恵まれたときに、縦長モニターを探してもなかなか見当たらない。であったとしてもネットショップのキャッシュくらいだ。


 と思っているときに今年のVAIOのTYPE-Hの秋冬モデルの最上機種のスペック表が目に入ってきた。なんとこの最上位機種付属の20インチモニターは90度回転させることが可能で、憧れの縦長モニターでシューティングゲームをプレイすることができる。加えてこのモニター単なる液晶ではなく、テレビチューナーを内蔵しており、液晶テレビとしても使用することが可能であるという。

 惜しむらくは最上位機種故の高価格だろうか。探せばある程度ディスカウントが可能だろうが、実売は26万円程もする。

携帯ゲーム機通信の未来

2005年10月28日 | ゲーム
 先頃任天堂がニンテンドーDSによるWi-Fiコネクションについての発表が行われた。

 ゲームボーイ以来携帯ゲーム機の通信といえば、有線、無線を問わず近場のゲーム機間の極めてローカルな通信に限られていた。そしてDSもPSPもその流れから外れてはおらず、基本的にローカルな通信に限られる。

 一方携帯電話は異なる。携帯できる”電話”であるのだから、本体単体で広域通信が出来る。本体のみで広域通信、つまりはインターネットに繋げると言う事はそれだけ敷居が低い。光ケーブルの工事をしたり、無線LANルータを購入しLANを構築する必要もない。本体を買って、契約するだけ。

 またパブリッシャーにもメリットがある。扱うのはデータのみであるため、流通コストが極めて低い。またそれはユーザーにも様々に利益をもたらす。コンテンツの価格は安く、わざわざショップまで足を運ばなくともよい。

 
 しかしゲーム好きにはやはり物足りない。携帯電話用ゲームは進化したといわれているが、やはり携帯電話が数多く扱うコンテンツの1つに過ぎず、副次的なものだ。そして何より皮脂の付着したモニターでゲームをプレイしたくはない。


 以下妄言。携帯電話会社とハードメーカーが共同で携帯ハードを作ればいい。ハード単体でメガクラスの通信機能を持ち、同時にHDDを内蔵させる。コンテンツは全てダウンロード販売。決済は携帯電話会社のシステムを用いればいい。ネットゲームも容易にプレイできる。そして音楽プレイヤーとしも使用が出来る。そんなものが出来たらいい。

沖縄の屋根

2005年10月22日 | 雑記
 『BLOOD+』を観ているとちゃんと沖縄の家屋の屋根は平たくなっている。

 何で平たいのか。沖縄のタクシードライバーに尋ねてみた。どうも沖縄は昔から上水道の整備が余り良くなく、水が来なくなることが頻発したそうな。それゆえに水を貯めるタンクを各家庭が持ち、それを屋根に置くため、屋根が平らだという。

 こういう描写は面白いなぁ。

ギガパック!?

2005年10月20日 | ゲーム
 GameWatch記事

 出るとは思っていたが、こうも早く出るとは。今までお徳感ゼロと評判だったバーりゅーパックとは異なり、ギガパックはお徳感に溢れている。
 バリューパックのメモステが32Mから1GBに変わり、ミニUSBも付き、クロスまで付いている。またおそらくは一切の不具合もほぼないであろう。

 これでバッテリーも大容量のものであれば言うことなしだったが、それは望みすぎというものか。

駄文inエヴァ2

2005年10月20日 | ゲーム
 久方ぶりに『エヴァ2』をプレイする。

 『絢爛』と比べると発売されたのが2年前という事実を多めに見たとしても、明らかに出来が悪い。オープニングの簡素さはアルファのゲームとすれば当然だが、キャラクターゲームとしては落第点。キャラクターの動きは硬く、不自然。戦闘が楽しくない。などなど山のような不満が増す。

 直接的にゲームとは関係ないが散々言われたように、ミサトの声が思いっきりふけている。シナリオは見る部分はあまりなく、重要なシーンも紙芝居の挿入でお茶を濁す。コストはかかるだろうが、今時ポリゴン芝居くらい入れてもばちは当たらないだろうに。


 ゲームとしても面白くないばかりか、キャラクターゲームとしても満足できない。もういっその事全面的に貞本版『エヴァ』にしてしまってはどうか。『エヴァ』の原作がGAINAXとなっている以上、何も庵野監督にばかりこだわる必要は無い。
 また個人的に貞本氏の絵が色濃く反映されたテレビ版後期、映画版の作画が好みな私は立ち絵も貞本氏の物であって欲しいなぁ、などと妄想してしまう。

 とにかく多くのファンが満足できる、立派なキャラクターゲームであって欲しいと切に願うばかりだ。

ミニパト公式更新

2005年10月19日 | ゲーム
 『ミニパト』公式

 『ミニパト』の公式が10月11日に更新された。注目すべきはシステムのページだ。アドベンチャーパートはそのビジュアル以外では従来のそれと大差が無いのではないかと思う。またアドベンチャーパートの中のハリセンバトルもストーリーに影響するとあるが詳細が分からないので判断できない。
 
 ただシューティングシーンは少しは期待が持てそうだ。PSPのワイド画面を生かし、360°方向に展開するようだ。(町を壊したかどうかに何かあるらしい。)また「やりこみ要素満点」とバンダイ自ら謳っているダンジョンパートの8ビットぽっさも微妙に気にかかる。


 発売まであとおよそ2週間。発売1週間前までにはすべてのトピックが公開されることだろう。続報に期待。


言語化がなかなか難しいこと

2005年10月16日 | 雑記
 『伊集院光深夜の馬鹿力』公式

 先々週から伊集院光が番組内で再三述べている、「向田邦子のドラマ『阿修羅の如く』で挿入される曲が”ゾクゾクする”と頭の中に流れる」という話が面白い。

 「『修羅の如く』の挿入曲が脳内で流れる状況」。陳腐な言葉で表すならば、言い知れぬ、潜在的な不安とでも呼ぶのだろうか。不安がある一定量、人間の中に満ちて溢れてしまった、そんな感じか。

 いや不安でもないかも知れない。

 投稿も開始されたようで、これからの展開に期待。深夜のラジオであるのに笑いではないというのも、伊集院らしい。

大学生の帰属意識

2005年10月15日 | 雑記
 近頃の大学生は伝統校であっても大学に対する帰属意識が低下しているという話をしばしば耳にする。

 だが一方で都内をJRなどで移動すると(私立大学に限られるが)大学名の入ったビニール製の袋を持つ学生を頻繁に見かける。


 帰属意識は無いが、大学名の入った袋は持つ。それも積極的に。この矛盾した状況は一体何に起因するのか。


 大学名の入った袋を持つことは大学への帰属意識を表しているのではなく、大学というブランドを所有しているに過ぎないのだと思う。

 学生が大学に帰属意識を抱くということから、学生が大学(というブランド)を所有するということへと旧来的な価値観の転倒が起きているのかなぁ。

ゲームを捨てよ、街へ出よ

2005年10月14日 | ゲーム
 「書を捨て、街へ出よう」と言ったのは寺山修二氏であるが、「ゲームを捨て、街に出よう」と言ったのは芝村裕吏氏である。(正確には、コントローラーを置き、現実の世界に戻ることがハッピーエンドであるとの趣旨の発言であったが。)


 『新世紀エヴァンゲリオン2』は大ヒットしたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のプレイステーション2用ゲームだ。『エヴァ』はその人気とは裏腹にゲーム化作品には決して恵まれてはいなかった。それゆえ『ガンパレ』を開発したアルファシステム、芝村氏によるゲーム化ということで期待が高まった。また設定上の謎の多かった『エヴァ』の謎が明らかになる、原作とは異なる展開、エンディングなどといった触れ込み、『エヴァ』の監督、庵野秀明氏によって”2”を冠されたこと。これらによってファンの期待は一層高まった。
 今までのゲームとは異なりキャラクターが個々にAI(個性)を持ち、自立して行動している。また庵野AIと呼ばれる庵野監督の思考をAI化したフィールドマスターがゲームを支配しており、NPC(ノンプレイヤーキャラクター)の行動を制御したり、イベント、戦闘をプレイヤーに向けて投下する。つまりこのゲームは従来のゲームのように用意されたイベントをこなしてゆくものとは異なる、シナリオ全廃のゲームシステムなのだ。

 これにまでにないシナリオ全廃のゲームシステムは非常に興味深く、また挑戦的で意義のあるものである。だがそのシステムは現段階においてはあまりに実験的過ぎる。キャラクターのAIを見ても、個の人格を表現するには現行のAIでは役不足であることは否めない。確かに根気よく観察していれば、NPCには一定の行動原理が働いており、AIとして一定の役割は果たしている。しかしその行動は往々にして原作のキャラクターのイメージとはかけ離れた行動を示す。綾波をストーキングする日向や青葉などのネルフ職員の行動などは”ネタ”としての受容は可能であろうが、原作に強い思い入れのあるファンであるならば、失望を禁じえない。
 システム部分にも不満がある。今作の生理現象の概念はプレイヤーにNPCの行動を理解する一端として実装されたそうだが、頻繁に起こる尿意、空腹、眠気の処理はプレイヤーに対し過度の負担を強いる。また移動においてもNPCの行動をプレイヤーに理解させようとする思考が生きており、ドアの開け閉めにもプレイヤーの操作を要求する。これらの細かな負担、ストレスの積み重ねはプレイヤーのゲームへの没入を阻害する。
 そして最大の不満は制限されたエンディングである。ゲームの本質をゲームプレイ自体に求めるアルファシステムや芝村氏による開発であるからある意味当然であるが、『エヴァ2』はキャラクターゲームである。『エヴァ2』に用意されたエンディングは原作からはみ出さない、原作の展開から起こりうると芝村氏が判断したエンディングのみだ。それはある種正しい判断であるが、『エヴァ2』に大きな期待を抱いた、多くの批判がなされたテレビ版、映画版とは異なるエンディングを期待していたユーザーの期待に答えるものではなかった。また期待された謎解きも簡素な記述のみであるばかりか、トリビア的な謎の解明に留まっており、ファンの欲求を満たすものではなかった。そして異なった展開というものも新兵器の投入や渚カヲルが味方になるといった程度のものに留まっている。(これが一番の売りといえるかもしれない)



 多くのファンの期待を受けてリリースされた『エヴァ2』。純粋にゲームとしてみると従来のゲームにはないシステムにあふれた意欲作であるといえるが、キャラクターゲームとしてみればファンの期待とはかけ離れた作品とであったといわざるを得ない。原作とはかけ離れたAIの行動、生理現象の処理の煩雑さ、行動範囲の少なさなどのあまりに真面目に作りすぎたのではないか。
 前述の芝村氏の発言は『エヴァ2』にこのような不満を述べたプレイヤーに対してアルファシステム公式掲示板で述べたものである。このような開発者とユーザーの間の乖離はそれぞれの『エヴァ2』に対する認識のズレがある。プレイヤーの大半は『エヴァ2』にキャラクターゲームを求めている一方で、開発側は『エヴァ2』をキャラクターゲームではなく純粋にゲームとして開発したのである。もう少し同人的なゆるさのようなものがあれば、もっとプレイヤーにとっても幸福な結果となったであろう。