亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

安政の泣き一揆

2013-03-13 | 歴史

安政5年(1858)は地震や冷夏、長雨で稲が実らず、飢饉だった。米の値段が上がって、庶民の暮らしは苦しくなっていった。町の十人組頭に願い出ても聞き入れてもらえず、皆で殿様(前田斎泰)に訴えることにしました。

7月11日の夜、老若男女約2000人が卯辰山に登り、城に向かって「ひだるいわいやー」「ままくわせー」と大声で泣き叫びました。

           卯辰山から金沢城展望

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卯辰山山頂から金沢城はすぐそこに見える。約1.7㎞あるらしい。

人ひとりどんなに大声を上げてもとてもじゃないけどお城に声は届かないと思うけど大勢で叫ぶと意外と遠くまで届くものだ。

           復元中の橋爪門

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新幹線開通に間に合わせようと金沢城では橋爪門の復元工事が着々と進められている。そのすぐ後ろのあるのが卯辰山。この山頂で大勢の人が声を合わせて叫んだ。

卯辰山はお城が見下ろせるため、立ち入り禁止になっており、人がいるとすぐ分かるように大きな木は皆切り倒されいた。

その為、見張りに気付かれないように真夜中にこっそり登ったようだ。

         寿経寺の七稲(なないね)地蔵

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 金沢東茶屋街のの一角にある寿経寺の正面に七稲地蔵が祀られている。七体のお地蔵さんがそれぞれ稲の束を手に持って立っている。

 お殿様に直訴するには順序と言うものがあって、それを無視して直接訴えると罰せられる。その為、その首謀格の内、5人の首が刎ねられ2人が獄死した。合わせて7人がお地蔵さんになっている。

               首謀格7人の墓

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  首が刎ねられると言うことが分かっていてなお一揆を行って庶民のために尽くした。昔の人は偉かったのだね。

 一揆が行われた翌日、藩は500俵の米を放出した。

映画「武士の家計簿」では猪山直之が事前に役人の不正を発き訴えたが認められず、一揆がおきてようやく藩主前田斉泰に認められ殿様付けの算盤侍になったとなっている。

 猪山直之は大変真面目な人でどんなに家計が苦しくても決して付け届けは受け取らなかったと言う。

彼の息子信之は時の実力者大村益次郎に認められたが、益次郎が暗殺されたため実力があったにもかかわらず国政にトップになることは出来なかった。        

コメント (1)
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