ゲームホリック

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「ゲームは芸術か」論議

2007年08月05日 | ゲーム
「ゲームは芸術にあらず?映画批評家+小説家+有名記者で大激論」(ジーパラ)

ゲームは芸術足りえるのかという議論が海の向こうで盛んらしい。どこまで盛んであるかは分からないが、少なくとも以上の記事の中で紹介されていた人々の発言は盛んな熱を感じられた。

「ちなみに、ゲームの芸術性についてはゲーム開発者でさえ意見は分かれているようだ。今年の3月に開催された“Game Developers Conference”で、カプコンの稲船敬二氏は「ゲームは“商品”であって“芸術作品”ではない」と断言。一方、『メタルギア』シリーズの小島秀夫氏は以前から「ゲームは総合芸術」との主張をくり返している。」(記事内引用)

稲船氏と小島氏のこの主張の差異は彼らの作品を遊んでみるとその言葉が実感できる。稲船氏の代表作、例えば『鬼武者』を遊んでみれば、多くの人は感じるだろうが感心が”遊び”の部分により向いているように思う。ゲームを”ゲームという商品”であると考えているだろうことがやはり感じられる。僕にはそれは率直に云って、悪い意味で”商品”に収まっている。氏の携わったゲームのほとんどにおいて、特に『バイオ』以降に顕著だが、プロットが非常に退屈である。少なくとも大人がプロットそれ単体を楽しむことが出来ないお粗末なものだ。極めて退屈な”商品”だ。

一方の小島氏の代表作、『メタルギアソリッド』シリーズをプレイすると、小島氏が主張する「ゲームは総合芸術」という言葉をこれまた実感できる。ゲームのストリーは一本筋であるが、プロットの完成度はビデオゲームの中でも群を抜いた完成度で、少なくともハリウッドアクション映画ほどは大人の鑑賞に単体でも堪えうる脚本の強度を持ち合わせている。しかしかといって、ゲームの部分がおざなりになっているわけではない。むしろその逆で、『メタルギア』シリーズは物語り以上に造り込まれた箱庭の中でプレイヤーの思うままに遊ぶことが出来る極めて全うで、上質な昔ながらのビデオゲームでもある。その点が「総合芸術」を自称するだけの所以だろう。


確かに稲船氏には『ストリートファイター2』を始めとして、アクションゲームを中心に数々のヒット作を生み出しているし、そこへの自負もあるだろう。また一方で「総合芸術」と言えそうなソフトは、残念ながらあまり多くなく、旧来の芸術作品、例えば映画や小説の質の悪い模倣に過ぎない作品が大半を占めている。

けれども「ゲームは商品」である、とすることへの危惧もある。もちろん稲船氏はゲームが”商品”であることに自身や誇りを持っているからこそ、そのように主張されるのだろう。任天堂の宮本茂氏も再三にわたって「ゲームは工業製品である」と述べている。もちろんそこには”商品”の出来への自負があるからこその発言なのであろう。またビデオゲームが変な自意識(例えば、しばしば文化の担い手を自負するハイカルチャーの類の権威主義)に陥ることをけん制する意味合いもまたあるのかも知れない。

「ゲームは商品である」であるという考えはともすれば、市場原理主義に還元されてしまう可能性がないとは言い切れない。現に今現在の続編や似たり寄ったりのシステムを搭載したゲームの乱立はひとえに「ゲームが商品」であったからではないのか。ゲームに「芸術」的な点がひとかけらでも認められたならば、ビデオゲームが黎明期に多く持ち合わせていた創造性が積極的に生み出されるのではないか、という可能性をもたらすのではないかという淡い期待をして「ゲームは芸術である」と云ってみたくなるのだ。


ただビデオゲームの現在に目をやれば、こういった論議をよそにして、多くの”商品”のゲームの中にあっても、極めて実験的な、それはもう少なくとも現代芸術の定義の中では、斬新で芸術と呼べそうなゲームがリリースされ続けている事実がある。「幸せとは何か」や「愛とは何か」をテーマに見据えたゲームや最早ある種の絵画と呼べそうな弾幕を見せるシューティングゲーム。映画やアニメなどでも見たことのないスタイリッシュな映像美を称えたゲーム。映画や小説でもなかなかお目にかかれない尖って、シュールなプロットや脚本を持ったゲーム。人間のコミュニケーションをモニター上に再構築したゲーム。そういったビデオゲームが少なくない数、既に今現在市場に存在している。