不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

大阪山砲台

2008年07月12日 | 硫黄島・小笠原村
昨年、祈念館で「この、上に、敵の砲弾を受けた痕が残っている砲がある。」と
教えてもらいました。

砲身に砲弾が命中するというのは、確率的にはとても珍しいことか、
砲弾が相当に多かったかのどちらかですので、その話を聞いて
驚きました。

砲の位置が、敵にわかって、集中的に攻撃をされて、
相当数の砲弾が打たれて破壊されたとしても、それほど太くはないだろう
砲身に弾痕が残るということは、よほどのことだと思いました。

おそらく、敵の砲弾数が想像を絶する数だったのでしょう。

硫黄島の戦跡で、これまでの訪問では見ていなくて、
今年、初めて見たのが、
その大阪山砲台と、壁画(星条旗を掲げたモニュメントが題材)でした。

例年どおり、二日目にバスで、戦跡、慰霊碑などを回りましたが、
予定の場所を回り終わって、祈念館を後に船に戻るまでに
少し時間があったので、希望者が、その2箇所に連れて行ってもらい
ました。
鯰江議員と一木議員のお二人も一緒で、他の場所のように、
自衛隊の方が、解説をしてくれました。

砲身にくらった、砲弾数は1個ではなく、砲身をかすっているもの
穴を開けたものなど、数弾があたった痕があったのには驚きました。

硫黄島に設置された砲の中でも最大級だそうです。
米軍が上陸した南海岸ではなく、北側の沿岸を向いています。
これだけ大きな砲をこの高さに設置するのも大変だったろうと
見学した皆さんと話しました。

また、この砲の近くには、いくつもの壕の入り口が
外から見て分かりやすい場所にあったのが目立ちました。

今回の硫黄島の訪問で最後に見たのが、この大阪山砲台でした。

実は、私は、その前の日にも、一人で、この砲のところに
行って、少しですが、見ていました。
なぜ、一人で行ったのかは、次回。

生前、母はよく、「元山から、大阪山を越えて ”あずま” の、
親戚の家に行ったのを覚えている。」と、言っていました。
私は、「地図によると、”あずま” という名はないよ。
そう、呼んでいたのかもしれないけれど、”あずまやま(東山)”
のことだと思う。」と、伝えました。

祖父の兄弟は、元山ではなく、別のにそれぞれ分かれて住んでいたそうです。

地図によりますと、
東山(あずまやま)だった場所が、旧島民墓地平和祈念公園のあたり
のようです。

砲身の弾痕の写真です。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 旧島民墓地 | トップ | 走りました。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

硫黄島・小笠原村」カテゴリの最新記事