藤原氏
姓氏の一つ。天児(あまのこ)屋根(やねの)命(みこと)の裔と伝え、文化改革の功臣中臣鎌足が、居地の大和国高市郡藤原に因んで藤原姓を賜ったのに始まる。姓(かばね)は朝(ちょう)臣(しん)。鎌足の子不比等は文武天皇の頃から政界に趣をなし、その子武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟はそれぞれ南家・北家・式家の4家の祖となる。北家はもっとも繁栄し、その一族は平安時代から江戸時代まで貴族社会の中枢を占めた。なお、奥州藤原氏はもと亘理(わたり)氏で、別系。
藤原氏の祖。始め中(なか)臣(とみ)氏。鎌子という。中大兄(なかのおおえ)皇子をたすけて蘇我大臣家を滅ぼし、大化改新に大巧をたて、天智天皇の時、大織冠・内大臣。談山神社に祀る。中臣鎌足。
鎌足の次子。右大臣。光明皇后の父。大宝律令の制定を指導して律令制度の確立に努めるとともに、藤原氏隆盛の基礎をつくった。藤原氏4家の祖。
不比等の次子。北家の祖。聖務天皇に仕え内臣、また参議として信頼が厚かった。
藤原北家の祖・藤原房前の三男。官位は正三位・大納言、贈太政大臣。
藤原北家、大納言・藤原真楯の三男。官位は従二位・右大臣。 桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。
歌人。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の次男]。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。
冬嗣の子。通称白川殿、染(そめ)殿(どのの)大臣(だいじん)。842年の承和(じょうわ)の変で伴(とも)・橘両氏の勢力に打撃を与え、妹順子(じゅんし)の産んだ通康親皇を即位させて文(もん)徳(とく)天皇とし、さらにその妃をであった娘明子(めいし)の産んだ惟人(これひと)親王を皇太子とし、857年人臣最初の太政大臣に進み、858年皇太子は即位して清和天皇となった。866年応天門の変で伴・紀両氏の勢力を奪い、摂政に就任、藤原氏による摂関政治の確立に努めた。
長良の子。叔父良房の養子として後を継ぐ。陽成天皇の摂政となったが天皇を廃し、光孝天皇を立てて政務を代行、宇多天皇が即位すると阿衡(あこう)の紛議を起し、初めて関白となる。
基経の子。醍醐天皇の時代の左大臣。兄時平の後を継いで延期格式を撰上。朱雀天皇の時、摂生関白・太政大臣・時平・中平とともに三平と称した。
忠平の子。通称、九条殿。この兼通・兼家、孫の道長が関白を継承し、摂関家の祖となる。
師輔の子。兄兼通と関白を争い、子道兼をして花山天皇を欺いて譲位を図った。摂政太政大臣。大入道前関白、また東三条殿と称。
兼家の第5子。御堂(みどう)関白・法成寺入道前関白太政大臣と称されるが、正式には関白でなく内覧の宣旨を得たのみ、法成寺摂生とも。藤原氏極盛時代の氏長者。長女彰子は一条天皇の皇后となって後一条・後朱雀両天皇を産み、次女妍子は三条天皇の皇后、3女威子は後一条天皇の皇后、4女嬉子は後朱雀東宮の妃。法性寺を造営。
道長の長子。宇治関白。後一条・後冷泉3天皇52年間の摂政関白。後太政大臣准三宮。宇治に平等院を建てて閉居。
藤原頼道の子、母は藤原衹子。京極殿ともいう。1069年左大臣、1075年関白・氏長者となる。源師房女麗子を室とし、師房孫賢子を養女とするなど、村上源氏との結びつきを強め、賢子は白河天皇中宮と善仁親王(堀河天皇)の生母となった。1086年堀河天皇の即位とともに摂政となる。1088年太政大臣(翌年辞任)、1090年関白となる。
藤原師実の子、母は源師房女麗子。1083年内大臣、1094年関白・氏長者となる。堀河天皇を助け、白河上皇の院政には批判的で、摂関家の勢力維持に努めた。1095年延暦寺衆徒の強訴を武力で阻止。そのため死後、日吉山王のたたりで落命したといわれた。
師道の長男。氏長者・関白・摂政。長子忠道と不和で、次子の頼長を偏愛した。
忠実の子。摂政関白・太政大臣。父や弟の頼長と対立したが、保元の乱後また氏長者となる。出家して法性寺入道前関白太政大臣ともいう。詩歌にも長次、書法にも一家をなして、法性寺様といわれた。
藤原忠道の3男。九条家の始祖。月(つき)輪(のわ)殿、法性寺殿とも。1185年源頼朝の推挙で議奏(ぎそう)公卿、翌年摂政となり、1191年関白。常に頼朝と結び勢力拡大に努めたが、1196年政敵土御門(つちみかど)道(みち)親(ちか)のため失格。
藤原北家、中納言・藤原長良の三男。 摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。
藤原北家、大納言・藤原道綱の三男。官位は正三位・参議。
藤原行成の長男。官位は正四位上・近江守。
通称は福光園関白。極位極官は従一位関白左大臣。 摂政関白左大臣九条道家の次男、母は太政大臣西園...-
兼家の第四子。右大臣・関白。父を助け花山天皇を欺いて譲位を勧めた。世に七日関白・粟田関白という。
今年の大河ドラマ(光る君へ)で道兼はまひる(紫式部)の母を殺したという悪役になっている。
奥州の豪族。常清の子。源義家の援によって清原家衡・武衡らを滅ぼし、奥羽両国の押領使となり、鎮守府将軍を兼ね、平泉の中尊寺を建立、奥州藤原氏の基を開いた。
奥州の豪族。清衡の子。陸奥・出羽の押領使。京都の文化を移入し、毛(もう)越寺(つじ)を建立。
基衡の子。出羽押領使・鎮守府将軍・陸奥守。平泉に居り、奥州藤原氏の最盛期を築く。源頼朝と対立し、源義経を庇護。また宇治平等院を模して無量光院を建立。
秀衡の子。陸奥・出羽の押領使。父の遺命によって源義経を衣川館に庇護したが、頼朝の圧迫を受けてこれを殺害、かえって頼朝から攻撃されて殺された。
一寸欲張りすぎたかな。いい加減な所があったかも。
藤原氏の登場人物はまだまだある。その一部だけを書いてみた。
これら登場人物の資料は手元の電子辞書に載っていたものである。
今年の大河ドラマ「光る君へ」の題字は物凄く綺麗である。
あんな字が書けたらな~。
そんな字が書けるようになるとしたらいつのことやら。
ことしは元日早々から大変な地震が来た。
午後4時10分ごろ、私はパソコンに向かっていた。
いきなりからだが揺れた、揺れているのは私の頭の中、最近、どうも頭がおかしい。そろそろお迎えが来たのか。なんて思っていたら急にあたりがガタガタ音がして家が揺れ出した。
これは本物だ自分の頭ではない。ストーブを消してフラフラして外へ出ると「あんたなんぼでも出てこんで何をしてたがや」と家内が言う。
何で黙って外へ出ているのかこちらが文句を言いたいくらい。
その後余震がずっと続く。
金沢地方は震度5と報道された。
こんなに余震が続く地震は初めてだ。