ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:大斎節第1主日(2019.3.10)

2019-03-08 15:34:01 | 説教
断想:大斎節第1主日(2019.3.10)

荒野の誘惑  ルカ4:1~13

<テキスト>
1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』
11 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

<以上>

1.大斎節は水曜日(「灰の水曜日」、今年は3月6日)から始まり、復活日の前日(今年は4月20日)まで46日間続く。その間に大斎第1主日から復活前主日まで6回の主日があり、それを除いて40日間が大斎日である。この40日間にちなみ、大斎第1主日では毎年イエスが悪魔から誘惑を受ける場面から始まる。
荒野の誘惑の記事はマルコでは、ほとんどその事実だけを述べる短いものである。従って誘惑の内容についてはほとんど述べていない。マタイとルカはおそらくQ資料をもとに誘惑の内容を3点に絞って詳細に記録している。その3点は両者ともほとんど同じであるが、第2と第3の誘惑との順序が違っている。もともとのQ資料がどうなっていたのかはもはや知るよしもないが、少なくともルカ福音書においてはこれから論じるイエスの活動と密接に関連している。
第1のパンの誘惑はガリラヤでの活動(4:14~9:50)と対応し、第2の世界支配への誘惑はエルサレムへの旅(9:51~19:27)に関連している。第3のエルサレムでの誘惑はまさにエルサレムでの活動(19:28~24:53)そのものである。

2. 誘惑という言葉
ここで「誘惑を受けられた」と訳されている原語は「ペイラゾーメノス」(原形はペイラゾー)は基本的には「試みる」、「試練に会う」「反省する」「誘惑する」「誘惑に陥る」などと翻訳されている。12節では同じ単語に強調の「エク」が付けられているだけであるが「試す」と訳されている。
広辞苑によると、誘惑とは「いざないまどわすこと」「悪い道にさそってまどわすこと」と説明されている。どうやら、誘惑ということには「まどい」ということがあるようである。「まどい」とは、「まよい」という意味で、「まどい箸」とか「惑い者」(居所の一定しない者、流浪人)誘惑の場合、「まどう」のは誘惑される側である。誘う側には迷いはない。誘われる側がまどうのは、誘われる側に「誘いに乗りたい」という気持ちがあるからである。そういう気持ちがなければ誘惑は誘惑にならない。本日の福音書のいわゆる「イエスが誘惑を受ける」の記事は、「誘惑」の物語になっていない。この出来事を「誘惑の出来事」として読むのは、ここでの悪魔の誘いを「誘惑」として考える読者の側の問題である。むしろ内容的にはイエスと悪魔との「勝つか、負けるか」の対決の物語である。

3. 「”霊”によって引き回され」
マルコ福音書では「”霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(マルコ1:12)と述べ、ルカはそれを「”霊”によって引き回され」と修正する。因みにマタイは「“霊”に導かれ」(マタイ4:1)とする。
ここで「引き回す」というような刺激的な言葉が用いられているが、ここで用いられている原語「アゴー」は単に「導く」とか「連れて行く」を意味するごく普通の動詞である。文語訳聖書では「導く」と訳している。マルコ福音書では「送り出す」というむしろ特殊な言葉、原意は「放り出す」が用いられており、マタイ福音書では「上に導きあげる」を意味する特殊な単語が用いられている。それに対してルカはごく普通に「導く」という言葉である。それをわざわざ「引き回す」などという気を惹くような訳は妥当ではない。むしろ、荒れ野へだけではなく、これ以後のイエスの全生涯が霊に導かれたものである。
ここで重要なことはイエスが荒れ野に出て行って悪魔と対決するに至ったのはイエス自身の意思というよりも神の意志に基づくものであったということが重要である。洗礼を受けたときに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されたイエスも悪魔との対決を経て悪魔に勝利し、「(悪魔が)イエスを離れて」(4:15)真の神の子となる。しかし悪魔がイエスから離れるのは「時が来るまで」である。悪魔が再びイエスの周辺に登場するのは「十二人の中の一人でイスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」(ルカ22:3)である。このことを述べるのはルカだけである。ルカにとってこの期間は特別な意味を持っている。

4. イエスの公的活動の3つのステージ
ルカ福音書はイエスの公的活動を第1ステージとしてガリラヤでの伝道活動を語る(4:15~9:50)。ここでは主に前期と後期とに分けられる。前期はナザレでの説教から始まりカファルナウムでの伝道活動で、原則的にはイエスは単独で行動をしている。そして、そのまとめが4:42~44である。後期はペトロたちを弟子とする場面から始まり、12人の「使徒」(6:13)の選定と弟子集団の形成と育成とがなされる。このステージでのクライマックスは5000人の給食という奇跡(9:10~17)で、この間にイエスは自分自身の使命の確認がなされ、エルサレム行きを決意する(5:1~9:50)。
以上が第1ステージで、第2ステージは9:51から始まり19:27までがエルサレムへの旅の記録である。第3ステージはエルサレムでの歓迎の記事(19:28~38))で始まり、エルサレムの神殿内での祭司長や律法学者たちとの論争、民衆への教えなどが繰り返される。ここでのクライマックスは十字架上での死である。これら3つのステージと悪魔による3つの誘惑とが対応していることは明白である。

5. 第1と第2の誘惑
第1の誘惑の課題はいわゆる「パンの誘惑」と呼ばれているものである。パンの課題は「生きる」ということに関わる深刻な問題である。マタイ福音書にあってルカ福音書にない言葉、どちらが削除したのかあるいは付加したのかということは不明である。ただ、マタイが「人はパンだけで生きるものではない」という言葉の後に「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉を付加しているのに対して、ルカはそれを削除している。この相違はいかにもマタイらしいし、同様にルカらしい。山上の説教においてもマタイは「心の貧しい人々」(5:3)と言うのに対して、ルカは単に「貧しい人々」(6:20)という。マタイの観念主義に対してルカの現実主義とでも言うべきか。
第2の誘惑は、いわゆる「高い山での誘惑」であるが、ルカは必ずしも「高い山」とは言わない。単に悪魔は「イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた」という。明らかにルカはこの誘惑物語全体を非現実的に描いている。この点について、蛇足になるが、非現実的に描くことによって現実的な物語となる。そして悪魔は悪魔の正体を明確にする。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」(4:6)。この言葉はマタイにはない。ルカは悪魔をこの世界の「一切の権力と繁栄」支配するものとして理解している。もちろん、その悪魔も神の支配にあるということは明らかである。ここでの誘惑の課題は、人は誰に仕えて生きるのかということである。この世の支配者に屈服し、跪き、拝し、仕えるのか。あるいは神に仕えるのか。この場合神に仕えるとはこの世を旅人のように生きるということにほかならない。この世にありながらこの世のものではない生き方。この世の支配者に膝を屈しない生き方。ルカ特有の貧富観からいうと、この世の権力とか繁栄から離れた生き方。文字通り「貧しい者」(ルカ6:20)として生きること。

6. 第3の誘惑
いわゆる「神殿の屋根の誘惑」である。この誘惑の課題は難しい。信仰そのものへの問いかけである。悪魔は「神の子なら」という言葉で語りかける。信仰者にならば「神を信じているなら」という言葉である。もっと具体的には「神を信じなさい」という言葉で誘惑してくる。私たちの信仰そのものが誘惑になる。実に巧みな誘惑である。その誘惑に対して信仰者は「信じない」とは言えない。ここでの信仰の内容とは「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」というものである。飛び降りたら死ぬことは間違いない。しかし神は死ぬ直前にあなたを助けるであろう。それが信仰というものだ。この誘惑は十字架上のイエスを襲った誘惑でもある。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(ルカ23:35)。共に十字架にかかっていた犯罪人の一人も「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(23:39)とイエスを罵る。そのような外からの誘惑にもまして、イエス自身の中にもひょっとすると最後の瞬間、神が救い出していくれるのではないかという思いがあったかも知れない。マタイ福音書によると十字架の周りにいた人たちでさえ、ひょっとすると「エリアが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」(マタイ27:49)と語り合っていたという。
これは厳しい誘惑である。イエスは「あなたの神である主を試してはならない」と答えた。ルカ福音書が語るイエスの最期の言葉は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(23:46)であった。これこそが究極の神信仰である。これもルカだけが述べていることである。

7. 誘惑する者・悪魔とは
マタイもマルコも、誘惑する者としての悪魔について、何も述べていない。しかし、ルカは悪魔について、悪魔とは何者なのかということを悪魔自身の言葉として述べている。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」(4:6)。
悪魔といえば、何かとんでもない極悪人を想像したり、地獄の長のような神話的な存在を考えたりする。しかしルカは悪魔とはこの世の「権力と繁栄」を支配する者、分配する者であるという。悪魔にはそういう権利が与えられている。従ってルカによればこの世での権力を獲得した者は実は悪魔が彼にその権力を与えたのである。この世で繁栄している者、儲けている者も同じようにその繁栄は悪魔から与えられたのである。
ルカの思想においてお金持ちに対する批判はかなり強烈である。ルカ福音書ではお金持ちはお金持ちであるというだけで徴税人や罪人と同列に扱われている。イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせる」ために生き(4:18、7:22)、貧しい人々は貧しいままで「幸いである」(6:20)と語り、宴会を開催する場合、金持ちを招くな、貧しい者を招けと語る(14:12,13、21)。また、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだの針の穴を通る方がまだ易しい」という。金持ちには「全財産を売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」と勧め、金持ちのザアカイが財産の半分を貧しい人々に施すことを申し出たとき、「今日、救いがこの家を訪れた」(19:9)と賞賛する。因みにザアカイのエピソードを語るのはルカだけである。その他ルカ独自の出来事としては「愚かな金持ちの譬え」(12:13~21)、金持ちとラザロとのエピソード(16:19~30)などがある。これらのルカの語り口を読むとき、おそらくルカが属していた教会には金持ちと呼ばれる人々はいなかったのであろう。

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