ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 08/05~08/11

2012-08-12 16:30:48 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 08/05~08/11
losungenj 2012.08.05(sun)
わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている。(Jer1:12)
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(Mar13:31)
私の黙想:
神が言葉遊びをしている。神様も面白い。突然、神が現れて「私はお前が生まれる前から知っている。お前を預言者にする」といわれて若いエレミヤは驚き、固くなっていたことだろう。そこで神は言葉遊びをなさる。この文脈ではアーモンドをめぐる会話は余分である。神はエレミヤの心をほぐしたうえで恐ろしい預言を語る。

losungenj 2012.08.06(mon)
正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。(Ezek33:12)
弟子たちは出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。(Mark6:12)
私の黙想:
つまり、正しい人と思われている人であっても、あるいは悪人と言われている人であっても、神の裁きは過去ではなく現在の状況が取り上げられる。ここで「つまずかせる」という訳語はしっくりしない。この文章の主語は「悪」であるから(影の主語は「主」)、口語訳や新改訳のように「倒す」がいい。あるいはこれを受動態で訳して「(悪人は過去の)悪によって倒されることはない」。文語訳はこれに近く「その悪のために倒るることあらじ」と訳している。

losungenj 2012.08.07(tue)
神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください。(Ps51:12)
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(1Cor6:20)
私の黙想:「新しく確かな霊を授ける」に引っかかる。フラ訳では「わたしの霊を強めて、新たなものにしてください」となっている。ここで問題になっているのは過去に犯した具体的な罪の懺悔。従って「霊を強める」。ただ詩人はそこからさらに突っ込んで「霊の創造」を祈る。

門叶国泰
1.逐語訳は「神よ、清い心を創造し、新しい確かな霊をわたしの内に(授けてください)」である。が、カルヴァンも(新共同訳&フランシスコ会訳と同様に)、[わたしの内に]を[清い心]にまでかけている。
2.「創造してください」の動詞には「バーラー」が用いられている。「バーラー」は神のみが主語となる動詞である。カルヴァンは、「このことによりダビデは、[われわれの内に何か良きものがあるとすれば、それは神の慈愛の賜物である]と告白したのである」という。
文屋 善明 ここでは「新しい確かな霊」なのですね。私の内にある「霊」の入れ替え。古いエンジンを新しいエンジンに交換する。すごい注文です。ヘブル語スクーリングの上に神の豊かな祝福がありますように。

門叶 国泰 動詞は「バーラー(創造する)」だけです。後半の逐語訳は「新しい・確かな霊」「わたしの内に」であり、動詞はありません。よって、黙想は限りなく広がります。「霊の創造」も「いいね!」

三浦 三千春 ああ、すばらしい! 新しい確かな霊!

losungenj 2012.08.08(wed)
わたしは主、むなしいしるしを告げる者を混乱させ、知者を退けてその知識を愚かなものとする。(Isa44:25)
あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。(1Tim6:20)
私の黙想:
今日の聖句をジーッと睨んでいると、バベルの塔の物語を思い浮かべる。新共同訳で、たまたま同じ「混乱」という言葉が用いられているからであろう。いわゆる「専門家」といわれている人々の「混乱」であり、人間の知識が持つ内部矛盾が露呈する様が述べられている。この言葉を原子力問題に絡ませることは強引すぎるだろうか。

losungenj 2012.08.09(thu)
わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。(Hab3:18)
イエスの言葉:花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。(Mak2:19)
私の黙想:
イスラエルの民はよく踊る。踊りは喜びに直結している。イエスは悪い時代を批判して「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」(マタイ11:17)という聖書の言葉を引用している。またイエスは平野の説教において「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」(ルカ6:23)と語る。

losungenj 2012.08.10(fri)
わたしの道を申し述べます。わたしに答え、あなたの掟を教えてください。(Ps119:26)
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(Joh15:12)
私の黙想:
おいおい、一寸態度大きくない。「教えてください」と言うなら、もう少し下手に出ろよ。いいじゃないか。神様はこういう人も愛してくださる、いや、こういう人こそ、可愛がってくださるのだ。神様は人間が自由で主体的であることを望んでおられるに違いない、と私は信じるよ。ねぇ、神様そうでしょう。

losungenj 2012.08.11(sat)
神はわたしの道を見張り、わたしの歩みをすべて数えておられるではないか。(Job31:4)
わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。(2Cor5:10)
私の黙想:ヨブは、神に対して人に対して無罪を主張する。ヨブの無罪を最もよく知っているのはヨブ自身であり、神だという。この主張の中に「原罪」という観念は全くない。「原罪」などという後の時代のキリスト教が生み出した観念が、神と人間との関係を歪めている。誤解を避けるために一言付け加えておくと、ヨブの問題は「罪」の問題ではなく、人間が置かれている「場」の認識の問題である。ヨブは神とサタンとが設定した「場」を知らない。そこにヨブの問いがある。人間は自己が置かれている「場」を知らない。ハイデガーの「投企(投げ出された存在)」であることを認識できない。

門叶国康
新共同訳が「見張る」と訳した「ラーアー」はごく普通に「見る」という意味に用いられる単語である。「見張る」と言われると、まるで監視されているようだ。フランシスコ会訳は「御覧になる」と自然体で訳している。(口語訳の「みそなわす」は丁寧語過ぎる。1950年代には普通に使われていたのだろうか?)
対する新約はⅡコリント5:10「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに応じて、報いを受けなければならないのです。」
独りごと:パウロの教えをこのままストレートに読んだら、「私には救いがある筈がない」。「神は一旦わたしたちを恵みの内に受け入れたもうならば、神はまた、わたしたちの業をも無条件の受諾をもって受け入れたもう(カルヴァン)」との信仰がなければ、とても読めない。

文屋 善明 門叶さんはやはりカルヴィニストですね。
門叶 国泰 「カルヴィニスト」などとの高級品ではありません.書斎にカルヴァンの注解書が比較的多いというだけのこと。いい加減な信者です。
文屋 善明 私も一時カルヴィニズムに惹かれ、神戸の改革派神学校にも1年通いました。その頃は英語版でしたがカルバンの注解書を全巻持って(書斎に飾って)いましたが、引越の旅に大変に荷物になるのと考え方が変化したので、聖公会の聖職になったとき、全巻京都のウイリアムズ神学館に寄付しました。
門叶 国泰 こういう方の話を聞くと、自分のいい加減さで自己嫌悪症に陥ります。でも、もうしょうがない、最終コーナーはゆっくりと歩いていきます。

文屋 善明 いえそうではないのです。私にとってカルヴィニズムから離れるということは、そのまま正統派キリスト教から離れることで、いわば「堕落」の道を歩んでいることだと思っています。もちろん、「悪への道」という堕落ではありませんが。

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