亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

唯識

2013-10-04 | 日記・エッセイ・コラム

「唯識」とは、大乗仏教の思想の一つで、すべてのものは私たちの個々の「識」によって現出されたものであり、客観的な実体がそれぞれ存在しているものではないと説く。その識もまた生滅変化するものであって、究極的にはすべて「空」なのである。あらっぽく言えば、心のスクリーンに映っているだけのものを実態と思っているのである。

先だって亡くなった兄の永代経がいつもお世話になっているお寺で行われた。

「永代経」とは、死者のために、寺が永久的に継続して命日などに行う読経(どきょう)。特に真宗でいう。

永代経に付けば、いちいちお寺へ足を運んでお経さんを上げて貰わなくてもいいので、精神的にも経済的にも遺族は助かるというのである。

お寺がなくならない限り永久的に面倒を見ますとのこと。

そのお寺に「本願寺新報」という機関誌の購読を進める札が下がっていた。お寺さんに「これはいくらするのですか」と尋ねると、「ちょっと待ってください」と奥へ入って行った。値段が分からないので調べに行ったのかなと私は思った。

やがて戻ってきたお坊さんは一通の新聞を手にして「これは去年の物ですけどよかったらどうぞ」

新聞なんかどうでもいいのです。値段に興味があっただけです。

せっかくだから貰ってきた。

上記の冒頭の記事はその機関誌に書かれていたもの。

宗教で救うことが出来るのはこころだけで物質的なことは何もできない。東日本大災害で想定外の津波に襲われても、福島原発事故でも宗教は心を癒してやるだけで、物質的なことは何もしてやることは出来ないのです。

私はあのテレビで映った津波の映像を見て、神様も仏様もどこにもいないんだと思った。

もっとスケールの大きな物の考え方を持たなければいけないと思った。

人間の存在とは映画のスクリーンに写っている映像に過ぎない。

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