「「ゲーム学」の確立を目指して――日本デジタルゲーム学会が設立」(IT mdedia)
2006年に日本デジタルゲーム学会(DIGRA)が設立されてはや2年がたとうとしています。ただその社会的意味合いについては少々疑問があります。
開発者関係の交流はIGDAによって活発化されてきているようで、著名なゲーム情報サイトにしばしば技術的な面も含めて多くのセッション内容の詳細なリポートが伝えられてきています。その一方で日本デジタルゲーム学会など研究系の成果と言うものは一般社会にはにじみ出てきていないようです。少なくともゲームアカデミズムの内に居ない僕から見ると一般社会には成果があったとしても伝わってきていないと感じます。
新書ブームの中にあってアニメや漫画などは多く刊行されています。古くからアカデミズムと批評が結びついていたためか、”冗談の”漫画学から”本気の”漫画学へと着実に進歩してきました。そして現在では漫画学は確かにアカデミズムとして確立しています。しかしながらゲームに翻ってみてみると、東大や筑波、立命館なんかを除いては比較的アカデミズムから意識的に距離を置いてしまっているように感じます。その弊害としてゲーム業界自体の社会的地位の低さは様々な面であらわれています。
アニメや漫画を扱う研究者は歴史のせいもあるのでしょうが、アニメや漫画の研究者の声が大きい一方でゲームを扱う研究者は声が小さく一般にゲームアカデミズムの存在すら知られていないと思います。例えば新書点数で推し量ってみれば、新書と言う一ジャンルを見てみても漫画やアニメを取り扱ったものは専門の研究者や門外の人問わずに多くの書籍があります。一方のゲームと言えば、ゲーム脳とゲームニズムと言う理論自体はもちろん再現性も示されない良く分からない理論と多根清史氏のいつもの調子のものくらいです。また百歩譲って三者とも学術的としてもゲーム自体というよりも経済の一分野としてのゲームに終始してしまっています。(ゲーム脳は偽科学でしょうか。)
新書の類でゲームの本質に踏み込んで論じたものは東浩紀氏の一連のポストモダン研究の中でしか見出せてはいません。ゲームアカデミズムの場から発信されたものは論文やゲーム系のウェブでのインタビューなどの狭いところに限られます。たとえば新書にもなった日大教授のゲーム脳への反論でも受容論でも良いと思います。もっとポジティブなメッセージを発することがゲームの社会的、文化的地位の向上には欠かせないことだと思います。実際、メーカーがそんなことをするわけでもなく、業界団体にもそういった活動は期待できません。やっぱり学会が先陣を切って言うべきことは言うべきです。
売れないと言うことが一番大きいのかもしれません。各大学などでゲームの研究は多岐に渡って進められているのでしょうが、現実的には数年前にあれほど話題になった『Rules of play』すらもいまだに翻訳出版されていません。ゲームアカデミズムと言うものは未だに成立していないんじゃないのかと疑ってしまいます。新書に限らず、ゲーム関係の研究書籍は未だにほとんど出版されていませんし、ゲーム系の書籍で見るべきものはクリエーターのエッセイほどしか見当たりません。
「「エロゲーは危険な社会を作り出す凶器」――規制を求める請願、衆議院に」(IT media)
もちろん学会がメディアに露出することなんてのはどの世界でもありえないので、学会が表立ってどうのこうのだとかは思いません。でも研究は実世界に発信されてこそ評価があるわけで、出来るなら一般人に向けて情報を発信して行く義務があるのではないかと思います。エロゲー規制の話もそうですが、こういうときに識者として馬場章さんなりが出てこないことに失望感すら覚えます。ゲーム脳にしてもそうです。ゲーム関係のウェブで反論をしても一般人には届きません。学会は責任を果たすべきだと思います。
2006年に日本デジタルゲーム学会(DIGRA)が設立されてはや2年がたとうとしています。ただその社会的意味合いについては少々疑問があります。
開発者関係の交流はIGDAによって活発化されてきているようで、著名なゲーム情報サイトにしばしば技術的な面も含めて多くのセッション内容の詳細なリポートが伝えられてきています。その一方で日本デジタルゲーム学会など研究系の成果と言うものは一般社会にはにじみ出てきていないようです。少なくともゲームアカデミズムの内に居ない僕から見ると一般社会には成果があったとしても伝わってきていないと感じます。
新書ブームの中にあってアニメや漫画などは多く刊行されています。古くからアカデミズムと批評が結びついていたためか、”冗談の”漫画学から”本気の”漫画学へと着実に進歩してきました。そして現在では漫画学は確かにアカデミズムとして確立しています。しかしながらゲームに翻ってみてみると、東大や筑波、立命館なんかを除いては比較的アカデミズムから意識的に距離を置いてしまっているように感じます。その弊害としてゲーム業界自体の社会的地位の低さは様々な面であらわれています。
アニメや漫画を扱う研究者は歴史のせいもあるのでしょうが、アニメや漫画の研究者の声が大きい一方でゲームを扱う研究者は声が小さく一般にゲームアカデミズムの存在すら知られていないと思います。例えば新書点数で推し量ってみれば、新書と言う一ジャンルを見てみても漫画やアニメを取り扱ったものは専門の研究者や門外の人問わずに多くの書籍があります。一方のゲームと言えば、ゲーム脳とゲームニズムと言う理論自体はもちろん再現性も示されない良く分からない理論と多根清史氏のいつもの調子のものくらいです。また百歩譲って三者とも学術的としてもゲーム自体というよりも経済の一分野としてのゲームに終始してしまっています。(ゲーム脳は偽科学でしょうか。)
新書の類でゲームの本質に踏み込んで論じたものは東浩紀氏の一連のポストモダン研究の中でしか見出せてはいません。ゲームアカデミズムの場から発信されたものは論文やゲーム系のウェブでのインタビューなどの狭いところに限られます。たとえば新書にもなった日大教授のゲーム脳への反論でも受容論でも良いと思います。もっとポジティブなメッセージを発することがゲームの社会的、文化的地位の向上には欠かせないことだと思います。実際、メーカーがそんなことをするわけでもなく、業界団体にもそういった活動は期待できません。やっぱり学会が先陣を切って言うべきことは言うべきです。
売れないと言うことが一番大きいのかもしれません。各大学などでゲームの研究は多岐に渡って進められているのでしょうが、現実的には数年前にあれほど話題になった『Rules of play』すらもいまだに翻訳出版されていません。ゲームアカデミズムと言うものは未だに成立していないんじゃないのかと疑ってしまいます。新書に限らず、ゲーム関係の研究書籍は未だにほとんど出版されていませんし、ゲーム系の書籍で見るべきものはクリエーターのエッセイほどしか見当たりません。
「「エロゲーは危険な社会を作り出す凶器」――規制を求める請願、衆議院に」(IT media)
もちろん学会がメディアに露出することなんてのはどの世界でもありえないので、学会が表立ってどうのこうのだとかは思いません。でも研究は実世界に発信されてこそ評価があるわけで、出来るなら一般人に向けて情報を発信して行く義務があるのではないかと思います。エロゲー規制の話もそうですが、こういうときに識者として馬場章さんなりが出てこないことに失望感すら覚えます。ゲーム脳にしてもそうです。ゲーム関係のウェブで反論をしても一般人には届きません。学会は責任を果たすべきだと思います。