ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

書評 対話的思考(「はなしあい」1976.6)

1976-06-01 10:36:11 | 雑文
書評 対話的思考
書店で金子晴勇氏の近著『対話的思考』(創文社、昭和五十一年四月発行、千二百円)を見たときある種の衝動にかられて買いたかった他の本を止めて、本書を手に入れ、一気呵成に読了し、非常に大きな感銘を受けた。
 <今日「対話」という言葉がひじょうに多く用いられている。政治家も学者も、管理者も労働者も家庭の主婦も青年もこの言葉を自己の思想や世界観また行動にとってもっとも意義あるものとして説き、最近では商業の宣伝文句にも使用されている。このように多用されているにもかかわらず、この言葉の響きにはまだ新鮮な雰囲気がただよっている。しかし、多用されるのみならず、誤用されるとこの言葉も内容を失って形骸化するであろう。かかる危険はすでにその徴侯を見せはじめている。対話を「話してみればわかる」というふうに理解して、コミュニケーションの手段と考えている人は多くいるが、対話そのものについてこれを尊重し熟考する人は少ない。ここに一つの徴侯として対話を何か別のものの手段とみなす考えがひそんでいるといえよう。これが進行してゆくと、自己の主張を押しつけるために対話が手段となって利用されることになり、目的のための手段、つまり利用価値にまでさがってしまう。したがって、対話の技術を身につけてみても、対話をそれ自身の価値において学んでいないと、対話は単に相手にうまく取りこみ、つけこんで、説得するという処世術になって、対話のなかに生き働いている精神がなくなってしまう。重要なのは対話の技術でなくて、対話にたずさわっている人間、対話的関係のなかで他者に邂逅している人間、つまり対話的人間である。>
著者は今日の非対話的状況を押えた上で、現代思想の基調が、古代人の自然との対話、中世人の自己との対話に対して、人間と人間との対話、<我と汝>の対話にあることを指摘する。<現代は近代の終末として「主体性」の段階から他者との「邂逅」と「対話」の段階へと移行しているといえよう。>
著者は「対話的人間」の典型として、ソクラテス、イエスをあげ<現代思想におけるコペルニクス的行為>として、マルチン・ブーバーの思想的営為を評価する。
著者自身が述べているように、本書の背景にはブーバーの思想があり、著者自身の「対話」についての長い思索がある。
ソポクレスの『アンティゴネー』、ゲーテその他詩人たちの作品特にドストエフスキイの小説『虐げられた人びと』の解釈などは著者自身の長い思索の結晶であろう。。
第三章「対話的思考への道」の中で、大衆と独裁者との関係を例にとって、対話がどのように転落し、モノローグ化、画一化するかということを論じている。わたし自身はこの部分を読みながら、西独においてアカデミ-運動がナチ時代に対する深い反省から生れたという理由が理解出来たような気がする。
著者の深く、緻密なまた体系的な論旨を理解するためには本書を読む以外にないし、幸いなことに読み易くまた素材が豊富なために読者は次々と展開する思想の風景にあきることがないだろう。
わたしにとって特に興味のあった点をいくつかひろって紹介する。
○対話と社交的会話との区別
会話の特質は「多数性」にあり、それは関心の「多様性」となり、さらにこれに統一が見られないと「雑多性」となる。
「会話の一つ一つが啓発的であり、沈黙がそのまま教養的であるようなサロンが、われわれの最上のサロンであろう」というゲーテの言葉が引用されている。会話を楽しむのは人間的なことである。
対話の基本運動には対話を持続的に展開させ、かつ問題解決に向って共同的にかかわり発展させるものとして「主題への集中」がなければならない。
○対話における「自由」と「喜び」
対話に油がのってくると、どちらが対話をリードしているのかわからなくなるだけではなく、対話自体が一つの生ける精神を帯びてきて、対話に参加しているものを導いているようになる。
対話に参加するのは、対話自体がわれわれを導き、当初の予想に反して、まったく新しい局面を拓き、新しい真実の姿を発見するように導いているからである。ここに対話にたずさわっている者が自己をひとたび離れて「自由」になり、自己を他者のなかに再発見する「喜び」がある。

本書はまさにアカデミー運動の基本的課題の思想的表現であり、今日「対話」を口にする全ての人の必読の着である。著者については本書の末尾に紹介されている以上のことはわたしは知らないが、「対話」を運動化しているわたしたちと「対話」を思想化している著者との間に、「対話」が実現することを希望する。(財団法人日本クリスチャン・アカデミー月刊紙「はなしあい」1976.6)

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