亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

哲人聖徳太子

2016-09-24 | 読書

叔父が残していった昭和5年発行の中学校の教本の書写も今回で終わりにします。

所々書き込みがしてある。フリ仮名を打ってあるのかなと思ったがどうもそうでもないらしい。この本はどうやら人から譲り受けた物らしいが、どちらか分からないが外国語の勉強をしていたみたい。軍艦は外国の港に寄港することもおおかたったので現地ではどう表現するのか知りたかったのでは。

哲人聖徳皇太子

高島米峰

 私の最も崇敬する偉大な哲人を求めて私はまづ聖徳太子を挙げざるを得ない。聖徳太子の偉徳鴻業は山の如く高く、海の如く広く、到底筆紙のよくつくすところではないが、憲法17条を定めて平和の理想を宣言し、この理想実現の為には、仏教の信仰を以て国民の精神生活の根本基調とすることの切要なのを認め、更にそれに依って、天皇中心主義を闡明して、建国の精神を振作し、また官位12階を定めて人材登用の門を開き、以て閥族跳梁の弊を一掃するに至ったのである。啻にそればかりでなく、当時世界の最大強国として、最も文化の進化した支那――支那は恐らく日本をその属国くらいにしか考えていなったであろうほど、それほど日本の世界的地位は低いものであった。――と對等の国交を結ぶことになったというのは、実に聖徳太子の偉大性の、いかに驚くべきものであるかを看取せしめられるのである。

 聖徳太子は推古天皇の15年に遣隋使発遣のことを決定し給い小野妹子が使節に任ぜられて、その年7月に出発した。この年は隋の煬帝の大業三年で、妹子が煬帝に差出した国書の冒頭には、

 日出づる所の天子、書を日没する所の天子に致す。恙なきや。

とあって、実に堂々たるものであった。従来支那はみづから中国を以て任じ、東夷、南蛮、西戎、北狄と四方の国々を野蛮国あつかいにしていたので日本の如きも所謂東夷の中の一つぐらいに考えていたのであろうが、その日本から、突如としてこうした対等な礼を以て書を贈ったので、煬帝は甚だ不快に感じ、一度はそれを却けたのであるが、しかしこれほどの国書を差し出す国は、一体どのくらいな文化をもち、国民の生活がどのくらい進んでいるのか、ともかくもその実情を知る必要があると思ったのだろう、斐世情というものを使者として我が国に遣わすこととなり、斐世情は小野妹子と共に、翌年4月難波に着いたのである。この隋使斐世情の報告が、日本を隋と対等なものにするか、それとも依然として属国あつかいにするかという最も重要なものであったので、聖徳太子はその待遇については、頗る心をお籠になったらしい。まず朝廷では飾船30艘を以て一行を難波の江口に迎えさせ、難波の新館をその旅館に充てて、優遇至らざるなく、また彼が都に入る時には、飾騎75疋を以てこれを大和の海石榴市(つぼいち)の衢に迎え、天皇の謁を賜う時には、有司百官が定められた冠位に従って、綺羅星の如く宮廷に居並んだというので、さすがの斐世情も、すっかり感服してしまったらしい。その結果、彼が帰国の時、第二回遣隋使として再び小野妹子を遣すこととなり、その時妹子の持って行った国書は、これもやはり聖徳太子の筆に成ったもので実に大文書であった。さすがの隋の煬帝も斐世情の報告やら、こうした堂々たる二度の国書やらで、もう否応なしに、対等な国交を結ばなければならないことになり、従って支那は、日本を完全な独立国として、認めなければならなくなったのである。これ実に聖徳太子の理想の一面が、遺憾なく実現したのであって、我が国が金甌無缺な国体を維持して今日に至り、さらにその天壌と共に窮まりなきを期し得られるのも、これ等に淵源するところが頗る多いのである。

 聖徳太子の御事業は、上の述べた外、外国文明の輸入でも、美術工芸の奨励でも、歴史の編纂でも、憲法の創制でも、冠位の設定でも、暦法の研究でも何一つとして偉大でないものはないが、その中でも最も重要なものは即ち天皇中心主義の徹底、最も意義あるものは即ち仏教の興隆、最も花やかなものは即ち日隋対等な国交であって、これ私が哲人として崇敬し讃歎し奉る所以なのである。

 惟うに日本開闢以来、皇太子で攝政の大任を帯びさせられた方は僅かに御三方しかましまさぬ。しかもその中の御二方が、皆20代の青年でこの大任を帯給うたということは、現代学生の最も尊い亀鑑でなくてはならない。その所謂摂生皇太子の御三方と申しあげるのは、推古天皇の摂政皇太子聖徳太子、斉明天皇の摂政皇太子中大兄皇子、及び今上陛下即ち前の摂政皇太子裕仁親王陛下にましまし、聖徳太子は20歳、中大兄皇子(後の天智天皇)は30歳の時に、そして私たちの敬愛し奉る前の皇太子殿下は21歳の時に摂政の大任を帯させられることとなったのである。聖徳太子摂政の時代にも中大兄皇子摂政の時代にも、日本が内に充実し外に躍進したという事実から考え合わせて、どうしても昭和の日本もまた、我が聡明英遇にわたらせられる今上陛下の御威徳によって、更に一段と内に充実し外に躍進すべきことを、確信せざるを得ないのである。

このころの日本はまだまともだった。その翌年昭和6年9月18日、満州事変が起きてこの辺りから日本の国がおかしくなる。

聖徳太子は10人の話を一度に聞いてそれに的確に答えたと言う。私は10人どころかたった一人の話も満足に聞けない情けない人間だ。

中国は未だに殿様意識が抜けないようだ。もっと自分の足元をよく見ろと言いたい。

小野妹子は女じゃないよと言う新聞記事を読んだ。私も習った時はおやっと思ったものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする