ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:大斎節第4主日(2019.3.31)

2019-03-29 14:54:05 | 説教
断想:大斎節第4主日(2019.3.31)

放蕩息子の譬え  ルカ15:11~32

<テキスト>
11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

<以上>

1. 主題
ルカ福音書の第15章には次の3つの譬えが収録されている。
 (1) 「見失った羊」の譬え(4~7)
 (2) 「無くした銀貨」の譬え(8~10)
 (3) 「放蕩息子」の譬え(11~32)
そのうち最初の「見失った羊」の譬えだけがマタイ福音書18:12~14と重複している。この譬えについて両福音書を比較すると話のあらすじはほとんど同じである。100匹のうち1匹が迷い出る。羊飼いはその1匹を探しに行き見つけ出して大喜びするという単純なストーリーである。ところがこの譬えを語る設定はかなり異なる。マタイの場合は「小さな者を独りでも軽んじないように」という教えの譬えとして語られている。そして迷い出た1匹を見つけ出したら「迷わずにいた99匹より、その1匹のことを喜ぶ」(マタイ18:13)というメッセージが語られる。
ところがルカ福音書ではイエスが徴税人や罪人らと共に食事をしているという批判に対する反論として語られ、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びがある」というメッセージで結ばれる。細かいことをいうと、マタイの譬えは「迷い出た羊」の物語であるが、ルカの場合は「見失った羊」である。つまりマタイの場合は「迷い出る」という羊側の問題性が前提となっているが、ルカの場合は羊と羊飼いとの関係が断絶したことについて羊の行動は問題にされない。マタイにおいてはたとえ羊の自己責任において羊飼いから離れてしまったとしても、羊飼いはそのことを問題にせず、羊を見つけ出して連れて帰ることができたことを喜ぶというストーリーである。ルカにおいて強調されている点は「その一匹を見つけ出すまで捜し回る」ということと見つけたら「その羊を肩に担いで」帰って来て、友達や近所に人を呼び集めて大喜びする」という点である。この物語においては羊を見失ったのは飼い主の方で羊のようには悔い改める余地はない。
さて第2の「無くした銀貨」の譬えも銀貨が主体的に持ち主から離れたわけではない。理由はともかく、銀貨と銀貨の持ち主との関係が一時的に断絶したが、「念を入れて」探した結果見つかり、持ち主は大喜びするというストーリーである。この譬えにおいても「悔い改める」というメッセージが入ってくる余地は全くない。ところが二つの譬えを結ぶ言葉は「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」である。おそらくこの結論めいた言葉はストーリーとは関係なく、著者ルカによって記されたと思われる。ここにルカ独自の悔い改めについての理解がひそんでいる。
これらの譬えがおかれている文脈はイエスが「徴税人や罪人」と食事をしていることについてのファリサイ派の人々の批判に答えたもので、イエスの時代のことというよりも、ルカの時代の教会の構成員の問題であろう。教会にはファリサイ派の人々から見ると「徴税人や罪人」に類する人々が大勢含まれていた。このことに対するユダヤ人社会からの一種の「ひやかし」に対する対抗の言葉であろう。「あなたたちのような善人顔をしている人間よりも、あなたたちが軽蔑しているこの人たちが集まっている集団の方が神に喜ばれるのだ」。同様な言葉がマタイも福音書に保存されている。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイ21:31)。この文脈では「悔い改め」という言葉はほとんど意味をなしていない。強いて言うならば、ここでの「悔い改め」という言葉は単純に教会に加わるという意味である。
さて第3の「放蕩息子」の譬えにおいて、放蕩息子は父親に対して「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と悔い改めらしい発言をしている。しかしよく考えてみると、彼は決して父に対して何か不当なことをしたとか、裏切り行為があったわけではなく、当然将来自分が受けるであろう遺産を先行的に受けとり父の家を出て行っただけである。そこには悔い改めなければならない要因は無い。仮定であるが、もし都会に出て行って経済的に成功していれば「罪の自覚」は無かったであろう。成功するか失敗するかは偶然性を含む問題で、たまたま失敗したから「父の元を去った」ということが「罪」として自覚されたのである。つまり単純に父親から離れて生活したこと、言い換えると神との関係の断絶が罪であり、関係の修復が悔い改めである。ルカにおける「罪」とか「悔い改め」という意味はそこから汲み取らねばならないであろう。私たちが考える「罪」とか「悔い改め」という「神学的?」意味をここに持ち込むことは、文脈の意味を損なう恐れがある。

2. 放蕩息子の譬えの解釈
この主日のテキストは11節以下で、伝統的には「放蕩息子の譬え」として語られている部分である。通常「放蕩息子の悔い改めの物語」として読む。その場合、主人公は弟息子とされる。果たしてそうだろうか。この物語は「ある人に息子が二人いた」という言葉で始まり、父親の言葉で終わる。この物語の本当の主人公は父親であり、父親を主人公として読まなければならないのではなかろうか。
そして、その父親とは「神」を示している。ここでは2種類の人間が登場する。一人はファリサイ派の人々に代表される「自分を正しい人間」(ルカ18:9)だと思っている人々で、他は放蕩息子に象徴される神から離れた生活をしている人々である。兄も弟も共に同じ父親の息子である。
弟は父親に相談して生前遺産として自分がもらうはずの財産を分けてもらい、遠い国へ旅立つ。父親から離れた弟は「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまう」。
全財産を失って始めて自分自身の愚かさに気付く。自分自身で何とかできると思っていた自分が間違いであった。父親から離れたら実は何もできないことを悟る。しかしもう元には戻れない。「もう息子と呼ばれる資格はありません」としか言えない。誰から言われるのでもない。「我に返って」(17節)、「息子」という本来のあり方が崩れてしまう。父親との関係の修復は不可能だと思う。譬えの表現はもっと厳しい。息子でなくなるどころか「雇い人の一人」にしてもらうのも「お願い」しなければならない。それが神から離れた人間の現実である。父親は彼のことを「死んでいた」(24,32)と言う。 実は、これはキリスト者たちの自覚を示す言葉でる。ヨハネはこの経験を「死から命へと移った」(1ヨハネ3:14)と表現している。死とは回復不能の状態を意味している。「息子」という本来の状態にはもはや絶対に戻ることができない。これが「悔い改める必要のある者」の自覚である。
ここまでが弟息子を主人公にしたこの物語のクライマックスである。これに対する教会のメッセージは「あなたの悔い改めが、神をどれほど喜ばせるか」ということである。つまり、あなたは「空しい存在」ではない、「息子であって、雇い人ではない」、神はあなたの悔い改めを「待っている」ということである。

3. 「悔い改めを待つ神」
ここからこの物語の本当の主人公である神が姿を現す。父親によって象徴される神は弟息子の帰りを待っている。その姿は次の3点によって語られる。
「まだ遠く離れて」「走り寄って」「急いで」弟息子を待っている。20節
悔い改めの言葉を最後まで聞かない。22節
(3) 兄の帰りを待たないで祝宴を始める。24節
この物語における父親は弟息子の要求をそのまま認める(12節)。弟息子が出ていくときにも止めない(13節)。弟息子を探しに行かない。すべてが弟息子の言うままである。しかし弟息子の帰還を待っている。悔い改めを待っているのではない。ただ待っている。しかも熱心に待っている。弟息子が帰ってきたとき、大喜びをする。反省しているか喜んでいるのではない。ただ帰ってきたことを喜ぶ。これがこの物語に登場する父親の姿である。イエスは神とはそういう方であると語る。それ以上でもなければ、それ以下でもない。教会が世界に呼びかける神とはただ待っている神である。弟息子が帰ってきたら「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」といって無条件に喜ぶ。ここの物語には、これ以外のメッセージはない。このメッセージを語る教会は、あるいは教会のメンバーはすべて、聖職も信徒もすべて、この経験をした者たちである。そこでは悔い改めとはただ「父の元に帰ろう」と決意したことである。その場合悔い改めの言葉さえ無用であったことを経験した。教会とはそういう経験をした者の集団である。悔い改めのために、私たちは何かをしなければならないわけではない。ただ、父の元に帰ればいい。ただ、生き方の方向を変えればよい。私自身の体験によれば、ただ自分に正直になればよい。良い格好をする必要もなければ、隣人に愛を施さなければならないわけでもない。いやのことは「いや」と言えばよい。美しいものは「美しい」と言えばよい。悪いことは「悪い」と言えばよい。それが「我に返る」ということであり、悔い改めということである。
ここに登場する兄息子は、こういう父親が許せない。弟が許せないのではない。父親が許せないのである。彼は父親を譴責する。彼の譴責は正当である。誰でも兄息子の言い分を理解するし、同情する。この時、兄息子に語りかけた父親の言葉は胸を打つ。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。この父親の言葉をどう受け止めるのか。「お前はいつもわたしと一緒にいる」。正確には「一緒にいたし、これからもズーッと一緒にいる」。父親はそう思っている。しかし本当に兄息子はズーと父親と一緒にいたのか。心は離れていたのではないか。父親は「一緒にいた」というのに対して兄息子は「仕えていた」(29節)と言い、「言いつけに背いたことは一度もありません」と言う。親子関係とはそんな関係なのか。父親の気持ちが少しも分かっていなかったのではないか。弟息子が不在の期間、兄息子は弟を批判し父親に不満であったのではないのか。
わたしたちは、この物語において、自分自身を弟と同定するのか。兄と同じ立場に立つのか。それが問題である。

4. E.シュヴァイツァーの解釈
シュヴァイツァーは『ルカ――現代神学への挑戦』(新教出版社)において、6章のうちの1章をさいて「イエス・キリストにおける神の現存」と題して放蕩息子の譬えを解釈している。彼は現代における神の探求を分析した上で、放蕩息子の譬えについて次のように語る。「以下に述べるたとえは、私にとって最近の10年間、神とは何者であるかを理解するための中心的なテキストとなった」(169頁)。彼はこの譬えの中心人物は「放蕩息子」ではなく、その父親であると言い、物語全体を読み直す。ここで描かれている父親は「無能力な全能者」である。「彼は、強制的な力を用いることもなく、待つことしかできません。燃えるような愛の心で待つのです」(171頁)。放蕩息子を迎えた父親の喜びを語った後、「真の衝撃は、物語の最後の部分に訪れます」。宴会の時、父親は宴会の外で弟の帰還を喜ばない長男と語り合っています。この譬えの結びとしてシュヴァイツァーは次のように語る。「イエスは、戸外に佇む無力な父親という絵だけを私たちに残しています。この父親に対しては、正しい長男がつっ立っています。もし、全能の父なるものがいるとしたら、その人は、こういう仕方とはまったく別な振る舞いをすべきである―――これが、長男の動かしがたい鉄の確信でありました。この長男の姿こそ、たとえを聞いた人間にせまってくるものであり、そこに立っている長男とは自分ではなかろうか、という問いを投げかけるものです」。
シュヴァイツァーは、これをテキストとして「イエス・キリストのおける神の現存」についてさらに詳細に論じる。この部分は現代神学にとって重大のメッセージである。一言だけまとめとなる言葉を引用しておこう。「新約聖書は、わたしたちが無力以外の何物も見いださないとところ、神に反抗する人々に全面降伏してしまうところで神が見いだされるべきであること、またこのことは、十字架に釘付けされ、磔刑に処せられ、手足を動かすことはもちろん、もはや地の上に立つべき場所をもたなかったひとりの人において明らかにされた、と告げるのです」(195頁)。確かに十字架上のイエスからはこの地上に立つべき場所が剥奪されていた。「それが、天上の喜びと権威に満たされた祝宴の広間に座しているのではなく、自分に背く息子に中に入るよう乞い願いつつ、冷え冷えとした暗い夕方、外に立っているあの父親を描くルカの譬え話です」(同)。

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