昨日の続きの部分である。第1の警告についての意味について、大審問官は語る。この部分にドストエフスキーは最も力を注いでいる。パンは人間の自由の問題と深く絡んでいる。人間はパンを得るために自由だって投げ出す。自由を得るために命を捨てるということは意味がない。死は決して自由を保障しない。それだけではない。一片のパンを得るために人間は「ひざまずく」。イエスはこの「誘惑」に打ち克った。その意味は?
. . . 本文を読む
ドストエフスキーはその作品「カラマーゾフの兄弟」において、イエスの誘惑の物語を取り上げ、劇中劇のように、小説中の小説として「大審問官」を書いている。小説では主人公の兄イワンが弟アリョーシャに自分の作品として語っており、時々、「解説」のように二人の会話が挿入されている。この度、この「大審問官」を独立した作品として分離独立させてみた。
. . . 本文を読む
「自分であることと、他者と向き合うことの緊張関係の中で、欲望のあり方の間(あわい)をはかる。恋愛に似たそのような生のバランスの中に、私たちは生き方を模索していくしかないだろう」(222頁)、と述べる。この言葉は、この深刻な問題に対する茂木さんの「中間報告」として受け止めておく。 . . . 本文を読む
コンピューターの脳と人間の脳とはどう違うのか。この点について、脳科学の第1人者にして、同時にソニーコンピューターサイエンス研究所のシニアリサーチャーである茂木さんは、面白いことを言う。 . . . 本文を読む
本書に、「多重文脈者」という聞き慣れない言葉が登場する。結論として、この「文脈」という言葉は、慣れれば非常に有効な概念である。少し前の時代では「コンテキスト」と英語をそのまま使って論述してきたことである。 . . . 本文を読む
堅苦しい文章が続いたの、ここらでちょっと「お茶の時間」といたします。
美味しそうなデコポンを一ついただいたので、食べるのがもったいなくて、デコポン入りのオレンジマーマレードに挑戦して見ました。 . . . 本文を読む
脳と心との関係を考える際に、どうしてもはっきりさせておかねばならない問題は「私」と「他者」との関係である。他人はあくまでも私にとって外部の存在であり、環境の一つにすぎないが、脳というレベルで考えると、その構造と機能とはほとんど同じものである。そのレベルで「私」とはいったい何なのか。 . . . 本文を読む
わたしたちにとって、もっとも根源的な問いは、「心はあるのか」ということにある。この問題は伝統的には、人間は物質としての身体以外に、魂を持った存在であるという二元論によって担われてきた。 . . . 本文を読む
クオリアという言葉は、主観とか客観とかという哲学的議論に巻き込まれないで、人間特有の意識の流れというものと脳の構造との関係を追求するための非常に便利な概念である。茂木さんの言っていることを理解するためのキイワードは「クオリア」という言葉である。 . . . 本文を読む
この本は凄い。内容が濃い。一行一行というよりも、1章1章が深く考えさせる問題を提起している。そう簡単に、一気に読むことができないほど、内容が詰まっている。全部で24章あるが、3章も読めば、頭の中が満タンになり、もうそれ以上読めなくなる。 . . . 本文を読む
15日(火)晴。午前出校。午後読書及散歩。夜読書、静座。読書の際には頻りに急ぐ心起こり、又名誉心など伴いて、心穏やかならず、大いに猛省すべし。これ是功を求むるいやしき心あるによる。何ぞ区々一西田を忘却して一々に酒酒楽々たらざる。(西田幾太郎「日記より」) . . . 本文を読む