ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/12/16~12/22

2018-12-22 21:23:45 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/12/16~12/22

2018 日々の聖句 12月16日㈰
わたしの罪悪は頭を越えるほどになり、耐え難い重荷となっています。(詩38:5)

天子はヨハネに告げた。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

私の黙想:
今日の聖句は、新約の方からまず読む。イエスは私たちを、私の罪から救う。それが私たちの進行の根源である。もはや、私の罪が「頭超える」ほどにはならない。絶対にならない。耐え難い重荷とはならない。重荷は降ろせばいい。降ろす場所がある。降ろしさえすれば、軽ーい荷物を与えてくださる。それは愛する者のためのものであり、時には、失敗することもあろうが、それは許し合える。許し合える範囲の荷物なのである。何時までもグジグジ悩むことはないし、悩んでいたら、折角の神のみ子の誕生が無駄になる。
今、病気療養中の私、何もかも家内の助けがなければ何もできないし、それが毎日のことである。息子は心配して3日に開けずに来てくれて、私たちの限界を見定めているようだ。ありがたいことだ。

2018 日々の聖句 12月17日㈪
(野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。)荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせrる。わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。(イザヤ43:20)

イエスの言葉:渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)

私の黙想:
新しい訳では「私が荒れ野に水を、荒れ地に川を与え、私の民、私が選んだ者に飲ませるからだ」。欧米の文章を和訳する場合、どうしても代名詞、特に不要な主語が邪魔になる。冒頭の「私」は不要である。それよりも、ローズンゲンが省略している括弧の中は重要であろう。神の業を驚いてこそ、今日の聖句は生きてくる。
その昔、日本ホーリネス教団が生まれたとき、中田重治先生と共に尽力された米国人の一人がカウマン宣教師であった。その夫人は非常に文筆に優れ、特に日々のデボーションの本を出されている。私の記憶ではその最初の本の原題が「Streams in the Desert」(1925)で、この本は私が聖書学院を卒業した頃、山崎亭治教授によっ『荒野の泉』(1960)という日本名で翻訳された。
私はこの本が、その後の日本ホーリネス教団の発展なために大きな役割を果たした。この本にはチャールズ・スポルジョン、F.B.マイヤー、アンドリュー・マーレー、A.B.シンプソン、ハンナ・スミスなど著名なキリスト者たちからの引用も多く、毎朝読むためには条にバランスの取れたデヴォーションとなっている。
ホーリネス教団が一時極端に走ったときにも、バランス感覚を取り戻せたのも、カウマン夫人の著作の貢献度は非常に高い。
なお、現在、ホーリネスの引退牧師である、錦織博義牧師が毎朝FBデカウマン夫人の『山頂を目指して』を連載しておられる。

2018 日々の聖句 12月18日㈫
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6)

アブラハムは(不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ)信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。(ロマ4:20~21)

私の黙想:
アブラハムは「主を信じた」という場合、主の何を信じたのだろうか。夫婦共に高齢者になって、もう自分たちの子供を期待できなくなったときに、ヤハウェから「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる」。といわれたとき、アブラハムは主を信じたという。人間的には不可能と思えるようなことをヤハウェから言われて、彼は信じると言った。その時のアブラハムはおそらく勢い余っておもわざ言ってしまったのであろう。アブラハムの心情を計り知ることができない。しかし、その時密かにアブラハムはアブラハムなりに作戦を練っていた。それが16章に詳しく記録されている。しかし、ヤハウェはアブラハムの成していることはすべてお見通しの上で17章で同じ約束が繰り返される。その時、アブラハムの心を聖書は正確に記録している。アブラハムはヤハウェの前でさも敬虔そうに、ひれ伏していたが、心の中では「笑って、ひそかに言った。百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。
「アブラハムはヤハウェを信じた」といっても、こんなものであった。しかし、そんのことをすべて知った上で、「主はそれを彼の義と認められた」と聖書は言う。何という慰めであろう。

2018 日々の聖句 12月19日㈬
(主の律法は完全で、魂を生き返らせ、)主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。(詩19:8)

神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。(1ヨハネ3:24)

私の黙想:
新しい訳では「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めはまことで、無知な者をかしこくする」。口語訳では、「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする」。

8節から10節に、「主の律法」「主の定め」「主の命令」「主の戒め」「主の裁き」と「主の〜〜」が5つ並ぶ。これだけ並ぶと圧巻である。
フランシスコ会訳では、これら5つを「主の教え」「主の諭し」「主の定め」「主の戒め」「主の仰せ」と訳している。微妙に違う。新改訳では「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主の裁き」で、これも微妙に違う。その他に口語訳、文語訳、岩波訳等読み比べてもそれぞれ微妙に異なる。これだけ1箇所に集まると翻訳者も訳語選択に困ったことだろう。こうなると、それぞれの単語の意味を分析しても大して意味が無い。むしろ、これら5つを貫く「一つのこと」を求める方がはるかに有意義であろう。それはこの詩の冒頭にヒントが示されている。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」。この「物語」である。「天が語っているもの」「大空が示しているもの」である。しかし天はただ語っているのではなく、「物語っている」のである。「声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」。この物語を聞こうではないか。これを「自然神学」として誰が切り捨てることができるのだろうか。何の権威で「天の物語」を否定できるのか。この声を聞く時、それは「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」と詩人は言う。

2018 日々の聖句 12月20日㈭
いと高き神よ、わたしは喜び、誇り、御名をほめ歌おう。(詩9:3)

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(ルカ1:46~47)

私の黙想:
3月25日、6月25日、12月25日、これらの日付を見て何を思うか。。おそらく12たつ25日はクリスマスだと気付くであろう。これら3つの日付はクリスマスに関係している。クリスマスの6ヶ月前、何があったか。そう、洗礼者ヨハネの誕生日である。そして3ヶ月前、天子ガブリエルがガリラヤの無名の娘マリアに現れ受胎を告知する。心当たりのないマリヤさぞ動揺したことであろう。聖公会では3月25日を「聖マリアへのみ告の日」として祝う。考えてみると、これが歴史が動き始めた最初の日である。
この出来事なしには、今日の聖句「いと高き神よ、わたしは喜び、誇り、御名をほめ歌おう」もむなしい。

2018 日々の聖句 12月21日㈮
神に従う人の名は祝福される。(神に逆らう者の名は朽ちる)。(箴言10:7)

正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。(マタイ13:43)

私の黙想:
これはあくまでも格言であるから、前半だけを取り上げ、後半を切り捨てるのはいかにも見識がない。と書いたところで、手元の各翻訳を並べてみる。
協会訳「正しき者を覚えることは祝福に、悪しき者の名は滅びる」。
新共同「神に従う人の名は祝福される。神に逆らう者の名は朽ちる」。
口語訳「正しい者の名はほめられ、悪しき者の名は朽ちる」。
新改訳「正しい者の呼び名はほめたたえられ、悪者(わる者)の名は朽ち果てる」。
岩波訳「義人の記憶は、祝福のために。だが邪悪な者ども名は、朽ち果てる」。
フランシスコ会訳「正しい者の思い出は祝福されるが、悪者の名は朽ち果てる」。
こうして並べてみると、いろいろ発想が広がる。
さて、この文章は、あくまでも格言であり、格言はダラダラしてたら迫力が失われる。そのためには思い切って無駄を省く必要がある。その意味で、流石に文語訳は優れている。
文語訳「義者(ただしき者)の名は讃められ、悪者(あしき者)の名は腐る」。

2018 日々の聖句 12月22日㈯
いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。(詩2:12)

パウロの言葉:わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(2テモテ1:12)

私の黙想:
今日の聖句を読んで、こんな出来事を思い起こした。
1939年2月、日本帝国の手によって拷問の末、殉死した一人の韓国人牧師がいた。彼は死の直前、家族に次のように語っている。「死の恐怖を捨て、拷問の苦痛に打ち勝てるように祈り、そして、母や病弱な妻、子供たちに対し、彼らを守り育てる義務を放棄したことを悔いる」。そして彼の最後の祈りは「人間の複雑に絡み合っている情の糸よ、私を縛り付けるな」。
死ぬ当日、信仰の同志でもあった妻・呉貞模との面会を許され、激しく衰弱していたため病院に行くことも許されたが、妻は人間の命は神の手に内にある、夫はあくまで殉教しなければならないと言って拒否し、その5時間後、牧師は死去した。
帝国のなかの「敵」を同化させ、その「危険性」を排除する。その手段として動員された神社(参拝)という手段は、多大な犠牲の血しぶきを浴びながら、帝国の崩壊とともに姿を消していったのである。(小川原正道『日本の戦争と宗教』、185頁)
今日の聖句を読んで、かつて読んだ、この情景が私の脳裏を占めている。それでもなお、「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて」と言えるのだろうか。
今の日本を思うと、こういう日も絵空事ではないような気がする。

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