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ぶんやさんの記録

2019年 日々の聖句 1月6日㈰〜1月12日㈯

2019-01-12 16:18:49 | ローズンゲン
2019年 日々の聖句 1月6日㈰〜1月12日㈯

2019 日々の聖句 1月6日㈰
主の言葉:わたしの民がわたしに聞き従い(イスラエルがわたしの道に歩む)者であったなら!(詩81:14)

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教えています。(テトス2:11~12)

私の黙想:
今日の聖句では、何と言っても文頭の「主の言葉」が光っている。もちろんこれは聖書本文にはない言葉であるが、文脈から見て異存はない。これが主の言葉なのである。「あったなら」で結ばれているのも意味深長である。もっとも、この「あったなら」は次節へのつなぎで、文末ではないが、聖句として、このように取り上げられていると、意味が深まる。ただ単なる条件文ではなく、ヤハウェの心情を示す言葉となる。これが口語訳になると、「(わが道に)歩むことを欲する」となり、それだけで完結文となら。もちろん、今日の聖句はヤハウェの願望である。だから「欲する」でもいいが、それではニュアンスがなくなる。欲しているし、そうあることを願っているが、それを強制しない。もちろん、全能のヤハウェのこと、欲すれば、そうできるし、願えばそうなる。しかし、あえて願望のままで留まる。そこに人間側の決断、自発的行動が期待されている。これが「主」と「主の民」との基本的関係だという。命令を願望の状態にとどめる、ここに神の愛がある。※今日は他の翻訳と比較する余裕もありませんでした。

2019 日々の聖句 1月7日(月)
見よ、わたしの娘なるわが民を、火をって溶かし、試す。(エレミヤ9-6)

試練を耐え忍ぶ人は、幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。(ヤコブ1-12)

私の黙想:
6日、7日とほとんど死んだようなように、朝から晩まで寝たきりで過ごし、パソコンの前に座る元気もありませんでした。6日の分は何とかベッドの中からスマホで投稿しました。
というわけで、今日の「日々の聖句」はお休みです。

2019 日々の聖句 1月8日㈫
あなたに望みをおく者はだれも、決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。(詩25:3)

マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。(2コリント7:5~6)

私の黙想:

2019 日々の聖句 1月9日㈬
御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。(サムエル後7:21)

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。(1ヨハネ4:9)

私の黙想:
ここでいう「大きな御業」とはいったい何か。ここでの聖句は、ダビデ自身がヤハウェなる神に祈っている祈りである。ダビデは今までにヤハウェに忠実に従いヤハウェとの約束を守ってきた。だから主語はダビデ自身であり祈りの対象は当然ヤハウェである。祈りの主題はダビデ家の永遠性であり、それは同時にイスラエルの繁栄に他ならない。
もちろん、ダビデのこの確信の背景には預言はナタンの言葉がある。
協会訳では「あなたは御言葉のために、御心なままに、この大いなる業をそすべて行い、僕に知らせてくださいました」という。
私にはこの「僕に知らせてくださいました」という言葉に特別な思いが込められているように思う。

2019 日々の聖句 1月10日㈭
わたしたちは第一の月の十二日に、エルサレムに向かってアハワ川を出発した。道中待ち伏せる敵の攻撃も、神の御手に守られて、免れることができた。(エズラ8:31)

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ10:27~28)

私の黙想:
エズラ記とネヘミア記は共に歴としたは歴史書である。ある意味で、五書に続くいわゆる歴史書よりは、はるかにイエスの時代に近く、その影響力は大きい。にもかかわらず、旧約学者たちからも無視されがちで、まして一般の信徒たちからはほとんど顧みられない。
バビロン捕囚後、祖国復帰した頃のからイスラエルと呼ばれるよりも「ユダヤ人」と呼ばれルようになったようである。ネヘミア記・エズラ記はその頃の作品で、それ以後イエスの時代までまともな歴史書は見られない。いわば歴史の空白時代で、「中間時代」と呼ばれる。中間時代で重要な出来事はマカベア一族による出来事である。
バビロンからの復帰も私たちが想像しているような民族の大移動のような状況ではなく、三々五々バラバラに復帰したものとおもわれる。復帰第1グループには有力なリーダーに欠け、経済的にも貧しい人々であったと思われる。従って復帰後も日々の生活に追われ、復帰の第1目的とされた神殿建築までには手を伸ばすことはできなかった。そのような状況において人々は宗主国であるペルシャに嘆願し、送り込まれたのがネヘミヤとエズラとであった。どちらかというとネヘミヤは神殿建築に力を注ぎ、エズラは新しい律法の形成に力を注いだ、といわれている。これらがイエス時代に直結している。
今日の聖句はエズラの帰国の状況が描かれている。

2019 日々の聖句 1月11日㈮
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください。(詩4:8)

この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(1テモテ6:17)

私の黙想:
今日の聖句を読んで真っ先に「衣食足りて礼節を知る」という言葉が私の頭をよぎった。衣食住によって支えられている生活が豊かになると、礼節、つまり生活におけるメンタルな面が整えられるということであろうが、本当にそうだろうか。むしろ美味しい食べ物、美味しいワインに対する欲望は与えられれば与えられるほど、さらに欲しくなるもので、「衣食足りて」ということには境地にはならないのではなかろうか。例えば、たとえにならないかも知れないが、マイカー、軽自動車に乗っている人は軽自動車で満足できず、もっといい車が欲しくなる。国産車に乗っている人は外国の高級車が欲しくなる。よい車に乗っている人が交通ルールをキチンと守るのかといえば、むしろいい車に乗っている人ほど運転が乱暴になるし、ルールを無視するようになる。だから事実は逆で、メンタルの面で満足している人は、衣食がどれ程貧しくても、それで満足できるのではないだろうか。
面白いことに、フランシスコ会訳では「あなたはわたしの心に喜びを与えてくださいました、彼らの小麦とぶどう酒が豊かだったときにも勝って」と訳している。この二つの訳を比べて、何が、どう違うのか考えている。新改訳も面白い。「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときに勝っています」。面白いでしょう。ついでに文語訳を見るともっと面白い。「汝のわが心に与えたまいし歓喜は、彼らの穀物と酒との豊かなる時に勝りき」。この面白さは「私」の歓喜と「彼ら」とが比較されていることです。岩波訳ではこの「彼ら」についてこれは3節の「人の子ら」を指して居ると注釈を加え、「人々」というような人間一般ではなく、ある種特定の人々を示しているという。私の喜びは、あの連中が上手いものを食って、美味い酒を飲んで喜んでいるよりもはるかに大きいのだということを意味しているという。負け惜しみでなく、私もそう思う。だから、「衣食足りて礼節を知る」のではなく、メンタル面での豊かさが、衣食における満足感の根拠である。協会訳では「あなたは私の心に、穀物と新しいぶどう酒の豊かな実りにまさる喜びを与えてくださいました」。なかなか論理的である

2019 日々の聖句 1月12日㈯
(あなたが追い払おうとしているこれらの)国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。(申命記18:14)

パウロの手紙:(こういうわけで、そのことを聞いたときから、)わたしたちは、(絶えず)あなたがたのために祈り、(願っています。どうか、)“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれ(るように)主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。(コロサイ1:9~10)

私の黙想:
「日々の聖句」では括弧の中を省略している。要するに、カナンの地に侵入したイスラエルの民が最初にしなければならなかったことは、そこに住む先住民を追い払うことであった。まったく酷い話である。
「これらの国々」とはイスラエルの民が「侵入したカナンの地」の先住民である。イスラエルの民は武力によって彼らを「追い払おうとしている」が、結局、新しい地に定着するためには、彼らから農業を学ばなければならなかった。
その農業には宗教や慣習が密接に結びついている。今日の聖句はイスラエルの民の宗教家集団レビ族に対するヤハウェの命令である。彼らの任務は他民族の宗教や慣習からイスラエル宗教を守ることで、これはかなり難しい任務であった。
日本に近代的な西欧の技術文化、つまり西欧文明を受け入れつつ、その精神的基盤であるキリスト教は排除するという大問題があった。それが「和魂洋才」であった。それはキリスト教側でも大きな課題である。日本のキリスト者はその狭間に立ち、それぞれがその問題を抱え、取り組まねばならない。

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