例えば、我が子が交通事故に遭う。
病院へ運ばれると、看護師は当然のようにPCR検査をする。
入院患者は例外なく、そうする「決まり」になっているからだ。
そして「医療従事者の我々のような、特別な手洗いや洗浄をしてないシロウトはいつコロナウイルスを持ち込むかわからない」という理由で、さっきまで一緒にいた家族は、我が子につきそうことも見舞いも許されない。
子供がどんなに小さくても、泣いても、細くてもである。
看護師いわく「(無いけどあることにされているソレは)国の対応がそうなっているから」だそうである。
そして、おみくじのような検査で、もし陽性が出たら終わりである。
陽性の意味とか、検査のぴょう性なんかどうでもいい。
それが「決められたルール」かどうかが、全てなのだ。
患者は、たまたま事故に遭った「コロナ患者」になって「コロナ病棟」に移される。
そして危険なので他では承認されなかったけど、なぜか日本だけ電光石火で認可された薬を、躊躇なく投与される。
それが「ルール」だからである。
薬を使えば治療の点数は上がるし、コロナ患者を受け入れたら莫大なお金が入る「決まり」になっているからである。
子供が亡くなったら当然、コロナで死んだことになる。
「規定」により、それ以外はあり得ない。
ルールに則った医師や看護師は、最善を尽くした「医療従事者さんありがとう」と感謝される存在でこそあれ、落ち度なんかあるわけない。
そして「規則」に従って、遺体は速攻で燃やされる。
親が次に我が子と会えるのは、灰になってからである。
どんなふうに治療されて、どんなふうに生きて、どんな最後だったかも親は見ることもできない。
それが「決まり」だからだ。
そういう人たちの顔を見ていると
「ワタシはルールに反則せず従った」ということが、何よりの良心となって、呵責どころか精神を浄化させるようだ。
「なぜ山に登るのだ?」「そこに決まりがあるからです」よろしく、ルールにきちんと従うというのは、人が超えられない、もはや神のようなもの。
何なん、これ?