ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/12/2~12/8

2018-12-08 08:25:52 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/12/2~12/8

2018 日々の聖句 12月2日㈰
主なる神はこう言われる。悔い改めて、お前たちの偶像から離れ(、すべての忌まわしいものから顔を背け)よ。(エゼキエル14:6)

律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(マルコ12:32~33)

私の黙想:
ここで「偶像」と呼ばれているものは何か。いろいろあったのであろう。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等ほとんどの預言者の働きは「偶像」との戦いであった。イスラエルの民の間にそれほど時代を超え、場所を超え、偶像が入り込んでいたのであろう。
私は今朝の聖句で「お前たちの」という言葉に反応する。あれや、これやではない。「お前たちの偶像」、つまり「私たちの偶像」、「私の偶像」から離れよと言う。人は何でも「私の偶像」とする。何でも「私の」偶像になりうる。人間は偶像が好きなのだ。人間は「生ける神」が嫌いなのだ。人間は「生ける神」から離れて「私の偶像」を作り出す。「生ける神」は私を束縛するが、偶像は私の自由になる。好きなときに、好きなように関われば良いと思っている。
しかし、その実体がなんであれ、「私の偶像」となる時、私はその偶像に支配されている。偶像もやはり「神」なのだ。強いて言うならば、「生ける神」の対極をなす「忌まわしい神」「死せる神」なのだ。実は私自身は「私の偶像」に慣れ親しむうちに、私自身が死臭ただよう「忌まわしい存在」になってしまう。人間性を失った人間になってしまう。

2018 日々の聖句 12月3日㈪
主は、弱い者を塵の中から立ち上がらせ(、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は、主のもの主は世界をそれらの上に据えられ)た。(サムエル上2:8)

羊飼いは、見失った羊を見つけたら、喜んでその羊を担いで行った。(ルカ15:5)

私の黙想:
今日の聖句は「主は、弱い者を塵の中から立ち上がらせた」という部分だけである。この聖句は、サムエルの母ハンナがサムエルを与えられ、サムエルが少年になったとき、ヤハウェとの約束に従って、サムエルを神殿に預けた。その時ハンナが歌った感謝の祈りという設定である。
ハンナはサムエルが与えられる以前の状態を「塵の中」といい、「芥の中」という。パウロはフィリピ書でキリスト者になる以前に最も価値あるものと思っていたものを、「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに」比べると「塵あくた」(3:8)のように思われるという。塵と芥を組み合わせると「塵芥」となりほぼ同じ意味で「ゴミとかクズ」を意味する。つまり「不要物」「廃棄物」である。ハンナは私はサムエルが与えられる以前は、「ゴミ箱に捨てられていた者」に等しかった。
このハンナの賛美を原型にして、ルカ福音書における「マリアの賛歌」(1:47~55)が生まれたという。
これらの歌の背後にある「聖書的な意味」は多くのところで論じられているので省略するが、この歌の裏にある意味を考えると、ここには大変な女性観が横たわっている。勿論、聖書はそれを否定する意味で用いているのではあるが、女性は子供を産んでやっと一人前の女性として扱われるという女性観がそこにはある。何という非人間性、残酷さであろうか。しかし、今もその価値観を持っている人間が国会議員の中にいるということには驚かされる。ああ、マリアさんはイエス様を産んで良かったね、ハンナさんはサムエルさんを産んで良かったね、では済まされない。

2018 日々の聖句 12月4日㈫
お前たちは立ち帰って、生きよ。(エゼキエル18:32)

神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。(エフェソ4:24)

私の黙想:
今日の聖句は預言者エゼキエルのイスラエルの民に対する呼びかけの言葉である。今日の聖句の解説は18章全体を読めば明白である。その中でも特に強く響き合っているのは、次の言葉であろう。
「わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる」(9)。
「 利息を天引きして金を貸し、高利を取るならば、彼は生きることができようか。彼は生きることはできない。彼はこれらの忌まわしいことをしたのだから、必ず死ぬ。その死の責任は彼にある」(13)。
「 貧しい者の抑圧から手を引き、天引きの利息や高利を取らず、わたしの裁きを行い、わたしの掟に従って歩むなら、彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。必ず生きる」(17)。
「 しかし、その子は正義と恵みの業を行い、わたしの掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる」(19)。
「 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」(21)
「彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる」(22)。
「彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない」(28)。

2018 日々の聖句 12月5日㈬
主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。(詩121:5~6)

主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。(1コリント1:8)

私の黙想:
詩121は「日々の聖句」で最近取り上げられたと思い探すと11月20日に8節が取り上げられている。その時も述べたがこの詩は「都にのぼる歌」(巡礼の歌)である。巡礼団はこの歌を歌いながら長く苦しい旅をしたのだと思われる。
この詩を注意深く読むと、1~2節は巡礼者自身の言葉で、3節以下は巡礼者を送り出す保護者の言葉であろうと想像される。非常に美しい。この詩には旅立つ者の不安な気持ちと送り出す者の無力感が率直に表現されている。
我が家でも孫たちがどんどん親たちの手から離れ、世界に出て行くステージになった。その時、結局、自分たちは何も出来ないことを実感し、すべてを神に委ねるしかないことを知る。
日本でも四国霊場八十八カ所を巡り歩く「巡礼」においては「同行二人」と言うことが言われ、例え独りの巡礼において弘法大師が同行している、と言われている。同じことが、この詩の5節で言われている。

2018 日々の聖句 12月6日㈭
どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。(詩60:13)

シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68~69)

私の黙想:
今日の聖句、口語訳では「われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです」。「敵からお救いください」と「あだにむかわせてください」を並べてみると違いが明白になる。敵から逃げる祈りか、敵と戦う祈りか。
原文の直訳に近いとされる新改訳では、「どうか、敵からわたしたちを助けてください。まことに人の救いは空しいものです」で、新共同訳の路線である。
フランシスコ会訳は面白い、「悩むわたしたちを助けてください」、ここでは「敵」が出てこないが、次の節に「わたしたちは神のもとに勇ましく戦おう。神こそわたしたちの敵を踏みにじっとくださる」とある。フランシスコ会訳が何故こういう訳になったのか理由は分からないが、少なくとも訳文は素直で分かりやすい。
この前段が明白になると、後段の「人間の与える救い」の意味が明白になる。要するに、窮地にあるとき、仲間や身内がどんなに優しくの応援してくれても、それは虚しい。

2018 日々の聖句 12月7日㈮
主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。(列王記19:15)

すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです。(黙示録15:4)

私の黙想:
アッシリアに責め立てられ、ユダ王国は国家存亡の危機でにある。既に北のイスラエル王国を含む周辺諸国はアッシリアに滅ぼされ、国土は荒らされている、という。とうとう、アッシリアの王からの最後通牒がユダの王ヒゼキアに伝えられた。その時、ヒゼキア王は恐怖に包まれその最後通牒を神殿に持ち込み、神の前に広げ、神に祈る。今日の聖句はその時の祈りの言葉である。
その時のユダ王国の政治的立場は預言者イザヤの指導のもと、絶対平和主義を貫く。預言者イザヤはヒゼキア王にメッセージを送る。ヤハウェはヒゼキアの必死の祈りを聞いた。ヤハウェが立ち上がり、闘い、アッシリア軍を滅ぼすと。「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた」(32節)。アッシリア軍は戦闘能力を失い、母国に帰っていった。神風が吹いたのである。

2018 日々の聖句 12月8日㈯
ヨブの言葉:あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。(ヨブ42:5~6)

ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:75)

私の黙想:
ヨブ個人に対する神の語りかけ(40:6~41:26)に接し、ヨブは震え上がり、神に告白する。感動的な場面であるが、少し冷静にこの部分を読んでみると、神は「嵐の中から」語っているのであって、ヨブは神の姿を「見ている」わけではない。その意味では神の言葉を「聞いている」のである。その意味では「耳にしていた」が、今や、この目で「見ている」というのは言葉の綾である。むしろ、ここでのヨブの「告白」は、神の「(直接的)顕現」に出会って、今までの信仰が観念的であったということであろう。では、今までのヨブの信仰は観念的であったのだろうか。ヨブ記1章におけるヨブの信仰は決して「観念的」ではない。現実の中で生きた信仰生活を送っていた。ヨブの信仰にサタンさえ羨んだ。神も呼ぶの信仰には絶対的と言えるほどの信頼をおいていた。だからこそ、神はサタンにヨブの信仰を試みさせたのである。
それではヨブの信仰のどこに問題があったのだろうか。私は今日の聖句の中で「自分を退け」という言葉にひっかかる。口語訳では「みずから恨み」、フランシスコ会訳では「わたしの言葉を忌み」、新改訳では「自分をさげすみ」、文語訳では「みずから恨み」、岩波訳では「私は退けます」と訳している。うーん、なかなか含蓄がある。この文章では、何を退けているのか、何を恨んでいるのか、何を蔑んでいるのか、内容は明白ではない。問題は「私」である。私を退けているのか、私が退けているのか。私が恨んでいるのか、私を恨んでいるのか。つまり、ヨブは何を「悔い改め」るのか。岩波訳の並木浩一さんは、「(この文章は)退ける対象を語らない。この不完全な構文は意図的である」という。その意図は「読者に考えさせる」ためであろうという。私は考える。ヨブに何か「悔い改めること」があるとしたら、「自分」つまり現代的な言葉を使うとしたら「自我」であろう。具体的に言うならば、「私の信仰」「信仰者としての私自身」を退ける。もはや、私は信じているなんて言えない。私の信仰なんて屁みたいなものだ。

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