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ぶんやさんの記録

説教 イエスからサタンと呼ばれた男

2014-07-28 10:03:02 | 説教
説教 イエスからサタンと呼ばれた男 マタイ16:21-27

1. 「サタン、引き下がれ」
イエスから面と向かって「サタン」と呼ばれた男はペトロだけである。イエスの宿敵、律法学者やファリサイ派の人々でさえ、「偽善者」と呼ばれても「サタン」とは呼ばれていない。イエスを裏切ったユダでさえ、福音記者ヨハネが「すでに悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせた」と「解説」するが、イエス自身は「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13:27)といわれ、イエスがローマ兵に逮捕される場面では、彼らを誘導したユダに対して「友よ」(マタイ26:50)と呼びかけている。イエスが「サタン」と呼びかけているのは、荒れ野でイエスが断食して祈っている時に現れた本物のサタンに対してだけである。イエスがペトロに対して「サタンよ、退け」と言われたとき、それは決して冗談ではなく本気である。
マタイのこの箇所はマルコ福音書からの引用である。この場面についてマルコは「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた」という。つまり叱れているのは弟子たち全員であり、ペトロはその代表として叱られているのである。ところがマタイはマルコの「弟子たちを見ながら」という言葉をカットして、ペトロ個人に対する言葉としている。事実がどうだったのかということが問題なのではなく、マタイはそう述べているのである。つまりイエスの「サタン」という言葉によって、傷つけられているのはペトロ個人だけである。あるいは「 先生は私の気持ちを少しも分かってくれない」という気持ちがペトロの中に残ったであろう。この傷あるいは不満はその後のペトロの生き方に強いトラウマとして残ったであろう。なぜ、そこまで言われなければならないのか。
この時の場面をもう一度読み直す。

2.テキストの再吟味
【このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」】(マタイ16:21~23)

師イエスから「(わたしはこれから)エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と打ち明けられたときのペトロの気持ちはどうだったのだろうか。そのとき発したペトロの言葉がその時の気持ちを正直に示している。ほとんど脊髄反射的に
「先生、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」という言葉が出てきたのであろう。その時の気持ちをルカは次のように記している。「先生、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)。まさにこれがペトロの純粋な気持ちであったのであろう。その気持は最後の晩餐の席でも「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまづきません」(マルコ14:29)と言い、イエスから鶏が鳴く前に3度「知らないというであろう」と言われた後でも「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことは知らないなどとは決して申しません」と「力を込めて言い張っている」(同31)。事実、ゲッセマネの庭でイエスが逮捕されようとした時、おそらくペトロと思われる人物が、剣を持って抵抗し、相手の耳を切り落としている。つまりペトロの純粋な気持ちはここでも純粋であった。
こんなに純粋に主に従っているペトロに対してイエスは「サタン」という激しい言葉で叱責されたのである。それを言われたときのペトロの気持ちはどうだったのだろうか。先生はわたしのこの純粋な気持ちを少しも分かってくれない、というショックであったのではないだろうか。
この時のイエスとペトロとの気持ちの行き違いを私たちは理解できる。要するにイエスの考えている「メシア観」とペトロを始めとする弟子たちの「メシア観」との違いが正面衝突したのであった。ペトロはあくまでも自分が理解するメシア観に従ってイエスをメシアと信じ、そのように行動しているのである。

3.その後
イエスとペトロとの気持ちの行き違いは修復されないまま、時間過ぎ、いよいよイエスがローマの兵隊によって逮捕される場面に至る。イエスにとってはこれから始まる神によるドラマの始まりであった。しかし ペトロにとってはいよいよ自分の気持を行動に移すクライマックスであった。剣を取って、身を張ってイエスを守るときであった。そしてその行動によって自分の純粋な気持ちをイエスにわかってもらうチャンスでもあった。しかしこの時もペトロの行動を差し止めたのはイエスであった。そしてイエスは何の抵抗も見せず、ローマの兵隊に逮捕され連れて行かれてしまった。この時のペトロの気持ちは「サタン」と言われた時以上の失望であっただろうと推測する。「もう、知るもんか」。その気持ちが、裁判所の庭での「イエスを知らない」という行動となった。それを言った直後に、しかもたいして緊迫している状況でもない場面で、3回も「主を知らない」と言ってしまった。その時、鶏のなく声が響いた。本当に鶏が鳴いたのかどうか誰も知らない。しかしペトロの心の耳には鶏の鳴き声が聞こえた。そしてイエスが振り返る姿まで見えた。その瞬間ペトロは自分の裏切りに気付き、落ち込む。決定的の落ち込む。それはイエスから「サタン」と呼ばれた時よりも、イエスから「剣を納めよ」と言われた時よりも、もっと深く、落ち込んだ。ルカはその時のペトロの気持ちを次のように語る。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外の出て、激しく泣いた」(ルカ22:62)。これがペトロである。これがまさにペトロの本性である。

4. 「神のことを思わず、人間のことを思っている。」
さてもう一度あのときのイエスの言葉に戻って考えよう。あの時、イエスはこう言われている。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。ペトロのメシア観は人間的な発想であり、それはイエスのメシアとしての使命を「邪魔するもの」だという。あの時イエスの前に立ちはだかったペトロはイエスを邪魔する者であり、それは荒野でイエスを誘惑したサタンと同列の者であった。ペトロはサタンとしてイエスの前に立っていたのである。そのサタンのサタン性とは「人間のことを思っている」ということに根ざしている。
考えてみると、私たちはいつも「人間のことを思って」生きているし、「人間味がある」ということが美徳とされている。しかし、その人間味あるペテロの言葉は、イエスにとってサタンの囁きである。しかしペテロがイエスに対して「あなたはキリスト、神の子です」と告白したとき、イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこの事を現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われた。イエスをキリスト、つまりメシアと告白することは神の示し、啓示にほかならない。
実はこの時のペトロの信仰告白はペテロ自身の人間的なメシア観によるものであった。ペトロが本当の意味での信仰告白をすることができたのは、イエスの十字架と復活の後である。イエスが十字架上で苦しみ死ぬとき、ペトロ自身は自己嫌悪のどん底にいた。ペトロは彼自身のメシア観もろとも、イエスの十字架と共に破綻した。ペトロ自身が身を張って守ろうとしたもの、それはペトロ自身のメシア観に他ならなかった。ペトロはメシアを守りきれなかった。見事に破られた。しかし復活したイエスがペトロの前に姿を現された時、ペトロはイエス自身のメシア観に立って復活した。イエスの復活はペトロ自身の復活でもあった。

5.「この岩の上に教会を建てる」
イエスは「このペトロの上に教会を建てる」と言われた。このペトロ(岩)である。あのペトロではない。単に抽象的な信仰告白という言葉の上ではなく、生身の人間としてのペトロの上に教会を建てるのである。いや、正確に言うとペトロに「わたしの教会」を託したのである。イエスとペトロとの関係はガリラヤ湖において完全に修復され、ペトロはイエスのメシア観に立ってイエスと会った。イエスはペトロに「わたしの小羊を飼いなさい」と命じられた。つまり、イエスはペトロに「わたしの教会」を託された。ペトロはイエスの教会を預かった。そして死に至るまでイエスの小羊を飼う者として生きた。




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