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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/08/17~08/23

2014-08-24 06:32:59 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/08/17~08/23

2014日々の聖句 08月17日(日)
エリアへの主の言葉:わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。(列王記上19:18)
約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。(ヘブル10:23)

私の黙想:ノアの洪水にせよ、ソドム・ゴモラの悲劇にせよ、民族殲滅(ホロコースト)と「残りの者」の叙述が旧約聖書に多い。旧約時代だけではない。今もパレスチナにおいてその悲劇が繰り返されようとしている。これはイスラエルだけではなく、第2次世界大戦においても各地で起こった出来事であった。「残りの者」という思想の背景にはホロコーストという残酷な思想を前提としている。だから、「残りの者7000人」という言葉を読む時、そこで殺された無数の人々のことを思う。一人の人間だって、暴力的に殺されることを認めてはならない。何人かの人間を生き残らせるために、何人かの人間を殺してもいいというのは「悪魔の論理」である。アメリカによる日本への原爆投下の理由付けは「悪魔の論理」に他ならない。それを認めたら、ナチによるユダヤ人虐殺の論理を認めることになる。

2014日々の聖句 08月18日(月)
やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、「万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と歌う声が聞こえるようになる。(エレミヤ33:11)
イエスは彼らに言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。」(マルコ2:19)

私の黙想:
何故、婚礼が祝いなのだろう。婚礼とは一人の男と一人の女とのプライベート・マター(私的出来事)にすぎないではないか。何故、それが「万軍の主をほめ讃える出来事」になるのだろうか。逆に、婚礼を祝えない状況を想像して見る。まさに婚礼を祝うとは婚礼を祝える状況、平和を祝うのである。そして、それは同時にその個人、家庭、親族、関係者一同、全国民へと広がる、将来の繁栄の喜びを意味する。婚礼を祝う声が聞こえるとは、まさに平和の象徴である。戦争状態になったら、若者たちは戦場に駆り出され、婚礼は「苦難と悲劇」のストーリーとなり、「密かに」行わねばならなくなる。もう一度、こういうことにならないように、平和を守り、祝おう。

2014日々の聖句 08月19日(火)
ソロモンの言葉:神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。(列王記上8:27)
どうか、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように。(エフェソ3:17)

私の黙想:
神のために何かをする、捧げる、信じることには、常に深刻な矛盾が含まれている。ソロモンは父ダビでの約束、遺言により、神殿を建築した。そして今、その神殿に「契約の櫃」収め、父との約束を果たした。そこで彼は神に祈る。今日の聖句はその祈りの中の一句である。ソロモンは、神殿建築の最中、そんなことを考えていたのか。そうだ。そんなことを考えながらもなお、神殿を建築した。パウロにもそれと共通する「思い」があったのであろう。これは全ての説教者が考えていることであろう。私が聖書を読み、私が考え、私が説教台からか語る言葉、それが「神の言葉」であり得るのか。そんなことは絶対にあり得ない。こんなに浅薄で、貧しく、マズイ言葉が神の言葉であるはずがない。それにもかかわらず、私は「神の言葉」を語る。それはマズイことじゃないのか。信徒を騙しているのではないか。パウロにおいては、それは私の場合でも、「信仰によって」(エフェソ3:17)成り立っている。

2014日々の聖句 08月20日(水)
主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる。(詩6:10)
目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。(コロサイ4:2)

私の黙想:
詩6篇は、7つの痛悔詩編(6,32,38,51,102,130,143)の最初のものと言われている。おそらく詩人は病の床から祈っているのであろう。死への恐怖が基調になっている。この時代は病気になるということは何らかの罪の結果であるとみなされていたと思われる。しかし、この詩にはそれを否定するメッセージが込められている。いわば病気に関する世間の常識を否定している(参照:ヨブ記)。
人々は病気とか不運等災いに遭うとき、「何故、私が」と問う。その深刻な問いに乗じて宗教は人間を誘い込む。その典型的な例がヨハネ福音書9章の出来事である。それに対してイエスは答える。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。このイエスの答えの重要ポイントは前半の「否定」であって、後半はいわば付け足しである。なぜなら、全ての人間の、あるいは全ての出来事は「神の栄光が現れるため」なのであって、特別に災いにあった人へのメッセージとは思えない。もしそうだとすると、あるいはこの点を強調し過ぎると、悪しき宗教と同じレベルに陥ってしまう。
とは言え、やはり人生における理解不能な出来事は実際に起こる。全ての人間に起こる。その不幸に対して私たちはいかに立ち向かうのか。それは神から私たちに向けられた問題提起であろう。病に倒れても、何かの不幸に遭遇しても、ただでは起きない。これをバネにして、立ち上がる。その時に、世間の過ちを正すことができる。

2014日々の聖句 08月21日(木)
あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与える。(申命記30:9)
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(ルカ5:5)

私の黙想:
今日の聖句9節の後半に重要な鍵がある。「主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる」。ここでの「再び」が鍵。神との関係の回復。「雨降って地固まる」という諺がある。英語でも「A broken bone is the stronger when it is well set.」とも言う。まさに旧約聖書における神と民との関係は、これの繰り返しである。ふらふらしているのは常に民の側で、神の側は一貫して民を支えている。これを「神の忍耐」(1ペトロ3:20)という。世界は神の忍耐によって支えられている。


2014日々の聖句 08月22日(金)
自分の神を知る民は確固として行動する。(ダニエル11:32)
パウロの手紙:愛する兄弟姉妹たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けることです。(フィリピ3:13)

私の黙想:
ダニエル書はまとも研究を始めると現実と非現実とが入り乱れ、混乱する。特に、7章以後は幻想的であると同時に現実的でもある。イスラエル史における「中間時代」の歴史(幻想)文学と見る。
今日の聖句は、権力者による「甘言」と迫害の中での信仰者の姿が描かれている。ここにはこの世における権力者の姿が次のように描かれている。「あの王(この世の権力者)はほしいままにふるまい、いよいよ驕り高ぶって、どのような神よりも自分を高い者と考える。すべての神にまさる神に向かって恐るべきことを口にし、怒りの時が終わるまで栄え続ける」(11:36)。今日の聖句における
「自分の神」とはこの世のあらゆる権力者を超越する神を示す。結局、この世の権力者がどれほど横暴に振る舞おうと、時が来れば必ず滅亡する。今、沖縄のことを考えている。

2014日々の聖句 08月23日(土)
わたしの神、主よあなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。(詩40:6)
信心の秘められた真理は確かに偉大です。イエス・キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。(1テモテ3:16)
私の黙想:
「あなたに並ぶものはありません」という言葉は何を意味しているのであろう。私にとって他に並ぶ神はない、というのか、それともこんなに「不思議な業を成し遂げるもの」は他にないというのか。主観的なことなのか、客観的なことなのか。何か、どっちでもいいような問題で、つまらないことにこだわっていると思われるかもしれないが、口語訳では「われらを思うみおもい」があまりにも多くて他と比べられないという方に傾いている。フランシスコ会訳ではもっと明白である。「わたしたちの計らいで、あなたに並ぶものはありません」と訳されている。つまり、新共同訳では「私に対する」ということが抜け落ちている。これが抜け落ちると、私に対する神の「特別なお取り扱い」が消えてしまい、偉大な神の御業、天地創造とか、万物が滞り無く運行しているということだけが強調されてしまう。それはまさに「理神論」への傾斜である。ここで強調されているのは、そういうことではなく「私が体験した神の恵みの業」であり、だからこそ、それを一人でも多くの人たちに語り伝えたいとお思うが、数が多すぎて語れないということが述べられているのである。そこが今日の聖句のポイント。

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