今週のローズンゲン 2015/11/22~11/28
2015日々の聖句 11月22日(日)
あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。(出エジプト15:13)
わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。(フィリピ3:20)
私の黙想:
今日の聖句は出エジプトしたイスラエルの民が紅海を徒渉し、それを追いかけてきたエジプトの軍勢が紅海の溺れて全滅したときに歌った歌の一節とされている。従って彼らはまだ、どこに向かって行こうとしているのか「聖なる住まい」を見ていないし、知らない。その意味では「伴われた」という完了形は
相応しくない、というより、この歌がズッと後代の作であろう。いわば日本での「神風神話」のようなものであろう。ここでの「聖なる住まい」という言葉が光っている。彼らが今住んでいる場所を「聖なる住まい」だという。新改訳では「聖なる御住まい」と「御」という敬称を付けている。これはいったいどういう神経というか、まぁ自分たちの住んでいる場所をそれだけ尊んでいる、というか「聖なる場所」としているのである。この感覚は、日本人にもある。日本列島を神の宿る場所だと思う。日本神国論の根底にはそういう意識があるのであろう。フランシスコ会訳では丁寧に「あなたの住む聖なる所」と訳している。自分たちが住んでいる場所を「とても良い所だ」あるいは「世界一だ」と思う気持ちは尊い。しかし、この思いが限度を超え、「神の宿る聖なる住まい」だということになると、問題が生じる。
その意味では、自分たちの住んでいる場所はあくまでも「仮住まい」で、私たちはこの世界においては「旅人」「放浪者」に過ぎないと思う気持ちも大切だ。今日の新約聖書の聖句、「わたしたちの本国は天にあります」、昔の訳では「私の国籍は天にある」という意識も重要である。
2015日々の聖句 11月23日(月)
忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。(箴言16:32)
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
私の黙想:
旧約聖書の聖句と新約聖書の聖句とがちぐはぐの時は、訳語に何か問題がある。という勘で、口語訳を見る。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」。成る程、「平和をつくり出す人たちはさいわいである」に通じる。ついでにフランシスコ会訳を見ると「怒りを遅くする者は勇者に勝り、自分の心を治める者は町を征服する者に勝る」で、口語訳とほぼ同じである。要するに、こういうことなんだ。ここで「勇者に勝る」という勇者とはいったい誰なんだろう。外敵の勇者なのか、内輪の勇者なのか。後半を見ると、どうやら外敵らしい。外敵が強力な武力で攻めてきたとき、それに対抗するのに同じように武力で応えたら、どうなる。攻めてくる外敵に対して、カッカとなったり、驚き慌てて抵抗したりしないで、ここは一つ、冷静に(=自分の心を治め)、外交力によって対応すれば、相互に被害が少ない内に問題は解決する、という教えであろう。
2015日々の聖句 11月24日(火)
だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。(詩14:3)
悪い者からわたしたちを救ってください。(マタイ6:13)
私の黙想:
何と寂しい詩であろう。「善を行う者はいない。ひとりもいない」なんて。この句は神の嘆きである。神が天から地上を眺めての嘆きである。4節になると、寂しさを超えて怒りの響きをとなる。「悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい主を呼び求めることをしない者よ」。神の怒りは、「わたしの民」を食い物にしている連中に向かう。昨日のニュースに私も憤りを感じる。もう生きる希望も力もなくした両親を抱え、介護に疲れ果てた娘が両親を軽自動車に乗せて川に入り、自動車が動かなくなってしまったので、何とか車から両親を引き出し、さらに歩いて深みに入り心中をする。何という悲劇であろう。想像を絶する悲劇である。家内は言う。こういう事件が今後益々増えるであろう。彼らを「食い物にしているのは誰だ」。国内では弱者から生きる希望を巻き上げ、外国に行っては大金をばらまき、戦争のための武器を売りつける。それを支持する国民。
私も神と共に「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」と叫びたい気持ちだ。
2015日々の聖句 11月25日(水)
(それぞれの)収穫物の初物を(ささげ豊かに持っている中から)ささげて主を敬え。(箴言3:9)
たとえ話の中で金持ちが言った。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」しかし神は、彼に「愚かな者よ」と言われた。(ルカ12:19)
私の黙想:
今日の聖句、箴言3:9からだが、カッコの中が省かれている。一応、全体として黙想する。箴言第3章では「そうすれば」で始まる句が5回繰り返されている。これらの句は、命令文との組み合わせによって意味が出てくる。今日の聖句では、9節に続いて10節では「そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる」という句が組み合わされている。これらをワンセットとして読むとき非常に面白い。ちなみに口語訳ではこうなっている。「あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる」。この方がスッキリして分かりやすい。要するに、「欲深いおじさん」への箴言(知恵の言葉)である。つまり最初の利益を出し渋ったら、もうそれでお終い。最初の収穫物を気前よく神に捧げたら、神さまから「倍返し」されますよ、という教えだ。神への献げ物とは「投資」みたいなもの。収穫の「初物」には「私のもの」という意識が強いものだ。誰にもやりたくない。その後、次々収穫があれば気前も良くなる。しかし、神は「初物」を提供せよと仰る。神さまも「初物」が好きなのだ。その初物を神に捧げると、何だかんだ言っても、最終的な「私の収穫」は大きくなる。最後の収穫物の中の「新しい酒」というのが効いている。酒というような発酵食品の出来不出来は人間の能力を超えている。自然の力、いやいや「神の御力」による要素が強い。どうしても「あなた任せの」のところがある。美味しい酒を飲みたければ、まず神さまを喜ばせておかねばならない。
2015日々の聖句 11月26日(木)
主は御自分の民の裁きを行い、僕らを力づけられる。(詩135:14)
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。(1コリント1:30)
私の黙想:
今日の聖句を読んで直、考えたこと。やはり日本は「御自分の民」ではないのか、という一種の寂しさである。昨年の衆議院選挙、最高裁判所の判決を聞いて、「そんなこと、ありえるのか」と怒りとも、失望とも言えない複雑な気持ち、そうだ。これが「力づけられる」の逆、「力が抜ける」ということか。
「違憲ではあるが、選挙結果は有効」。何と言うことか。憲法違反という事実を認めながら、その「被害はない」と言うことか。被害があるからこそ、訴えているのではないのだろうか。これが通るならば、何でも通ってしまう。いや、事実何でも通してしまっているが。これ程「権力」の恐ろしさを見せつけられることはない。
「僕らを力づけられる」の部分、口語訳では「憐れみをかけられる」と訳している。フランシスコ会訳、新改訳では「憐れまれる」。「神よ、日本の民を憐れんでください」と祈らざるを得ない。
2015日々の聖句 11月27日(金)
どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。(詩34:2)
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。(ヤコブ5:13)
私の黙想:
大の大人が「絶えることなく賛美を歌う」なんて、恥ずかしくて出来ない。やはり讃美は教会に行ってみんなで讃美するしかないでしょう。まぁ、せいぜい「鼻歌」程度でしょう。実際に口で賛美を歌っていなくても、神を賛美していますよ、心の中で静かに。賛美の仕方にも、いろいろあっていいでしょう。私にすれば、読書だって、賛美の一つであるし、祈りでもあるし、感謝ですよ。
まぁ、そんなに片苦しいことを言わないで、もう少し、この詩を味わいましょう。この詩は、一応、「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」歌った詩とされている。そうでしょう、狂っていなければ、歌をうたうなんて言うことはできない。
というより、この前書きの言葉にはいろいろ問題があるが、一応そのまま信じるとして、これはダビデが王になる前ソウル王から命を狙われて逃げまくっているとき、外国に逃亡し、そこでも居場所がなくて、「狂気の人を装った」という。どんな歌をうたったのか分からないが、おそらく町の人々も何を歌っているのか分からないが、一人の外国の狂人が歌っている位に見ていたのであろう。最も簡単な「狂ったさま」(口語訳)は絶えずぶつぶつ歌い続けることらしい。今日の聖句は、狂ったさまをしているダビデと、それを見ている人々との間のギャップが面白い。
2015日々の聖句 11月28日(土)
これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。(イザヤ66:2)
パウロの言葉:今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げることができるのです。(使徒言行録20:32)
私の黙想:
何という厳粛な言葉。「それ故に存在する」と神が言われる。人間は神の存在についていろいろ論じる。しかし、神はそんな議論を聞いていない。ただ、万物はわたしが手で作った故に存在する、と宣言される。何という厳粛な言葉であろう。これが神と人間との根源的な関係である。面白いことにこの「存在する」という言葉を口語訳、新改訳では「わたしのものである」と訳している。かなり違う。フランシスコ会訳はもっと面白い。「こうして成った」と訳し注釈で70人訳では「わたしのものだ」と訳しているという。文語訳はフランシスコ会訳に近い。
私は今の読書の関係で「存在」という言葉に過敏にな理過ぎているのかも知れない。
ところで、今日の聖句の後半部分。万物の中で、この3種類の人間を特別に「顧みる」と言われる。私は特に3番目の「わたしの言葉におののく人」という言葉に驚きを感じる。一寸弁明じみたことを一言、私の「面白い」という言葉の意味は、お笑いタレントが「面白い」というのとは次元が異なる。そのことに非常に興味を惹かれるという意味である。特に、今日の場面では、「おののく」と言うことに近い。
2015日々の聖句 11月22日(日)
あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。(出エジプト15:13)
わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。(フィリピ3:20)
私の黙想:
今日の聖句は出エジプトしたイスラエルの民が紅海を徒渉し、それを追いかけてきたエジプトの軍勢が紅海の溺れて全滅したときに歌った歌の一節とされている。従って彼らはまだ、どこに向かって行こうとしているのか「聖なる住まい」を見ていないし、知らない。その意味では「伴われた」という完了形は
相応しくない、というより、この歌がズッと後代の作であろう。いわば日本での「神風神話」のようなものであろう。ここでの「聖なる住まい」という言葉が光っている。彼らが今住んでいる場所を「聖なる住まい」だという。新改訳では「聖なる御住まい」と「御」という敬称を付けている。これはいったいどういう神経というか、まぁ自分たちの住んでいる場所をそれだけ尊んでいる、というか「聖なる場所」としているのである。この感覚は、日本人にもある。日本列島を神の宿る場所だと思う。日本神国論の根底にはそういう意識があるのであろう。フランシスコ会訳では丁寧に「あなたの住む聖なる所」と訳している。自分たちが住んでいる場所を「とても良い所だ」あるいは「世界一だ」と思う気持ちは尊い。しかし、この思いが限度を超え、「神の宿る聖なる住まい」だということになると、問題が生じる。
その意味では、自分たちの住んでいる場所はあくまでも「仮住まい」で、私たちはこの世界においては「旅人」「放浪者」に過ぎないと思う気持ちも大切だ。今日の新約聖書の聖句、「わたしたちの本国は天にあります」、昔の訳では「私の国籍は天にある」という意識も重要である。
2015日々の聖句 11月23日(月)
忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。(箴言16:32)
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
私の黙想:
旧約聖書の聖句と新約聖書の聖句とがちぐはぐの時は、訳語に何か問題がある。という勘で、口語訳を見る。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」。成る程、「平和をつくり出す人たちはさいわいである」に通じる。ついでにフランシスコ会訳を見ると「怒りを遅くする者は勇者に勝り、自分の心を治める者は町を征服する者に勝る」で、口語訳とほぼ同じである。要するに、こういうことなんだ。ここで「勇者に勝る」という勇者とはいったい誰なんだろう。外敵の勇者なのか、内輪の勇者なのか。後半を見ると、どうやら外敵らしい。外敵が強力な武力で攻めてきたとき、それに対抗するのに同じように武力で応えたら、どうなる。攻めてくる外敵に対して、カッカとなったり、驚き慌てて抵抗したりしないで、ここは一つ、冷静に(=自分の心を治め)、外交力によって対応すれば、相互に被害が少ない内に問題は解決する、という教えであろう。
2015日々の聖句 11月24日(火)
だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。(詩14:3)
悪い者からわたしたちを救ってください。(マタイ6:13)
私の黙想:
何と寂しい詩であろう。「善を行う者はいない。ひとりもいない」なんて。この句は神の嘆きである。神が天から地上を眺めての嘆きである。4節になると、寂しさを超えて怒りの響きをとなる。「悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい主を呼び求めることをしない者よ」。神の怒りは、「わたしの民」を食い物にしている連中に向かう。昨日のニュースに私も憤りを感じる。もう生きる希望も力もなくした両親を抱え、介護に疲れ果てた娘が両親を軽自動車に乗せて川に入り、自動車が動かなくなってしまったので、何とか車から両親を引き出し、さらに歩いて深みに入り心中をする。何という悲劇であろう。想像を絶する悲劇である。家内は言う。こういう事件が今後益々増えるであろう。彼らを「食い物にしているのは誰だ」。国内では弱者から生きる希望を巻き上げ、外国に行っては大金をばらまき、戦争のための武器を売りつける。それを支持する国民。
私も神と共に「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」と叫びたい気持ちだ。
2015日々の聖句 11月25日(水)
(それぞれの)収穫物の初物を(ささげ豊かに持っている中から)ささげて主を敬え。(箴言3:9)
たとえ話の中で金持ちが言った。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」しかし神は、彼に「愚かな者よ」と言われた。(ルカ12:19)
私の黙想:
今日の聖句、箴言3:9からだが、カッコの中が省かれている。一応、全体として黙想する。箴言第3章では「そうすれば」で始まる句が5回繰り返されている。これらの句は、命令文との組み合わせによって意味が出てくる。今日の聖句では、9節に続いて10節では「そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる」という句が組み合わされている。これらをワンセットとして読むとき非常に面白い。ちなみに口語訳ではこうなっている。「あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる」。この方がスッキリして分かりやすい。要するに、「欲深いおじさん」への箴言(知恵の言葉)である。つまり最初の利益を出し渋ったら、もうそれでお終い。最初の収穫物を気前よく神に捧げたら、神さまから「倍返し」されますよ、という教えだ。神への献げ物とは「投資」みたいなもの。収穫の「初物」には「私のもの」という意識が強いものだ。誰にもやりたくない。その後、次々収穫があれば気前も良くなる。しかし、神は「初物」を提供せよと仰る。神さまも「初物」が好きなのだ。その初物を神に捧げると、何だかんだ言っても、最終的な「私の収穫」は大きくなる。最後の収穫物の中の「新しい酒」というのが効いている。酒というような発酵食品の出来不出来は人間の能力を超えている。自然の力、いやいや「神の御力」による要素が強い。どうしても「あなた任せの」のところがある。美味しい酒を飲みたければ、まず神さまを喜ばせておかねばならない。
2015日々の聖句 11月26日(木)
主は御自分の民の裁きを行い、僕らを力づけられる。(詩135:14)
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。(1コリント1:30)
私の黙想:
今日の聖句を読んで直、考えたこと。やはり日本は「御自分の民」ではないのか、という一種の寂しさである。昨年の衆議院選挙、最高裁判所の判決を聞いて、「そんなこと、ありえるのか」と怒りとも、失望とも言えない複雑な気持ち、そうだ。これが「力づけられる」の逆、「力が抜ける」ということか。
「違憲ではあるが、選挙結果は有効」。何と言うことか。憲法違反という事実を認めながら、その「被害はない」と言うことか。被害があるからこそ、訴えているのではないのだろうか。これが通るならば、何でも通ってしまう。いや、事実何でも通してしまっているが。これ程「権力」の恐ろしさを見せつけられることはない。
「僕らを力づけられる」の部分、口語訳では「憐れみをかけられる」と訳している。フランシスコ会訳、新改訳では「憐れまれる」。「神よ、日本の民を憐れんでください」と祈らざるを得ない。
2015日々の聖句 11月27日(金)
どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。(詩34:2)
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。(ヤコブ5:13)
私の黙想:
大の大人が「絶えることなく賛美を歌う」なんて、恥ずかしくて出来ない。やはり讃美は教会に行ってみんなで讃美するしかないでしょう。まぁ、せいぜい「鼻歌」程度でしょう。実際に口で賛美を歌っていなくても、神を賛美していますよ、心の中で静かに。賛美の仕方にも、いろいろあっていいでしょう。私にすれば、読書だって、賛美の一つであるし、祈りでもあるし、感謝ですよ。
まぁ、そんなに片苦しいことを言わないで、もう少し、この詩を味わいましょう。この詩は、一応、「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」歌った詩とされている。そうでしょう、狂っていなければ、歌をうたうなんて言うことはできない。
というより、この前書きの言葉にはいろいろ問題があるが、一応そのまま信じるとして、これはダビデが王になる前ソウル王から命を狙われて逃げまくっているとき、外国に逃亡し、そこでも居場所がなくて、「狂気の人を装った」という。どんな歌をうたったのか分からないが、おそらく町の人々も何を歌っているのか分からないが、一人の外国の狂人が歌っている位に見ていたのであろう。最も簡単な「狂ったさま」(口語訳)は絶えずぶつぶつ歌い続けることらしい。今日の聖句は、狂ったさまをしているダビデと、それを見ている人々との間のギャップが面白い。
2015日々の聖句 11月28日(土)
これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。(イザヤ66:2)
パウロの言葉:今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げることができるのです。(使徒言行録20:32)
私の黙想:
何という厳粛な言葉。「それ故に存在する」と神が言われる。人間は神の存在についていろいろ論じる。しかし、神はそんな議論を聞いていない。ただ、万物はわたしが手で作った故に存在する、と宣言される。何という厳粛な言葉であろう。これが神と人間との根源的な関係である。面白いことにこの「存在する」という言葉を口語訳、新改訳では「わたしのものである」と訳している。かなり違う。フランシスコ会訳はもっと面白い。「こうして成った」と訳し注釈で70人訳では「わたしのものだ」と訳しているという。文語訳はフランシスコ会訳に近い。
私は今の読書の関係で「存在」という言葉に過敏にな理過ぎているのかも知れない。
ところで、今日の聖句の後半部分。万物の中で、この3種類の人間を特別に「顧みる」と言われる。私は特に3番目の「わたしの言葉におののく人」という言葉に驚きを感じる。一寸弁明じみたことを一言、私の「面白い」という言葉の意味は、お笑いタレントが「面白い」というのとは次元が異なる。そのことに非常に興味を惹かれるという意味である。特に、今日の場面では、「おののく」と言うことに近い。