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ぶんやさんの記録

2019 日々の聖句 1月13日㈰~1月19日㈯

2019-01-27 10:02:58 | ローズンゲン
2019 日々の聖句 1月13日㈰~1月19日㈯

2019 日々の聖句 1月13日㈰
ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。(イザヤ54:8)
神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。(ロマ2:4)
私の黙想:
今日の聖句、「ひととき」(協会訳「僅かな間」)と「とこしえ」との対比が気を惹く。7節では「わずかの間」と「深い憐れみ」。その実例がまた面白い。「ノアの洪水に等しい」という。ノアの洪水は、神の目から見たら確かに「ひととき」で「わずかの間」かも知れないが、その被害は人類の滅亡に等しい。そしてその後の「再びあなたを怒り、責めることがない」という。それ以後(永遠に)は、その神の怒りは収まり、もはや責められない時代だという(?)。
いや、実際の人類の歴史を振り返るとき、神はしばしば目つぶり、隠れておられるのではないのだろうか。否、むしろ隠れっぱなしだ。じゃぁ、「今の時」は神にとっての「ひととき」「僅かな間」なのだろうか。「永遠」が「時」に突入し「永遠の今」となり、「今は恵みの時、恵みの日」なのではないのだろうか。
パウロの「『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリント6:2)を思う。

2019 日々の聖句 1月14日㈪ 成人の日
(そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。)彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。(エレミヤ24:7)
神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった(御言をご存じでしょう)。(使徒10:36、口語訳)
私の黙想:
信仰とは究極のところで、「私が信じる」のではなく、「信じる(=知る)心」が与えられることである。そして聖書が語る信仰の極致「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」という言葉が今日の聖句に続く。この言葉こそ、旧約・新約聖書を貫く最重要の聖句である。強いて今日の日の当てはめると、これこそが真に意味で「成人になる」ということに他ならない。
この言葉はこれ以後、エレミヤ書、エゼキエル書に繰り返される(エレミヤ31:33、32:38、エゼキエル11:20、14:11、37:23、37:27)。新約聖書ではヘブライ書で次のように述べられている。「『それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(ヘブル8:10)。
私はこの言葉を現代風に、「神が神とされるときに初めて、人間は人間となる」と解釈している。それをヨハネ福音書ではそれを次のように言う。「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」(ヨハネ10:3~4)。

2019 日々の聖句 1月15日㈫
わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、(集会の中であなたを賛美します。)(詩22:23)
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(マタイ28:8)
私の黙想:
詩22といえば、イエスが十字架上で叫んだ詩として有名である。ところが、十字架の側でそれを聞いていたローマと兵隊たちはそれを「エリア」を呼んでいると解釈している(マルコ33:37、マタイ27:45~50)。キリスト者の間ではこの場面でイエスは詩22全体を読んだのだという伝悦が一般的であるが、それにしては叫びそのものが短すぎる感じもする。確かに1節だけを読むとそれらしく聞こえるが、詩22全体を読むと、その場に相応しは思われない。
ところで今日の聖句で「私の兄弟たちに御名を語り伝え」ということは、外国人や異教徒を対象にしていない。ここでは、仲間内で「御名を語り伝え」ということである。当たり前すぎるので、そこで意味されていることの含蓄を読み取る必要がある。お互いに良く知り合っている仲間の間で、その人の悩みや祈りを知っておりわざわざ事柄を詳しく語る必要がない。それで、「日々の聖句」では省かれているが、「集会の中であなたを賛美します」という言葉が生きてくる。

2019 日々の聖句 1月16日㈬
兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友に、「あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」とひそかに誘われても、同情したり、(かばったりしてはならない。)(申命記13:7,9)
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。(ガラテヤ5:1)
私の黙想:
1月12日の黙想でも述べているように、イスラエルが新しい地カナンに侵入した際、それまでの遊牧民としての生き方が農耕生活に変革する必要があった。もちろん農耕生活には農耕生活に適う慣習や宗教がある。
今日の生活は、そこでどれ程親切にされても、そこで心を許してはならないという。偶像信仰はそこから入ってくるという。
日本人キリスト者の悩みと共通する問題点がそこにある。

2019 日々の聖句 1月17日㈭
ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼(主の軍の将軍)に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言った。(ヨシュア5:14)
あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。(マタイ13:16)
私の黙想:
イスラエルの民が40年間の荒野で試練の後、初めて「約束の地」に足を踏み入れた頃のことがドラマティックに描かれている。約束の地」に入って最初の「土地の産物」を得たときの出来事であり、この時、天からマナが降るのが止んだという。つまり、新しい土地での生活がいよいよ始まるというときである。
突然、「抜き身の剣を手にした男」がヨシュアの前に現れた。この男がどういう人物かよくわからない。もう、戦争状態は終わっている(1節)。ヨシュアは彼を見て「敵か、味方か」と考える。彼は答える「わたしは「主の軍の将軍である」と。ヤハウェ自身の化身か?ヤハウェはいろいろな姿で私たちの前に現れる。
今日の主題は、ヤハウェによる「民族の刷新」というこういうことであろう。
今日の聖句は新しい指導者としてのヨシュア個人に対する神の姿勢が述べられている。ここで最初に命じられていることは「履き物を脱げ」である。この命令はやはりモーセに対するヤハウェの命令と同じである。荒野で靴を脱ぐということは自分自身の弱さを知ること、自分が立っている場所が荒野であるということを肌で感じること、その上で、その荒野が「聖地」であるということを自覚すること。

2019 日々の聖句 1月18日㈮
苦難の中から主を呼び求め、わたしの神に向かって叫ぶと、(その声は神殿に響き、)叫びは御前に至り、御耳に届く。(詩18:7)
イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。(マタイ9:29~30)
私の黙想:
詩人(ダビデ)は苦難の中にある。その苦難の内容は1節によると現王サウルの手から救出されたときとあるが、本当のところ、明らかではない。詩人は神殿で大声で祈っている。サウル王の時代に「神殿」があったとは思えない。もし「神殿」で祈っているとすると、それは天幕であろうから、その声は外部にも漏れたであろう。
そういう種類の批判的なことは横に置いて、ともかく苦難の中にある詩人は神殿で大声で祈っている。その声は神殿中に響いたという。こういう祈り方もあるのである。祈りは決してワン・パターンではない。神にだけソッと祈る祈りもあれば、多くの人々と共に悩みを分け合って祈る祈りもある。ともかく、どういう仕方であれ、その祈りが真実であれば神の耳に入る。

2019 日々の聖句 1月19日㈯
万軍の主が定められれば、誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば、誰が引き戻しえよう。(イザヤ14:27)
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。(ロマ8:31)
私の黙想:
「神が御手を伸ばす」。面白い表現だ。神がすべての国に手を伸ばす。神の御手が届かないところはない。神が全世界のすべての国々の政策に干渉する。アッシリアに出来ることが神に出来ない筈はない。アメリカに出来ることが神に出来ない筈がない。アメリカのやり方が度を越し、傲慢になったら、神はアメリカにも、アメリカの心臓部にも手を伸ばされる。こういう信仰って凄いと思う。
もし私たちがイザヤ書から学ぶことがあるとしたら、そういう信仰であろう。そこで「私の黙想」は停まる。私の黙想の手は短い。届かないところがある。いや、身の回りのことにしか手が届かない。
文語聖書でローズンゲンを初めて10日目です。作業そのものはかなり複雑で朝の時間だけでは間に合わないので、正直なところ前日、あるいは少々早くから準備を始め当日仕上げるようにしています。読者の方々には私の我が儘のためにずいぶんご迷惑をおかけしていることと思います。是非、率直なご意見をお聞かせ頂きたく存じます。

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