ゲームホリック

ゲーム大好きぃ!!でゲーム脳なのであること無いこと書き散らします。

日本のゲームの作家性

2010年02月11日 | ゲーム
“よくできたゲーム”と“面白いゲーム”の違いとは?――マリオの父、宮本茂氏の設計哲学(前編) (1/5)(Business Media 誠)

ゲームを作ることに関しては、日本人が作るものに対して世界的な評価はすごく高いです。そのため、「どうして日本でそういうものが作られるのか」と興味を持って分析したがる人もいるのですが、僕は日本というより、また東京とか京都とかいうこととも関係なく、「基本的に個人が作っている」ということが大事かなと思っています。

ゲームを作ることに関しては、日本人が作るものに対して世界的な評価はすごく高いです。そのため、「どうして日本でそういうものが作られるのか」と興味を持って分析したがる人もいるのですが、僕は日本というより、また東京とか京都とかいうこととも関係なく、「基本的に個人が作っている」ということが大事かなと思っています。

中略

 そうすると、「どこで仕事をするか」ということよりは、「誰が作っているか」をはっきりさせて作ることが大事かなと思っています。
(上記リンクより一部引用)


再三、宮本さんがインタビューで語っているのがセンスの問題です。マリオのジャンプ時の滞空時間は全く現実には即していないが、それがゲームの面白さにつながっているとします。そしてそういった滞空時間を決めるのは調整であり、その能力こそ世界に誇る日本人の職人芸だと言った趣旨の発言です。

日本のゲームには多くの場合、開発者の「顔」が前面に出てきています。『マリオ』の宮本茂さん、『メタルギア』の小島監督、『キラー7』の須田剛一(51)さん、『オウガバトル』シリーズの松野泰己さんなどなど売れているゲームの多くにそのクリエーターの顔がセットになります。

もちろんコアユーザー向けのブランド力強化と言うこともあるのでしょうがそれにしても、海外のゲームのクリエーターはあまり目立ちません。『Fable』シリーズのピーター・モリニューやジェフ・ミンターなどごく少数のクリエーターを例外として、海外のゲームでは企業の”商品”である側面を強く感じます。

その前に補助線として、編集者の竹熊健一さんの『崖の上のポニョ』評を引証してみたいと思います。
パンダとポニョ(1)(たけくまメモ)
『カンフー・パンダ』と『崖の上のポニョ』こそ「別々の惑星で作られた映画」だと言いたくなります。

ハリウッドと日本の違いももちろんありますが、方や「大予算を投じて作られたウェルメイドな作品」であり、方や「大予算で作られてはいるが徹頭徹尾“作家の作品”」という意味で、根本的な違いがあるわけです。

中略

ところで俺は、『カンフー・パンダ』の監督名を未だに知りません。まあ、パンフを見直せば誰だかすぐわかりますけど、調べる気になりません。『白雪姫』の監督はディズニーではなくディビッド・ハンドという人なんですけど、100人が100人『ディズニーの白雪姫』だと認識していてそれで不都合がないように、『カンフー・パンダ』はハリウッドが作った面白いアニメだと思っていればそれでよく、監督(作家)が誰であろうが関係ない種類の作品であるわけです。
(上記リンクより一部引用)


その作家性とは何か。例えば宮本さんで言えば、一貫して貫かれているまるでAプロ、宮崎駿さんや大塚康生さん、手塚治虫さんに代表されるような動画的娯楽、漫画表現的娯楽がその特徴であると言えます。また小島監督で言えば、映画的な大人の鑑賞に堪えうる物語性や優れたルール性や遊び心です。須田さんはその風変わりな、ケレン味たっぷり、ケレンしか無いような世界観であり、松野さんはダークな中世ヨーロッパ的な世界観と緻密なシステムがその魅力であったりします。

一方で海外の場合、個々のクリエーターと言うよりも開発スタジオがその注目を集めているように感じます。ロックスターノースやEAカナダスタジオ、エピックゲームス。個々のクリエーターは確かに存在しメディアにも露出していますが、大変面白いゲームですが『ギアーズオブウォー』を作った人が誰かをぼくは知りません。でも作ったスタジオがどこかは知っています。『グランドセフトオートⅣ』は面白かったですし、『RED DEAD REDEMPTION』は面白そうですが、誰かディレクターなのか知りません。


日本と海外のゲームを隔てるもの。それはセンスか技術の蓄積か、という違いだと思います。海外のゲームの多くは使用ポリゴン数やテクスチャの綺麗さやティアリングが発生しないか、fpsレートがどれだけ出ているか、迫力があるか、オンラインを装備しているかなど、そういった技術的な問題に注目が集まっているように感じます。だからこそクリエーター個人にではなく、それを作っているスタジオなどが注目されるのでしょう。

一方の日本のゲームの場合、『マリオ』や『ゼルダ』もそういった技術的な問題に注目されなくは無いですが、世界観やシステムの新規性、若しくはそのクリエーターの作家性が発揮されているかどうかの方が注目されているように思います。『マリオ』に「unreal engine」や「GTA4のエンジン」を積んだところで宮本さんが関わらなければユーザーに意味が無いと言うことです。クリエーターの個性がコアユーザーを中心に認知されるよう。



で、これは海外と日本のゲームの捉え方の違いにあるのではないかと思えます。海外のゲーム、特にPS2以降のゲームの多くはそれまでの荒削りで大雑把な蔑称として洋ゲーといわれていた頃の特色はなりを潜め、全体的にクオリティーの高いゲームが多くなって来ました。それは一重にコンシューマとPCのゲーム開発のボーダレス化、それによる技術の蓄積、ゲームの基礎研究の結果、行き詰まりを見せていたIT業界からの資金と人材の流入にあると考えられます。

要は海外ゲーム業界の徹底的な商業主義化です。昭和的な言い方なのかもしれませんが、コカコーラやハンバーガー、ハリウッド映画に起きたことがゲーム業界でも起こったと言うことです。何が売れるのか、どうすれば面白くなるのか、そういったマーケット的、技術的な研究の結果が今の洋ゲーなのだと思います。これは決して悪いことではありません。どのゲームも平均的にゴージャスで、平均的にとても面白いからです。でもどれも似ています。


今一度、補助線として、編集者の竹熊健一さんの『崖の上のポニョ』評を引証してみたいと思います。
パンダとポニョ(1)(たけくまメモ)
日本映画界も、ただ予算とマーケットが小さいというだけで十分に商業主義であります。

日本であろうがハリウッドであろうがどちらも商業主義なのであり、それゆえどちらにも小規模な「アート系映画」の市場があって、作家性を貫きたければそちらで勝負すればいいわけです。その意味では、近年の宮崎アニメのように「作家」を貫いてなおかつ商業的にも成功してしてしまう(しかもそれが持続している)例は、洋の東西を問わず、歴史的にもほとんどないと言っていいのではないでしょうか。
(上記リンクより一部引用)


もちろん日本の作家性があるゲームも商業作品です。株式会社が資金調達をして、ある程度の市場調査を経て、企画が練られ、何人もの偉い人を通って市場に出るわけで十分に商業主義的です。けれどアメリカのそれと比べると、まだまだ個人が入る余地のある商業主義だとも言えます。だからゲームとしての個性が発揮される一方で、「よく出来た商品」である海外のゲームには勝てなくなってきています。

それでも日本の作家性は市場でそれなりの規模で受け入れられてはいます。それなりにではありますが。海外のそういった作家性の強いタイプのゲームと比べれば、日本の作家性が強調されたゲームは内外にそれなりの支持を持っています。だからこそ極度に商業主義化しなければ厳しい状況の中で未だに新作をリリースし続けてこられているわけです。

その中でも最も売れているのが任天堂のゲームであり、宮本さんのゲームであったりします。皮肉なのは宮本さんを始め、任天堂は「ゲームは作品ではなく工業製品」と言い続けているにもかかわらず、結果として任天堂の、殊に宮本さんが関わるゲームは宮本さんの作家性が出ているものになっています。そしてそれが宮崎駿さんのように売れているわけです。



で、結局何が言いたいかと言えば、日本のゲームの作家性はそれまでのゲーム制作の名残(ピーター・モリニューやジェフ・ミンターなどの有名クリエーターは洋ゲーが商業化する前のクリエーター)である一方で、マーケティング、技術の蓄積の不備、ビッグバジェットが組みにくいことの賜物でもあると言うことです。主流から外れる傾向が強いと言う意味で作家性にはイノベーティブを生む可能性が留保されると言い得ますが、その反対に大きな市場は取り辛いとも言えます。これはますます顕著になっていくと思います。

そしてこの作家性は再現性が高いものではないと言うことです。現在のクリエーターが一戦を離れた時、新しい才能が出ているのかと言う点で少し微妙な気持ちになります。一方でマーケティングと技術に長けたハリウッド的商業主義的な製作体制の敷かれた洋ゲーは、新規性という点では劣るもののコンスタントにクオリティの高いソフトをリリースし続けています。作家性が枯渇した時、日本のゲームはどうなるのか、ということです。

高次に行くための単純化

2010年02月10日 | ゲーム
パナソニック 3Dテレビ 4月発売(東京新聞)
パナソニックは九日、三次元立体(3D)対応の薄型テレビとブルーレイディスク(BD)レコーダー・プレーヤーを四月二十三日に発売すると発表した。フルハイビジョン画質の家庭用3Dテレビの発売は世界で初めて。今年は目の前まで飛び出す映像を家庭で楽しむ「3Dテレビ元年」といわれており、他社に先駆けて市場に投入することで新市場の主導権を握る狙いだ。
(上記リンクより一部引用)


アナログ時代の技術的蓄積が効果的では無くなってきたデジタルテレビにおいて、家庭用テレビの新たな高付加価値化の一環としての3Dテレビの注目度は高いようです。劇場用映画『アバター』の世界的大ヒットもこの高付加価値化の流れをメーカーは期待しているようです。

PCでは既に3Dモニター、対応ソフトがリリースされ、家庭用ゲーム機でもPS3はいち早くファームウェアでの3Dテレビへの対応を表明、Xbox360でもソフトレベルでは既に3Dテレビ対応ソフトがリリースされています。一方でWiiは慎重な対応を見せています。

新たな表現として、低価格化に抗うための新しい高付加価値商品として期待されている側面がある一方で、3D環境のハードルの高さ(3Dモニター40万円以上、対応プレイヤー10万円以上、3Dゴーグル1台1万円以上)もあって家電メーカーもパナソニック、ソニー以外は静観の様子です。


こういう状況の中で面白かったのは伊集院光さんのtwitterでのつぶやき。

伊集院光(HikaruIjyuin)on Twitter
わくわくして待ったものの、しばらくしていろいろ気づ、ふーん、に。映像が画期的に進化すると、それについて行くために、システムって言うかゲーム性って言うかが少し退化、簡素化する。RT @abigor192 ゲームのグラフィックがドット絵から3Dになった時はどんな感想を持ちました?
(上記リンクより引用)

これは3Dポリゴンが導入された当時の伊集院さんの感想なのですが、3Dポリゴンの感想以上に新しい技術の導入によってシステムが簡素化されるという感想を述べていることです。これは『アバター』にも言われていることで、3Dの凄さを賞賛する一方で、物語の陳腐さに対して不満は散見されます。


ゲームに限って振り返ってみても、2Dの情報量が強化されたファミコン→スーパーファミコンには見られなかった簡素化、単純化が新しい技術が登場した際には確かに良く見られました。


スーパーファミコンが内容的にかなり複雑に極まっていたのに、PSやSSのロンチ時のソフトはレースゲームや格闘ゲームなど、システム的にはかなり単純化されたものが多かったです。また新しい技術である3Dポリゴンの使用を回避するようなゲーム作りをするものが多く、3Dポリゴンをゲームの中で有用に活かすソフト、『スーパーマリオ64』や『バイオハザード』の登場には数年の時間がかかりました。

またバーチャルボーイのロンチ時のソフトを振り返ってみても、立体的に見せることが出来る技術が売りであったにも関わらず、『マリオズテニス』や『とびだせボンバーマン』などリリースされたソフトのほぼ全てが2Dのゲームを立体的に翻案しただけのものでした。立体的な映像をゲーム性にまで絡み合わせたのは3Dシューティングの『レッドアラーム』しかなく、結局それ以降ソフトが続かず早期の生産終了に追い込まれました。


一方PS2に次ぐ、据え置き機であるWiiも商業的には大成功を収めている一方で体感型ゲームという特徴を、ゲーム性に絡めて昇華できているのかは疑問であったりします。ロンチ時のソフト、『Wiiスポーツ』など、幅広いユーザー層に向けたと言うこともあるのでしょうが、「振る」という新しい技術、文法を単純に既存のゲーム性に載せただけでしたし、それ以降も大きな進展はありませんでした。というよりもリモコンに縛られWiiのゲームは単純性に縛られている印象です。

Xbox360の注目の技術であるNatalにも同じことが言えます。E3でのコンセプト映像では高度なゲームをNatalで再現したり、既存のゲームのNatal対応を表明していました。しかしながらその後の技術デモではそれはスカッシュのようなものと『バーンナウトパラダイス』(レースゲーム)に限られています。想定されていたFPSや既存のゲームへの対応は今のところ確認されては居ません。ただNatalの場合はWiiとは異なり技術的な問題の方がその原因のようではありますが。

SCEのEYEトーイも同様でした。カメラでユーザーの動きを計測する画像認識技術の一環でしたが、WiiやNatal同様かなり大雑把な内容のゲーム(画面に映った敵をやっつける、簡易的に画を描くなど)でしかありませんでした。大きく身体的に動く必要があり小さな住居では難しい問題があり、ヨーロッパ・北米ではミリオンヒットを記録したものの、日本では様々なローカライズタイトルまで発売されたものの、全てと言って良いほど多くのソフトが売れずにワゴンの肥やしとなってしまいました。

Wiiの大ヒットの一方で明らかになったことの1つにコントローラの優位性がありました。リモコンを振り回すというゲームスタイルは大きな身体性を伴っていました。基本的には立ってテレビに向かい腕も上げている必要がったのです。正にスポーツであり、ゲームではありませんでした。だからこそWiiリモコンを有用に使った新規のゲーム性は未だ成されず、多くの既存のゲームもリモコンの横持ちスタイルが一般的です。この身体性の問題はWiiに限らず、NatalやSCEのアーク、3Dモニタにも共通する課題です。

要は気安くその体験を楽しめないと言うことです。もちろんWiiは、ある意味でシステム的な限界から、座って少しの振りの動作でもプレイ出来ますがそれでは本末転倒です。3Dモニタにしてもその疲労を訴えるユーザーは多いようです。Natalにしても技術でもで見せられるスカッシュのようなゲームは確かに技術的には凄そうですが、直ぐに疲れそうで必ずしも面白そうには見えず、レースゲームにしても滑稽さを称えており、従来のステアリングコントローラに優位性があるように感じられます。(宮本茂さんの発言参照)


新しい表現・技術を導入する時にはシステムや物語の単純化など、一概にはデメリットと呼べないまでも、システムの深化・複雑化、物語の高度化などと言った観点から見れば非常にデメリットも多いわけです。新しい技術を広めるにはそういったデメリットを超えるメリットと環境の容易さが欠かせないのかもしれません。

ウイイレ2011!?

2010年02月03日 | ゲーム
今週の狐(■■速報@保管庫3■■)
・ウイイレ高塚
  いままではPS2の作り方の延長だったが新世代機に適した発想で新しいウイイレを作っている
  それは操作性も変わる
  冬の11~12月発売予定。開発度30%
(記事リンクより一部引用)


ぼくはPS2時代で高塚さんのやるやる詐欺にはうんざりした口なので、この「いままではPS2の作り方の延長だったが新世代機に適した発想で新しいウイイレを作っている」をどこまで信じるかどうかは微妙なところですが、操作性も変わった新しいウイイレが欧州リーグ来シーズンにリリースされるよう。


誰か高塚さんの「新しいウイイレ」詐欺のまとめページ作ってないだろうか。少なくとも『ウイイレ2010』の「360°ドリブル」は中途半端な出来だったです。

ウイイレもW杯商品発表(ただし非ライセンス)

2010年02月03日 | ゲーム
日本代表チームで、世界の頂点を目指せ『ワールドサッカー ウイニングイレブン 2010 蒼き侍の挑戦』 今春発売(コナミデジタルエンタテイメント)
PES

先週のEA、『EA SPORTS 2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ大会』に続いて、もう一方の雄、『ウイイレ』もワールドカップ向け商品、『ワールドサッカー ウイニングイレブン 2010 蒼き侍の挑戦』を発表しました。


今作では、お客様が日本代表チームで世界の強豪たちと戦い、世界ナンバーワンを目指すことができるモードを搭載します。日本サッカー協会のオフィシャルライセンスソフトであり、日本代表の選手やエンブレム、ユニフォームなどをリアルに再現しています。(上記リンクより一部引用)


各国のナショナルチームを『FIFA』に抑えられている、「ワールドカップ」の商標を『FIFA』に独占され使用できない、一方で未だに国内での支持は強い『ウイイレ』シリーズならではの日本代表特化バージョンです。ゲームモードとしてはこれまでにもありましたが、タイトル名にまでするくらい本作は日本代表押しで行くみたいです。『LOVE FOOTBALL 青き戦士たちの軌跡』を思い起こさせます。

注目すべき点は本作のマルチプラットフォーム戦略。先に発表された『FIFA』がPS3/Xbox 360/Wii/PSPでのマルチであったのに対し、本作のマルチプラットフォームはPS3/PS2/PSP/Wiiでのマルチになっています。国内特化と言うことで360では無くPS2でのマルチと言うのが、本作の立ち居地を明確にしているようです。


ようやく各社のサッカーゲームが出揃った感がありあすが、これらはあくまで規定路線。毎回ワールドカップシーズンにはサッカーゲームシリーズではないイレギュラーな商品が各社からリリースされています。これからどれだけ新しいサッカーゲームがリリースされるのかがワールドカップまでの注目事項です。

新・無線アダプターの美

2010年02月02日 | ゲーム
マイクロソフト、Xbox 360用250GBハードディスクや無線LANアダプターなどを発売(GameWatch)
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マイクロソフト株式会社は、Xbox 360用アクセサリーとして、「Xbox 360 ハードディスク(250GB)」、「Xbox 360 ワイヤレス コントローラー ゲームパック」、「Xbox 360 ワイヤレス LAN アダプター N」を、それぞれ3月11日に発売する。価格は、「ハードディスク(250GB)」が15,540円、「ワイヤレス コントローラーゲームパック」は5,775円、「ワイヤレス LAN アダプター N」は8,925円。
(上記リンクより一部引用)


次世代機の中でXbox360のデザインが一番好きかも知れません。旧無線LANアダプターも本体のデザインにマッチした優れたデザインでしたが、今回の無線LANアダプターNもなかなか。これまで好みの問題と無線LANとの統一感の問題からエリートを敬遠していましたが、ちょっとこれは考えてみたくなります。いや、良いデザインだなぁ。

RPGにおけるポストモダン

2010年02月01日 | ゲーム
「RPGの限界」と書いたけれど、これは言い換えれば「RPGのポストモダン化(脱近代化)」と言える。ポストモダン化は最近のゲームに静かに、広範囲に現れている現象ではあるけれど、RPGのポストモダン化は著しく顕著だ。特にRPGにおけるポストモダン化はシナリオ的にも言えるし、システム的にもその兆候を見ることが出来る。

その嚆矢を日本のRPGで見てみるならば、『ポケットモンスター』っぽいなと一瞬思えるけれど、年代的に考えたり構造を考えたりすると、今話題の枡田省二さん企画の『リンダ3(キューブ)』が真っ先に挙げられる。『ポケモン』ももちろん同じ想像力の下にあろうとは思うが。というか、このゲームはそもそも成り立ちからして明確に王道に背を向けて正に脱近代なゲームだった。


「DESIGNER'S NOTE」(LINDA3公式)
「リンダキューブ」は「天外II」のゴミから産まれた?
なぜ、こんな「ヘン」なRPGを作ることになったかを話そう。
すべては「天外II」のせいだ。アレを一言で言い表わすなら「王道」。オーソドックスでなおかつ力強く、それでいて豪華絢爛な造り。万人の支持を得るためには、斬新なアイデアは全て捨てねばならなかった。
3年もそんな物に係わっていると、ストレスのたまり方も尋常ではない。クリエイターの血がうずき始める。そして産まれたのが「天外II」のアンチテーゼ「リンダキューブ」である。
繰り返すが、君は世界を救えない。
君が救えるのは、気色の悪い動物100種類と、クチの悪い女の子1人だけだ。
(上記リンクより一部引用)


枡田さんの言葉を借りて『リンダ3』を定義するなら「外道」で「普通じゃない」で「質素」で「万人向けではない」ゲームだ。そもそも悪の親玉など存在せず、ただひたすらに敵を弱らして(否倒す、殺す)より多く捕まえることが目的のゲームだからだ。企画者本人の弁にもあるように、隕石落下の危機に瀕した世界は救えず救えるのは、「気色の悪い動物100種類と、クチの悪い女の子1人だけ」だ。(同上リンク)


とにかく最初の取っつきの悪さを自力で乗り越えて欲しい。
既にプレイした方はお気づきだろうと思う。このゲームは「ヘン」だ。確かにそこらのRPGと、見た目はソックリ。なのに今までのお約束事がほとんど通用しない。
あるテストプレイヤーは、ハーディアの町の周囲をグルグル回り続けた挙げ句、「怪物がぜんぜん襲ってこない」とこぼしていた。「回復の魔法は何レベルで覚えるんですか?」と質問した人もいた。
断っておく!! このゲームには魔王はいない。君も勇者じゃない。魔法なんかない。誰も道を教えない。君が何をしても隕石は止まらない。
今どき、こんな不親切なRPGなどなぁぁい!!(自慢してどうする)
(同上リンク)


けれどもそれはこのゲームの全てではない。上記に挙げたような要素は『リンダ3』の本質ではある。けれどもその本質は王道的ではないにしろ、優れた脚本によってオブラートに包まれてしまっている。シナリオがA,B、Cと3種類用意されていて、開始直後からどれでも選べるがA、Bを先にプレイすることを推奨される。A、B、Cはそれぞれパラレルワールドと言う設定で、特にAとBはサイコサスペンスなシナリオでグイグイと物語を牽引する。

そして問題なのはシナリオC。シナリオA、Bはユーザーを物語へ引き込んでいく極めて強い灰汁と魅力を持ったサイコサスペンスだけれど、シナリオCは特段にシナリオが無い。誰かが殺されたり、誘拐されたり、陰謀が暗躍したり、そしてボス的な存在も居て、上記で枡田さんが述べているRPGとは異なるのがシナリオAとB。設定は同じで、単に動物を集めるだけなのがシナリオC。でもそれには理由があるようで。


Tech-PlayStation コラム原稿「オープニングムービーに騙されて『リンダ』を買うんじゃないゾ!」(LINDA3公式)
3.シナリオAとBはエサだ!
リンダには3つのシナリオが用意されている。ゲーム雑誌を見ると、練られたシナリオとか愛と狂気とか、サイコスリラーとか、シナリオAとBがさもそれらしく紹介されている。
だが圧倒的に面白いのはシナリオC。さらに熱いのが隠された4つ目のシナリオDだ。(開発スタッフは今やこれしかプレイしてくれない。)
実は企画当初シナリオAとBは存在しなかった。シナリオCのみではあまりにシステム部分の取っ付きが悪いので、初心者用のオマケとして追加したのだ。だからAやBはシナリオだけを評価すれば、刺激的でけっこうよくできている。ただしCやDに比べると面白さの次元が凡庸だと、個人的には思う。
(上記リンクより一部引用)


ドキドキハラハラさせられるサイコサスペンス的なシナリオのシナリオAとBは初心者用のおまけ、ある種のカモフラージュでしかなかったのだ。サイコサスペンスRPGのその実は動物を集めるだけのRPGだったということ。シナリオCこそが(PS版とSS版では加えてシナリオDこそが)間違う事無き枡田さんが宣言したとおりの主人公が勇者でもなく、悪の魔王も出てこず、世界を救うことも出来ない質素なRPGだった。

『リンダ3』はしばしばモンスターを収集するという要素から「早すぎた『ポケモン』」と言う評され方をするが、個人的には『リンダ3』は『ポケモン』と言うよりも『モンスターハンター』に近いのではないかと思う。モンスターこそ収集しないが倒した動物を加工し利用するというゲームデザインや戦闘での戦略性はじゃんけん的な『ポケモン』よりも『リンダ3』のそれに近い感覚がある。『リンダ3』の場合もっと変則的ではあるけれど。

脱近代的であり、しかもそのゲームデザインはRPGの脱構築と言えるものだった。例えばそれまでのRPGはゲームであるという前提のため時間の概念が存在しなかった。冒険するフィールドの上にプレイヤーキャラクターを実時間で何時間放置しようともゲーム内時間はイベントが展開するまで1分たりとも経過することは無かった。しかしながら『リンダ3』では半リアルタイムに時間が経過し、放って置くと隕石落下の時を迎えてゲームは終了してしまう。

シナリオ的にも再三述べているように、これまでの伝統的なRPGのような大目的や打倒すべき悪の親玉も、枡田さんが意図したゲームデザインであるシナリオC、Dには存在しない。ゲーム中の目的は単に世界に散在する動物達を時間内に集める(殺してはいけない)ことだけ。しかもどんなに強い動物だろうが弱いレベルの時であろうとも戦いを挑むことが出来る。今では珍しくないこうしたゲームデザインは当時とすれば大変異質なものだっただろう。


何が脱近代的で、どうRPGを脱構築していたのか、補足してまとめて見ると以下のようになる。


・シナリオ的な面
→これまでのRPGのような、大きな目的や物語、倒すべき巨悪の不在

・世界観の面
→これまでのようなキリスト教的善悪の対立、倫理観にとらわれない危うい世界。ついでに言うと、動物を集めろと箱舟を寄越す神っぽい存在が居るが神ではなく宇宙人だったりする(この辺は木原喜彦著『UFOとポストモダン』のUFO神話と社会情勢の言及に詳しい)

・システム面
→半リアルタイムに時間が経過し、敵(動物)も倒してもアイテムやお金は落とさない。倒された動物は動物でしかない(加工することでアイテムやお金に換えることが出来る)。戦闘での向きによる有利不利。


一言で言えば近代の否定とリアリズムの導入。物語の否定、旧来的な倫理観の否定、半リアルタイムとはいえ時間軸の導入(そして『リンダ3』は時間によって難易度が決まる)などに象徴されるリアリズム。ファンの欲目な気もしないではないが、日本のRPGの歴史の中で見るとアルファシステムのRPGと言うものはRPG進化の注目すべき道標なんじゃないかと思う。でも1つ疑問と言うか、冒頭から脱近代とか触れてきたけれどそれまでのRPGが果たして近代だったのかどうか。出来れば後で考えてみたい。