亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

什の掟

2014-10-27 | 学問

金沢市民大学講座も終盤を迎えました。

今回は会津日新館館長 宗像精(むなかたただし)さんの講演「なぜいま『ならぬことはならぬ』なのかというテーマ―です。

とても82歳とは思えぬ元気な人でした。

会津藩幼年者「什の掟」

一つ、年長者の言うことは背いてはなりませぬ

二つ、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

三つ、嘘言をいうことはなりませぬ

四つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ

五つ、弱い者をいぢめてはなりませぬ

六つ、戸外で物を食べてはなりませぬ

七つ、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

    ならぬことはならぬものです

NHK大河ドラマでならいました。

 

あいづっ子宣言

一つ、人をいたわります

二つ、ありがとう、ごめんなさいを言います

三つ、がまんをします

四つ卑怯なふるまいをしません

五つ、会津を誇り年上を敬います

六つ、夢に向かってがんばります

    やってはならぬ やらねばならぬ

    ならぬことは ならぬのものです

これは最近出来た物らしい。

理屈ではない、ダメなものはダメなのです。最近の教育は間違っています。

理屈ではないのです。ダメなものはダメなのです。そのことをしっかり教えなければなりません。

何でも自分で考えさせる今の教育は間違っています。会津では幼少のころからそのことをたたき込んでいました。

会津にある鶴ヶ城の石垣は加賀の人が作った。利家を水風呂の入れて蒸発した前田慶次が最後に仕官したのは会津でした。加賀藩と会津藩は関係が深いのです。

宗像精会津日新館館長は3時間も5時間も講義されるという大変なエネルギーです。今回の90分間講義は物足りなかったでしょう。

将軍の子として生れながら厳しい人生を歩まなければならなかった会津藩主保科正之は徳川4代将軍家綱を支えていたことは有名です。倒産寸前の会津の経済を立て直したのも保科正之です。

会津藩と加賀藩の関係は以前金沢能楽美術館で習ったことがあるので当時の資料を探し出したが難しいね。中々必要なところが見つからず今回は記事に反映するのは見送りました。

ネットで調べて見ると、会津藩と言う所はやたらと藩主が変わり大変なところだというのが分かりました。伊達政宗の時代、上杉景勝の時代などがあったのですね。時代に奔走され続けた会津の人たちは可愛そうです。

 

コメント
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