亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

鳥越城に行く

2011-11-26 | 歴史

手取川紅葉ウォークに参加して念願の鳥越城を訪れた。

鳥越城は昭和52年から3ヵ年にわたって発掘調査が実施された。

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           鳥越城跡石碑

天正8年(1580)柴田勝家軍の寄って、落城した。城郭は、東西400m、南北1200mに及び、頂上部を中心とした7ヵ所の平坦地が主要な郭を構成する。

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      一揆破れて山河あり

 500年前、日本の歴史、世界の歴史に例のない、農民の心をひとつにしてきた国があった。これが「加賀百姓の持ちたる国」の誕生である。

 天の声、地の声を、わが心とした人々の固い団結は、以来100年に及んでいる。

 しかし、歴史は無常である。この国の終末は殉教という悲劇の中に幕を閉じることになる。

 その最後の舞台が、ここ、「鳥越城」である。

 いま、悲しい歴史をもつこの里にも、新たな創生が進められている。

 それは400年前に、先人たちが心をひとつにして、雲霞が如き織田の大群に、死をも恐れず立ち向かった一向一揆の殉教の精神を讃迎し、そのエネルギーを継承し、新たな鳥越村を築くことである。―記念碑名板より

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        本丸枡形門

鳥越城に現存している石垣や門は落城した後に作られたもの。

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                 本丸門

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         本丸跡

本丸の標高が310m程で、山麓から120mの標高差がある。

建物は何もなくあるのは柱の跡を示す杭だけ。

右の隅にある四角の枠は井戸の位置を示す。

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      本丸からの展望

鳥越城は手取川と大日川の分かれ目の天然の要塞に築かれた。

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       中の丸門

鳥越城には普通のお城にあるように二の丸、三の丸の他に裏二の丸、裏三の丸がありさらに中の丸というのがある。お城の上り口が幾つもあったようで中の丸門からも出入れ出来るようだ。車で上れるのは裏三の丸側で上り口は別にあるようで、車道は車社会にあわせて後の世の人が付けた物で本丸まで行けるようになっている。

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        あやめが池

掘割の一つで涌水が溜められる様になっていてお城で必要な水を賄っていた。

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     二曲(ふとげ)城跡登り口

二曲城は鳥越城とは一寸離れた所にあり元々ここが本来の城で鳥越城は織田信長が攻めてくるというので急遽必要にせままれて築城した物。

一向一揆の最後の戦場となった鳥越城は霊峰白山の麓にある。

以前は鳥越村だったが、今は白山市の一部になっている。

白山市は広くて、徳光の海岸から白山の頂上まで白山市で鳥越と言ってもどこにあるのか分からないような存在になってしまった。

ついこの間、野々市市が誕生したが、野々市は金沢市のすぐ隣にあり、将来発展するのが確実だったので、幾度の金沢市の誘いにも応じず頑張って来たが、鳥越は将来衰退していくばかりの山村で白山市との合併は仕方のなかったことなのである。

コメント
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