人として生きる 丁字村ブログ

この時代に 人の温もりを感じて感謝できる生き方って どんな立場であろうと同じです。幸せになるためには考え方が大切です。

あなたと出会った意味

2007年04月30日 08時55分51秒 | Weblog
人間関係や恋愛も、精神レベルを上げれば自然と解決していくことです。いろいろなことが、バランス良くうまくまわるようになるのが、精神レベルの上がった状態だからです。
 人との出会いや恋愛などにも、「すべてのことには意味がある」と心から思えれば、すごく楽に生きることができますよね

ハート

2007年04月29日 11時04分35秒 | Weblog
精神的な意味での人間の成長とは何だろう。人間の精神を評価する基準は時代や社会によって変化する。基準が変化すると、自分が変化していなくても評価が変わるので、成長しているのかどうかがよく判らない。成長という変化を考える場合の基準は一定していなくてはならないのである。

では、1つの価値観を基準にしてそれをどこまでも追求するのが成長かと言うと、それは精神的な偏りがひどくなっているだけである。人間の精神は複雑に機能するものだが、1つの価値観は「精神機能の一部を限定的に発揮すること」に対応していると思われる。1つの価値観が精神機能の一部に対応しているとすると、多様な価値観を身に付ければ、精神機能を偏り無く発揮できるようになっていくはずである。それが精神が成長していく方向ではないだろうか。

つまり、精神の成長とは「今の自分の価値観に加えて、それとは異なる価値観を身に付けること」である。価値観を身に付けるとは、その価値観に従って行動できるようになることだ。個人がひとつの価値観を身に付ける試行錯誤の過程が「マイブーム」である。我々が何かに熱中している時、自分の精神機能の新たな可能性を開拓しているのだ。それが「やりたいことをやる」ということである。

多様な価値観が身に付いたかどうかはどのようにして判るのだろうか。多様な価値観を身に付けると、ものごとの良い面を発見する確率が高くなって、好運なことが多くなる。好運なことが多いと、当然、気分が良くなる。つまり、精神的成長とは気分良く暮らせるようになることである。気分が良くない時は、自分の価値観を見直す必要がある。

2007年04月28日 09時19分11秒 | Weblog
人生に起きる様々な出来事は、感謝の心を深めるために起きます。

喜びも幸せも悲しみも苦しみも悩みも絶望さえもが、神様のあた
たかい贈りものです。

「感謝の種」という贈りものです。

わたしたちは、不幸を忌み嫌いますがこの不幸という体験のお陰で、
不幸のない普通で平凡な日々に心の底から感謝できます。

病気のお陰で、普通の時の自分の体に感謝できます。

事故のお陰で、普通に生活できることに感謝できます。

災害のお陰で、普通に過ごす日常に感謝できます。

不幸は実は不幸なのではありません。

不幸は普通という奇跡の幸せを気づかせてくれる、神様の贈りものなんです。

不幸は実は、感謝の心を蘇らせるための「感謝の種」なんです!!!!!


大丈夫だよ!!!

辛い思いをさせたね・・・

悲しかったね・・・

苦しかったね・・・

寂しかったね・・・

怖かったね・・・

辛かったね・・・

でも、よくがんばったね・・・

わたしは とてもうれしい・・・

あなたが この不幸という感謝の種を受け止めてくれて!!

あなたが泣いている時、わたしも一緒に泣いていたんだよ。

あなたが苦しんでいる時、わたしも一緒に苦しんでいたんだよ。

あなたが寂しい時、わたしも一緒に寂しがっていたんだよ。

あなたが怖がっている時、わたしも一緒に怖がっていたんだよ。

あなたが辛い時、わたしも一緒に辛い思いでいたんだよ。

でも、あなたはこの不幸(感謝の種)を乗り越えて、感謝の芽をだし
始めてくれました。

不幸という感謝の種は、必ずあなたに感謝の花を咲かせるからね。

もう、大丈夫だよ!!!


クモの糸

2007年04月27日 08時51分54秒 | Weblog
ある日の朝のことでございます。お釈迦様は極楽をぶらぶらお歩きになっていました。お釈迦様は玉のように美しい極楽の蓮池からはるか下の地獄をご覧になりました。するとカンダタが地獄にある血の池で浮いたり沈んだりしたりしているのを見つけました。カンダタ(犍陀多)は生前、大泥棒や人殺しと様々な悪事を行った為に地獄に落とされてしまいました。しかし、生涯で一度だけ善い事をした事がありました。それは小さな蜘蛛を助けたことでした。蜘蛛を見つけたカンダタははじめは早速足を上げて蜘蛛を踏み殺そうとしたのですが、「いやいや、いくら小さな蜘蛛といえど命のあるものに違いない。その命を奪い取るということはいくらなんでもかわいそうだ」そう思い直したのでした。そこでお釈迦さまは、地獄の底のカンダタを極楽への道へと案内するために、一本の蜘蛛の糸を、カンダタに下ろしました。
カンダタはその蜘蛛の糸を見てとても喜びました。これで地獄から脱出できるばかりか、極楽に行けるかもしれない。そう考えたカンダタは蜘蛛の糸をつたって、地獄から何万里も上にある極楽へと上り始めました。ところが、糸をつたって上っている途中でカンダタはふと下を見下ろすと、数限りない罪人達が自分の上った後をつけていました。このままでは糸は重さによって切れて、落ちてしまうとカンダタは思いました。そこで彼は「この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前達は一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ。」と喚きました。次の瞬間、蜘蛛の糸が、皮肉にもカンダタのぶら下がっている所から切れてしまいました。カンダタは再びまっさかさまに地獄に落ちてしまいました。
お釈迦さまは極楽からこの一部始終をご覧になっていました。自分だけが地獄から抜け出そうとするカンダタの無慈悲な心が、お釈迦様には浅ましく思われたのでしょう。しかし、極楽の美しい蓮池の蓮は少しもそんなことには影響されず、相変わらず玉のような美しさと、好い匂いを漂わせているのでした。極楽もそろそろ昼に近づいたのでございましょう。
自分だけって思う小さな心が いつまで経っても変わらぬ状態を作っている。
やはり 自分より先に人の幸せ・・・・ここに尽きます。


元気なあいさつ

2007年04月26日 08時50分47秒 | Weblog
お店のスタッフ全員が元気な挨拶をすれば、店には活気あるプラスの雰囲気がみなぎってくる。プラスの空気に触れれば、来店したお客様だって元気になる。開店から閉店時間まで、スタッフもお客様も元気一杯のお店が日本中に増えていけば、日本中が元気になる──という訳なんです。


シジミ汁

2007年04月25日 08時55分38秒 | Weblog
シジミを砂抜きして、軽く米を研ぐように洗い殻についている泥等を良く洗い流します。
良く水を切ったシジミを鍋に並べ(なるべく重ならないように)火をつけ蓋をして空煎りします。たまに鍋を火の上で廻し約10分ほど煎ります。
火を止め蓋を開けるとシジミが全部口を開いています。そのまま冷まし、シジミを別の器にうつすと鍋底に少量の乳白色の汁が杯に一杯位あります。これを冷まして杯に注ぎ供します。
《ポイント》
これは、料理と言うよりも健康食品の作り方ですが、酒席が多い中肝臓が弱っている時によいという話です。酒豪の人に杯に一杯お出しすると喜ばれるのではないでしょうか。 喜ばれたいですね相手のこと考えて・・・

時間

2007年04月22日 10時02分29秒 | Weblog
年齢とともに時間が加速して流れていく感覚は一体何でしょうか。体感的な時間の早さはその人の経験年齢と比例するともいわれます。時間を早く感じるということは、人生の経験値が増加したと単純に喜ぶべきか、生物はサイズ(体重)によって感じる時間の早さが異なるという「ゾウにはゾウの時間、ネズミにはネズミの時間ある」
今日一日、何が起こるか、それが分からない、そういう日は長い。何が起こるか、それが分からないと、なぜ一日が長いのか。そこには「未来がある」からである。

遊び

2007年04月21日 14時43分33秒 | Weblog
余裕(ゆとり)は「遊び」とも言う。この「遊び」はデジタル的には処理できない。例えば、歯車と歯車がどの状態で最適安定状態に入るか、即ち「遊び」が安定するまでには設置してから一定の時間を要する。「遊び」を想定してデジタル的に余裕を設定しても、「遊び」は環境と材質と微妙な力バランスなどによって落ち着くべき所に落ち着くもので、極めてアナログな世界である。