ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/12/9~12/15

2018-12-17 16:47:20 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/12/9~12/15

2018 日々の聖句 12月9日㈰
わたしは、主である。むなしいしるしを告げる者を混乱させ占い師を狂わせ(知者を退けてその知識を愚かなものとす)る。(イザヤ44:25)

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。(1ヨハネ4:1)

私の黙想:
今日の聖句の冒頭の言葉「わたしは主である」という言葉は聖書本文にはない。それで前後を読むと直前の24節に「わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた」という言葉があった。今日の聖句はこの言葉の続きなのだ。つまり今日の聖句は24節と繋いで読むべきで、そこでは天地万物を創造した神が述べられている。この神ヤハウェが人間社会に対して「むなしいしるしを告げる者」や「占い師」、及び「知者」を混乱させる。つまり民族の知的指導層を破滅させるのだという。
この聖句をジーッと睨んでいると、バベルの塔の物語を思い浮かべる。新共同訳で、たまたま同じ「混乱」という言葉が用いられているからであろう。あの時代、人間は傲慢になり、神の領域に至るために高い高い塔を建造しようと考えた。おそらく、その時、民衆は興奮し大喜びをしたに違いない。そこで民族の指導者たちは民族内の知者、学者宗教家たちを結集し、民衆、特に若者たちを動員し、労働力を要求したことであろう。それこそ民族の夢の実現のために総力を結集してこの困難な計画を進めたことであろう。しかし、その計画はヤハウェの反対に合い、その虚しさを知らされた。民族は大混乱したという。
あたかも戦争を企む民族の指導者たちの空しい呼びかけを思い起こす。12月8日、書く際ルールも無視してアメリカ真珠湾を急襲したとき、日本人たちは興奮し、大喜びをしたという。それもまもなく戦争の虚しさを痛いほど知らされた。

2018 日々の聖句 12月10日㈪
命のある限り、あなたをたたえ手を高く上げ、御名によって祈ります。(詩63:5)

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。

私の黙想:
当たり前のことであるが、祈りは「願い」ではない。願いには終わりがある。賛美には終わりはない。賛美の一つの形が祈りである。だから「命のある限り」祈るのではなく、賛美し続けるのである。今日の聖句、口語訳では「わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる」である。聖公会の祈祷書は口語訳と同じである。
賛美こそが神との交わりの中心である。当たり前のことであるが、多くの人はこの点を間違っている。教会においては、祈祷会よりも賛美会があってもいいと思う。聖公会の「夕の祈り」を英語では「Evensong(夕べの歌)」という。

2018 日々の聖句 12月11日㈫
天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった。(イザヤ49:13)

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。(1コリント1:30)

私の黙想:
イザヤ書49章は実にややこしい。イスラエルの民が「わたし」になったり、神が「わたし」になったり、14節以下ではシオン、つまりエルサレムが「わたし」になる。今日の聖句はいったい誰の言葉なのだろうか。少なくとも「主」ではない。一応、イスラエルの民の言葉であろう。8節から12節までの部分は口語訳やフランシスコ会訳では、「主はこう言われる」という言葉の後に引用符号がついているのでわかりやすいが、新共同訳ではそれがないので、注意深く読まないと「主の言葉」と間違うおそれがある。
ところが、これに続く14節以下との落差はなんだろう。14節冒頭の「しかし」(口語訳)は何を意味するのだろうか。言葉の内容から考えると、主と民との対話の中に突然割り込んでくる第3者的立場からのコーラスのようである。その意味では「預言者」の言葉とも取れる。わからない。わからないが、わからないままに、喜びの歌であることはわかる。主によって救済された者の歓喜の歌である。主によって救われた者は自分だけで喜んではいられない。すべての者と共に喜びたいし、天も地も、万物が喜んでいると感じる。これはまさにルカ福音書15章5~7節で描かれている羊飼いの喜びである。
今日の13節は民の言葉で、喜びへの呼びかけである。私(たち)は神から特別な恵みを頂いた。だから喜んでいる。それはいい。それが「なぜ」他者への喜びの呼びかけになるのか。非常に不思議な人間の感情だ。喜びは共に喜んでくれる他者において本当の喜びになる。他者の喜びを共に喜ぶことによって自己の喜びになる。「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んで下さい」(Lk15:9)。世の中には共に喜べない人もいる。「泣く者と共に泣く」ことはできても「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことは難しい。

2018 日々の聖句 12月12日㈬
(このような時にも、)見よ天にはわたしのために証人があり高い天にはわたしを弁護してくださる方がある。(ヨブ16:19)

パウロの言葉:わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。(2テモテ4:16~17)

私の黙想:
私が存在する限り創造者なる神は存在する。同時に問題性を抱えた人間にとって、神に対して人間の問題性を理解し、問い、弁護する者も存在しなくてはならない。その方が居られて初めて神の完全性が貫徹される。これがヨブ記が提起するユダヤ教の根源的問題である。この問いに答えられない限り、ユダヤ教は不完全である。エレミヤやイザヤはこの問いに答えを出そうとした預言者であるが、結局、ヨブの問題意識にさえ到達できなかったのではなかろうか。
この深刻なヨブの問いをどう受け止めたのであるか。今のところ暫定的な答えしか考えられないが、イエスは幼児の無邪気さに答えを見出したのではなかろうか。

2018 日々の聖句 12月13日㈭
わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。(イザヤ44:22)

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)

私の黙想:
今日の聖句では後半の「立ち帰る」前に「贖い」がなされたという順序が重要だ。「罪を帳消しにしているから、帰って来い」と「帰ってきたら、赦してやる」では根本的に異なる。ここに律法書的倫理・論理・倫理と異なる。
神の赦しの業は、人間の懺悔に先行している。こさんれが預言者イザヤのメッセージであり、このメッセージを受け継いでいるのがイエスの福音である。しかし神の前に立ち帰えらなければ、神の恩寵は経験されない。当然、立ち帰らなくても、つまり信じなくても、神の恩寵は変わらない。私たちはもう既に無効になっている借用書を持ち続け、グジグジ返済不能の借金に悩みながら生きるのか、神の方が私の借用書を破り捨てておられる。だから感謝して毎日を過ごすのか、それは私たち自身の問題である。

2018 日々の聖句 12月14日㈮
日の昇るところから日の沈むところまで主の御名が賛美されるように。(詩113:3)

ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。(ルカ1:68~69)

私の黙想:
大地は丸いという概念がなく、地はただ平べったいものという時代の表現だとはいえ、私はこの「日の昇るところから日の沈むところまで」という文学的表現が大好きだ。大地はただ平べったいだけではない。そこには高さがあり、低さがある。世界は立体なのだ。高さも低さもすべて神のものだ。神は「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げる」(7節)。
希望に満ちた日の出の美しさ、何か寂しさを感じる日没の美しさ、世界は静寂で美しい。その美しさを倍加させるもの、それは人間の声による賛美である。神のお造りになった世界を私たちの賛美で満たそう。なんという美しい詩であろう。

2018 日々の聖句 12月15日㈯
わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。(詩55:17)

あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。【ヨハネ16:23)

私の黙想:
昨日、届いた聖書協会共同訳では、「私は神に呼びかける。主は私を救ってくださる」。ついでに口語訳では、「しかしわたしが神に呼ばわれば、主はわたしを救われます」。まず表面的な特徴は「わたし」が「私」に変わっていること。ついでのついでに文語訳では、「されど我はただ神を呼ばん、エホバ我を救ひ給ふべし」。
ここでは、どれが良いのか、どうかは論じない。ただ、冒頭に「しかし」という接続詞があるかどうかは、見逃せない。
類似の表現を拾うと「主を呼ぶ」「御名を呼ぶ」これらは、すべて神に祈ることを意味している。「主よ」と呼びかけたら、必ず主は助けてくださる。
私が神学生の頃、これを口癖のようになって、ただ「主よ、主よ」を機関銃のように繰り替えす人もいた。まるで機関車が走っているようで、共同の祈り会などで人が祈っている側でこれをやられるとたまったものではない。
「主よ」あるいは「神よ」は一口だけで十分である。

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