OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

旧島民墓地

2008年07月09日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島での1日目は、午前中が、慰霊祭式典への参加で、
午後は、旧在住場所ごとのグループに分かれての、
「里帰り」です。

昨年は、戦前の繁華街で人口が一番多かった、元山集落の人は、
私と、もうお一人の二人でした。
今年も少なくて、うち(三人)以外に、二世帯三名の、
合計三世帯六人でした。

戦前の集落は、空港になってしまっていますので、近くの硫黄ヶ丘を
見て、往時を偲ぶぐらいしか、することがありません。
二日目にも硫黄ヶ丘には寄るのは知っていましたが、
舟見岩に登ったりして、過ごしました。

昨年は、その後で、滑走路沿いを歩いて天山記念碑まで
もう一人の方と同行の村役場職員の方と三人で行ったのですが、
今年の、同行者は、徒歩が苦手(好きでない)でしたし、
天山も二日目に行きますので、里帰りの私達用の巡回バスに乗り、
他の皆さんと、祈念館に戻りました。
同行者二人と私とは、祈念館を通り過ぎて近くの
慰霊祭があった旧島民墓地平和祈念公園まで、もう一度、
バスに乗せていってもらい行きました。

式典で使った、テントや椅子などの片付けがちょうど終わったところで、
数台のトラックで、自衛隊の方々が、運び出すところでした。
式典に参加した方々がいない静かになった島民墓地で、
ゆっくりとお祈りをしました。

母島と父島の中学生の方が、献花台に捧げて下さった、
千羽鶴は、旧島民墓地の墓碑の両側に、架けてもらっていました。
千羽鶴二つのバランスが、写真のように、とても良かったです。

この墓碑の近くに古い、灰色の軍属で残り硫黄島で戦没した
82人の名前の碑のオリジナルがあります。古いので
名前は読みにくいです。
もっと、入り口に近い場所には、同じ82人の
もっと大きい黒い石の碑を後から立ててもらっています。

慰霊祭のための設営と片付け、運搬をして下さった皆様、
ありがとうございました。

この後、さらにもう一度、同じ日に三度目の、
この旧島民墓地平和祈念公園に行きました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小笠原村中学校二年生の硫黄島訪問

2008年07月09日 | 硫黄島・小笠原村
母島と父島の中学校2年生が、私たちの墓参訪島と一緒に、硫黄島に
来てくれます。社会勉強の一環としての学校行事で参加してくれています。

慰霊祭では、両中学校の代表の生徒達がスピーチをしてくれて、
皆さんで作ってくださった、千羽鶴を捧げてくれます。

ありがとうございます。

昨年と、今年、生徒代表の言葉を聞きました。
読み方も内容も立派でした。


私は、ちょうど今年の春、中学の卒業式と高校の入学式に出ましたので、
卒業生代表(中三)、在校生代表(中二)と、
新入生代表(新高一)、在校生代表(新高三)の、
代表のスピーチを聞きました。

私にも、同じような経験がありますし、
市の作文文集・読書感想文文集に学校代表として選ばれりもしてましたので、
代表の言葉や、作文、読書感想文の学校代表には、
教師がかなり手を入れるのを経験して知っています。
時には、「先生が書いたそのまま。」や「そこまで直すと元の
言いたかったこととは全く違う。」という極端な場合もあります。

今年出席した中で、
特に中学校の卒業式の中二代表と、卒業生中三代表の言葉、には
かなりの違和感を覚えました。
どちらの代表生徒も、文章能力が高く、表現力が豊かな生徒なのだと
思います。そういう生徒が選ばれたことは理解できます。
が、
「いくら何でも、今、言った、その言葉で思考していないし、
それが、卒業生に(在校生に)、あなたが言いたい内容だとは
思えない。ちょっと、普通で使わない言葉や引用、大人でも考えることの
ないような季節を表現する言葉 などなどの連続、
やりすぎでは?」と、思いました。

「先生の手がかなり入っている」と思いますが、
憶測にすぎませんので、
どこまで、その生徒ご本人が、思ったことを書いて読んだのか分かりません。
が、その生徒達の言葉を聞いていて、 「響かなかった」 「打たれなかった」
ことは事実でした。


硫黄島での慰霊祭での、両中学校の代表の生徒のスピーチは、
ご自分達の言葉で、書いたものを、一生懸命に朗読してくれていたと思います。
もちろん、先生たちがチェックして、
アドバイスはしてくれた文章だと思います。

しかし、きちんと、事前に勉強をして、皆で、硫黄島という
現場を見学に来て、その代表としてのスピーチとして一生懸命に
考えて書いて読んでくれていた、ということが伝わってくる内容でした。
「中学生が、そんな言葉で考えないし、思わないよ。」と
いう不自然すぎる表現、言い回しは、含まれてませんでした。

「平和への誓い」を述べてくれました。


慰霊祭から、翌日にかけて、何箇所かで
中学生一行と一緒になりましたが、
戦跡に詳しい硫黄島協会のベテランの方の解説などを、
皆さん、真剣に聞きながら、見学していました。

学校で、事前に調べて勉強をしてきてから、
実際の様子を見て、昔に詳しい人の話を聞いたという、今回の
学習の経験は、本当に有意義だったのではないかと思います。


私たちも、学校では、社会科で、国語の教科書で、戦争についての
勉強をして、ショックを受けたり、いろいろかんがえさせらたり
という経験はしました。

おそらく、
沖縄や長崎や広島の中学生も、地元での、
同じような見学学習の機会はあると思います。
高校生になれば、地元ではなくて、修学旅行で、
原爆ドームを見たり、九州や沖縄に行ったりすることも
あると思います。

それらの他の戦争の跡の見学と比べても、
小笠原村の中学二年生が、実際に見て学習をした島は特別な島だったこと、
島全体が戦跡とも言うべき、
そこで行われた戦闘が、広くはない島全体での、
特殊な密度の高いものだった跡を見て、感じて、学んだということ、
は、とても、大事な良い機会であったことと思います。

硫黄島訪問見学学習は、
読んだり、授業で聞いたりという学習とは比較できない
多くのものを、中学生の皆さんの脳裏に残したのではないかと思います。

「戦争は悲惨」
「どうあっても起こしてはいけなくて、平和的解決が大事」
「平和を全国民、全世界の人たちが誓って求めないといけない」
など、は大人からの 一般的な教育としての言葉の押し付け 
だったら、あまり意味はありません。

生徒達が、自分で、見て聞いて、自分の頭で、
入ってきた情報を処理して、考えたり感じたり思ったりした
結果が、頭に残ってくれてこそ、意義があると考えます。

毎年、参加して、何かを吸収して下さっている、
小笠原村の中学生が、
戦争について、歴史について、目にしたものを、
記憶に残して、自分で考え続けることで、硫黄島訪問の学習は
完遂されるのだと思います。
きっと、皆さんこれからも、ご自身で、学び、考え、
そして、思ったことから行動できる、青少年に育っていって
くれることだろうと、思いました。

慰霊祭へのご出席と、千羽鶴を、ありがとうございました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする