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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/12/23~12/29

2018-12-29 17:02:11 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/12/23~12/29

2018 日々の聖句 12月23日㈰
主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。(詩34:8)

主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(ルカ2:9~10)

私の黙想:
文語訳では「主の使いは主を畏れる者のまわりに営を列ねて、これを援(たす)く」(「エホバ」を「主」に読み替え)であった。「営を列(つら)ねて」とか「援く」という言葉が好きだった。これらの言葉を聞くと、戦場の雰囲気がいきいきとイメージされる。まぁ、それだけ軍国主義教育が徹底していたのであろう。
口語訳では「主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる」。「陣を敷き」(フランシスコ会訳)、「陣を張り」(新改訳)でも同じ意味ではあるが、多分、緊迫感が違うのだろう。「援く」もニュアンスがある。「守り助ける」では迫力が違う。フランシスコ会訳と新改訳は「助け出す」と訳し、多少緊迫感が感じられるが、「守り助け」ではいかにも「専守防衛」の感じで、危機感に乏しい。何も私は軍国主義教育を賛美しているのではないが、闘うべき時は闘わなければならない。敵陣に味方が包囲されていたら、何をさておいても、飛んでいって救出しなければならない。今日の聖句にはそのような危機感がある。
協会訳聖書では「主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き彼らを助け出した」。
新約の聖句はイエスの誕生の日の天使到来の物語。当時の羊飼いたちにとって、周辺で何か異変が起こればそれは碌なことではない。そこに思い切り光が輝き何かが起こった。羊飼いたちは何かが起こった、それが何か分からなかったことであろう。彼らは周りを周りを見回したことであろう。しかしそこに天からの声が響き渡った。「恐れるな」。これがまさに「主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった」という経験である。

2018 日々の聖句 12月24日㈪
主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ、わたしに対して沈黙しないでください。(あなたが黙しておられるなら、わたしは墓に下る者とされてしまいます。)(詩28:1)

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11)

私の黙想:
「沈黙しないでください」という部分、共同訳聖書は同じ、口語訳では「耳しいとならないでください」、フランシスコ会訳では「耳をふさがないでください」、新改訳では「耳を閉じないでください」、聞こえているのに黙っているのと、聞こえないのとではかなり違う。要するに、ここでは神に私の声が届いているのかどうかが問題である。ただの「沈黙」ではない。聞こえているのか、聞こえていないのかが問題であり、それが不安なのである。こちらの願いや意志が相手に届いているのか、私と相手との関係が通じているのか通じていないのか。それは人間にとって「根源的と言っていいほど」深刻な不安となる。
こういう感じというのは、通常は、普段は、いつもは必ず通じているという確信があるときに、通じないということが不安になる。通じてさえおれば、安心できる。現代人には「便りのないのは良い知らせ」なんて悠長に構えておれない。外国に旅行中の友人のことを想定すれば分かる。昔なら通じないということが普通であるが、SNS等を通して「通じている」ということが当たり前になると通じないことは不安になる。
さて、神との関係、日本人にとって、神との音信不通ということは不安の材料にならない。日本人は「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒言行録17:28)と信じている。ところが、ヘブライ人たちは、常に「神に見放されるのではないか」という不安の中で生きているようである。さぁ、どちらの方が信仰的で、幸せなのだろう。変に通信機器が発達しすぎて、音信不通になることに異常な不安を感じる現代人は、果たして「古い人々」よりも濃密な人間関係を持っているのだろうか。

2018 日々の聖句 12月25日㈫
(主はわたしの力、わたしの盾わたしの心は主に依り頼みます。)主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。(詩28:7)

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:20)

私の黙想:
今日の聖句は7節の後半だけである。しかし、前半を切り離して後半だけでどれだけの意味があるのだろうか。前半は主への信頼が述べられており、後半は神の助けを得て感謝している。信頼と感謝、それは分離できるのだろうか。例えば口語訳、文語訳では明らかに「助けを得たので」助けられたということが明らかである。
その点で、新共同訳、フランシスコ会訳、新改訳では「寄り頼み」と「助けられた」とが切れている。ここに因果関係があるのか。まぁ、どうでもいいようであるが、信仰生活における日常性と特殊性との関係をうかがわせる。
「苦しい時(困った時)ときの神頼み」という言葉がある。普段は神のことなど全く意識していないが、自分では解決できないような困難に直面した時に神に祈るということを言った諺であろう。それはそれとして重要な事だし、そういう態度は決して否定されるべきではない。
しかし、それよりもは普段から「神頼み」して生きている者にとっても、予想もしないことが起こったときに、おろおろするだろう。もっと重要なことそれがイエスの母マリアである。
ただ、結果として「神さまがあの困難を乗り越えさせてくださった」のだということを経験した時、「私の心は喜び踊る」。実はマリアは「まだ」困難に直面していない。これから起こるであろう「耐え難き困難」を、もう既に「喜びたたえている」それがマリアの賛歌の凄さである。

2018 日々の聖句 12月26日㈬
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:18)

シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。(ルカ2:28~30)

私の黙想:
邦訳のほとんどが、「彼にふさわしい助けて」と訳している部分。ヤハウェが他名の動物と違って人間をお作りになった。そこまではいい。それはヤハウェの判断だしヤハウェの自由である。そのヤハウェが「人が独りでいるのは良くない」という。それもヤハウェの判断であろうその時、確かに「人は一人」である。それでヤハウェは人の前にすべての動物を連れてきて見せるが、そこには「ふさわしい助け手がいない」。世の中にはペットがいるから「独りではない」と思っているが、それは代用であって「ふさわしい助けて」ではない。それなら全能のヤハウェのこともう独り人間を創れば良いことではないか、と私は思う。しかし、新しく作った人間が「ふさわしい助けて」になるのか保証はない、
因みに、文語訳ではこれを「彼に適うふ助手」と訳している。「ふさわしい助け手」と「適う助」が同じかどうか議論がある。ここでいういったい「アダムにふさわしい助け手」とは、どういう存在か。ややこしい議論をすべて省略すると結婚相手である。その点で、岩波訳なユニークである。「彼と向き合うような助け手」と訳している。ここから理論と事実とを逆転して考えると、夫婦とは互いに「向き合う関係」である。夫唱婦随ではなく、対等に面と面とを向かい合わせる相手が夫婦である。だからヤハウェは新しい人間を創ることなく、アダムのハートからイヴをお創りになった。アダムとエヴァとは別人格であると共に一体である。

2018 日々の聖句 12月27日(木)
あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。(申命記11:16)

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

私の黙想:
ここでは注意すべきこととして「心変わりして」「離れ」「仕え」「ひれ伏す」という4つのことが挙げられている。口語訳では「迷い」「離れ去り」「仕え」「拝む」という訳語が当て嵌められている。フランシスコ会訳では「惑わされ」→「心変わりし」→「仕え」→「礼拝する」、新改訳では「迷い」→「横道にそれ」→「仕え」→「拝む」となる。これらはヤハウエ信仰から偶像礼拝に至るプロセスが、いわば克明に分析されている。こうして並べてみると、新共同訳以外では「迷い」、「惑わされ」、「迷い」というように「心変わりする前」の段階、そもそもの出発点が明示されている。つまり偶像礼拝に至る出発点は「内なる確信の揺らぎ」である。
人間は外からの誘惑には結構堪えることができても「内的な揺らぎ」には弱い。ここからは私自身の経験を考えると、いわば「信仰の確信」あるいは「救いの確信」とは「確固たるもの」つまり「固いもの=剛構造」だと思っていたが、実は「柔構造」なのではないかと思う。身体の中心が「ゆらゆら揺れている状態」が外的な変化に対して柔軟に対応できる状態であるのと、同様に精神の中心がゆらゆらしていることによって「外からの誘惑」というか、むしろ、裏切り、不信、失望に対して柔軟に対応できるのではないか。「信仰の躓き」(教会への不信、聖職者への失望)に耐えて信仰を貫く秘訣は「内的柔軟性」にあると思う。

2018 日々の聖句 12月28日㈮
心に喜びを抱けば顔は明るくなり、心に痛みがあれば霊は沈みこむ。(箴言15:13)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、(慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、)あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(2コリント1:3~4)

私の黙想:
口語訳「心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい、心に憂いがあれば気はふさぐ」。文語訳は口語訳とほぼ同じ。旧約聖書において「霊」とは人間が人間として生きる力である。
協会訳聖書では面白い。「一人の心が喜びを抱けば人々の顔を明るくし、一人の心が苦しめば人々の霊は沈み込む」。好みの問題になるが、私はどちらかというと、協会訳がいいなぁ。

2018 日々の聖句 12月29日㈯
悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。(ネヘミア8:10)

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(ロマ15:13)

私の黙想:
今朝は極度に短い一句を考える。「悲しんではならない」。人間は悲しいことがあるから悲しむのであって、悲しむことが誰も悲しまない。イエスの有名な言葉に「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」がある。キリスト者なら誰でお知っているだろう。だからと言って、慰めるために悲しむバカはいないであろう。問題は何を悲しんでいるのか。イエスの言葉にはその説明がない。
ネヘミアの言葉では理由は何であれ、「悲しんではならない」という。何故なら、悲しむことの逆のこと、つまり同じ理由のもとであっても、悲しまないで喜べというニュアンスである。悲しむことには何かをしようとする「力の源」がないからという。だから悲しいとき、悲しまないで喜べという。そこに次のステップへのエネルギーが出てくる。

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