OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

小笠原村中学校二年生の硫黄島訪問

2008年07月09日 | 硫黄島・小笠原村
母島と父島の中学校2年生が、私たちの墓参訪島と一緒に、硫黄島に
来てくれます。社会勉強の一環としての学校行事で参加してくれています。

慰霊祭では、両中学校の代表の生徒達がスピーチをしてくれて、
皆さんで作ってくださった、千羽鶴を捧げてくれます。

ありがとうございます。

昨年と、今年、生徒代表の言葉を聞きました。
読み方も内容も立派でした。


私は、ちょうど今年の春、中学の卒業式と高校の入学式に出ましたので、
卒業生代表(中三)、在校生代表(中二)と、
新入生代表(新高一)、在校生代表(新高三)の、
代表のスピーチを聞きました。

私にも、同じような経験がありますし、
市の作文文集・読書感想文文集に学校代表として選ばれりもしてましたので、
代表の言葉や、作文、読書感想文の学校代表には、
教師がかなり手を入れるのを経験して知っています。
時には、「先生が書いたそのまま。」や「そこまで直すと元の
言いたかったこととは全く違う。」という極端な場合もあります。

今年出席した中で、
特に中学校の卒業式の中二代表と、卒業生中三代表の言葉、には
かなりの違和感を覚えました。
どちらの代表生徒も、文章能力が高く、表現力が豊かな生徒なのだと
思います。そういう生徒が選ばれたことは理解できます。
が、
「いくら何でも、今、言った、その言葉で思考していないし、
それが、卒業生に(在校生に)、あなたが言いたい内容だとは
思えない。ちょっと、普通で使わない言葉や引用、大人でも考えることの
ないような季節を表現する言葉 などなどの連続、
やりすぎでは?」と、思いました。

「先生の手がかなり入っている」と思いますが、
憶測にすぎませんので、
どこまで、その生徒ご本人が、思ったことを書いて読んだのか分かりません。
が、その生徒達の言葉を聞いていて、 「響かなかった」 「打たれなかった」
ことは事実でした。


硫黄島での慰霊祭での、両中学校の代表の生徒のスピーチは、
ご自分達の言葉で、書いたものを、一生懸命に朗読してくれていたと思います。
もちろん、先生たちがチェックして、
アドバイスはしてくれた文章だと思います。

しかし、きちんと、事前に勉強をして、皆で、硫黄島という
現場を見学に来て、その代表としてのスピーチとして一生懸命に
考えて書いて読んでくれていた、ということが伝わってくる内容でした。
「中学生が、そんな言葉で考えないし、思わないよ。」と
いう不自然すぎる表現、言い回しは、含まれてませんでした。

「平和への誓い」を述べてくれました。


慰霊祭から、翌日にかけて、何箇所かで
中学生一行と一緒になりましたが、
戦跡に詳しい硫黄島協会のベテランの方の解説などを、
皆さん、真剣に聞きながら、見学していました。

学校で、事前に調べて勉強をしてきてから、
実際の様子を見て、昔に詳しい人の話を聞いたという、今回の
学習の経験は、本当に有意義だったのではないかと思います。


私たちも、学校では、社会科で、国語の教科書で、戦争についての
勉強をして、ショックを受けたり、いろいろかんがえさせらたり
という経験はしました。

おそらく、
沖縄や長崎や広島の中学生も、地元での、
同じような見学学習の機会はあると思います。
高校生になれば、地元ではなくて、修学旅行で、
原爆ドームを見たり、九州や沖縄に行ったりすることも
あると思います。

それらの他の戦争の跡の見学と比べても、
小笠原村の中学二年生が、実際に見て学習をした島は特別な島だったこと、
島全体が戦跡とも言うべき、
そこで行われた戦闘が、広くはない島全体での、
特殊な密度の高いものだった跡を見て、感じて、学んだということ、
は、とても、大事な良い機会であったことと思います。

硫黄島訪問見学学習は、
読んだり、授業で聞いたりという学習とは比較できない
多くのものを、中学生の皆さんの脳裏に残したのではないかと思います。

「戦争は悲惨」
「どうあっても起こしてはいけなくて、平和的解決が大事」
「平和を全国民、全世界の人たちが誓って求めないといけない」
など、は大人からの 一般的な教育としての言葉の押し付け 
だったら、あまり意味はありません。

生徒達が、自分で、見て聞いて、自分の頭で、
入ってきた情報を処理して、考えたり感じたり思ったりした
結果が、頭に残ってくれてこそ、意義があると考えます。

毎年、参加して、何かを吸収して下さっている、
小笠原村の中学生が、
戦争について、歴史について、目にしたものを、
記憶に残して、自分で考え続けることで、硫黄島訪問の学習は
完遂されるのだと思います。
きっと、皆さんこれからも、ご自身で、学び、考え、
そして、思ったことから行動できる、青少年に育っていって
くれることだろうと、思いました。

慰霊祭へのご出席と、千羽鶴を、ありがとうございました。
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慰霊の式典で今年も「故郷の廃家」を歌いました。(2)

2008年07月06日 | 硫黄島・小笠原村
「故郷の廃家」を、「少年兵たちが歌った」エピソードがパンフレット「硫黄島」に書かれている、と、昨年紹介をさせていただきました。
そこには、「故郷の両親を思い合わせ」と、書かれてます。


この1年間、この歌詞を読んで、いろいろと考えるところがありました。
オリジナルは、My Dear Old Sunny Homeという、ヘイズというアメリカ人
が作詞・作曲した曲です。
日本語に訳詩をしたのが、犬童球渓です。

元の英語の詩もホームページで検索をして
調べて、読むことができました。、鳥や植物の名前が出てきます。


私たちがよく知っている、故郷を懐かしむ内容の唱歌としては、
「うさぎ追いし、かの山、、」の「故郷(ふるさと)」があります。
誰もが歌ったことがあると思います。
「故郷の廃家」も、音楽の教科書に載っていた頃には、
誰もが知っていて歌ったことがあった、曲だったのかもしれません。

二つの歌詞の内容を比べてみると、
「故郷(ふるさと)」が、
・今も故郷はある。
・今はその場所を離れていて、遠くから懐かしんで、いつか帰りたいと
願っている。

「故郷の廃家」は、
・今は荒廃してしまっている。
・今、その場所にいて、目の前に荒廃した姿を見て、過去を懐かしんで
嘆いている。

大きな違いがあります。

前者が「空間の隔たり」に対する郷愁であるのに対して、
「故郷の廃家」は、「時間の隔たり」に対する郷愁です。

故郷を離れて、南洋の島に派遣されて、その戦いが激化していく中で、
「少年たちが歌うのを見て、市丸少将が、涙を浮かべた。」
少年兵たちが、「故郷の廃家」を、歌った時の心はどんなだったのでしょう。

「帰れないかもしれない故郷を懐かしんで、帰りたいと
願い、歌った。」のでしたら、
その気持ちに合う、歌詞の内容は、「遠く離れた故郷を思う」
「故郷(ふるさと)」の方が、あてはまる歌詞の意味内容で、
「故郷の廃家」の方ではないと思います。
「故郷の廃家」の歌詞では、「故郷」の方が、荒廃して「見る影もない。」
になってしまっているのですから、懐かしんで帰りたいと
願うという気持ちとは、ずれがあります。

「故郷が見る影もない」と嘆いている歌を、
どうして、「故郷を離れて、さびしい思いをして、激戦の地に
やられてしまった少年兵たちが歌ったのだろうか?」という点が、
不思議だと思い、あれこれ、考えるようになっていました。


私の、思うところとしてですが、

唱歌の歌詞と「帰れるか分からない激戦地の少年兵についての
パンフレットの紹介」とから、勝手なこじつけ になってしまいますが、
ひょっとすると、、と思ったのは

「帰れないと分かった。帰りたい故郷。家族に会いたい。
南洋の戦場での様子から、帰れそうだとは思えない。」と、
兵士たちが思っていたとしたら、
「既に帰れない故郷として、思い出される。」
という、「時間の隔たりへの郷愁」を、うたった
「故郷の廃家」の歌詞が、その時の少年兵たちの思い、無念さに
ぴったりだったのかもしれません。


以上は、私の勝手な、歌詞に触発されての、想像の世界でした。

もっと、普通に考えれば、
当時は唱歌として、皆がなじんで、口ずさんでいたであろう
この「故郷の廃家」を、声を合わせて、大きな声で
歌っていたと考えれば、自然です。
皆が共通で知っている歌を、声を合わせて歌えば、
元気が出るのは誰もが知っていることです。


むしろ、
「懐かしい故郷が、荒れて、往時の面影もない。」と
嘆くという歌詞の内容は、
墓参訪島で、硫黄島に行っている
硫黄島に戦前に在住していた島民には、そのまま
ぴったり、しっくりきます。

帰りたくても帰ることが許されていない故郷の島を
訪問しています。

歌詞では、「自分の家」が荒れた様子を「今」見ているのに
対して、戦前在住の島民は、家屋敷そのものを見ることはできません。
戦前にあった場所が特定できて、その場所に行ける人がいます。
およそ、「このあたりだろう。」という場所に行ける人がいます。
家のあっただろう場所に行けない人もいます。

戦前の島では一番、住民が多く繁華街だった、
祖父が商店をしていた元山は、現在の空港なので、
入ることができません。
硫黄ヶ丘近くの森が、旧村役場と学校のあった場所らしく
そこは、今の空港にかかっていないようです。

昨年も、今年も、「ひょっとすると、ぎりぎり、祖父母、
母たちが暮らした家は、空港には、かかっていないのでは?」
(最初の訪問の時に、母の兄弟の長兄、次兄の伯父たちは、
「このあたりだろう。」と、空港になっていない森の
あたりを、自分たちの住んでいた家のあった場所らしい、
と言い合っていました。) と、昔と今に詳しい人に訊いたりしていますが、
やっぱり、空港になってしまっているようです。
それでも、まだ、「このあたりなのではないのだろうか。」と、
近くを歩いたり眺めたりしました。



父島では 返還記念パレード が行われたそうです。

また、小笠原村議会の一木重夫議員がブログ 
「小笠原村議会議員 一木重夫の政治日記」で、
「硫黄島と小笠原をめぐる日米関係」というタイトルで、
とてもためになる興味深い内容を紹介して下さっています。

一木さん、
とても意義のある内容をご紹介いただき、
興味深く、読ませていただきました。
昨年に続き今年も、一緒に硫黄島訪問をしていただき
ありがとうございました。

いろいろな思い、願いをこめて、大きな声で、
「故郷の廃家」を歌うことは、とても大切なことだと考えています。

写真は、今年撮影した、祈念公園からの海と係留中のおが丸。
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慰霊の式典で今年も「故郷の廃家」を歌いました。(1)

2008年07月06日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島での二日間。その最初は旧島民墓地平和祈念公園での式典です。上陸すると、すぐに、全参加者が、会場に集まり、式典の開始に備えます。

暑いのですが、「これから、硫黄島での二日の、慰霊と鎮魂の活動が始まる」と、気持ちが引き締まる思いで、緊張して出席することができます。

座る位置が去年と同じような位置になりました。
来賓の方の後ろ、三列目か四列目の一番左側です。

今年は、小笠原返還40年ですので、
皆様のお言葉で、「硫黄島は返還されても旧島民が戻れない島のまま」
であることを、去年よりも強調していただいていたと感じました。

昨年も、紹介いたしましたが、出席者全員で「故郷の廃家」を
歌いました。歌詞が配られていました。

この四拍子 24小節からなる曲で、
歌うのが難しいのは、最後の8小節だと思います。

昨年は、歌詞は配られていましたが、メロディーを知らなかったので
まわりの人に合わせて、何とか歌おうとしましたが、難しい曲でした。
涙で目がかすみ歌詞は見えないし、しゃくりあげてしまって
ろくに歌えませんでした。

今年は、昨年のこのブログで、掲載したりした時に調べたり、
9月の集いでも歌いましたのでメロディーも歌詞も知っていて、
心積もりして、始まるのを待ちました。

最後の8小節は、昨年の9月の集いで歌った時にも
皆のテンポが、ずれてしまっていました。
「あれたるわがいえに」の 「る」と「わ」の間が長いので
十分に待ちきれない、リズムになっているためです。

昨年の様子を私が書いたものを、
とても幅広く歴史などに関することを深く考察、記述してくださっている
ホームページで、ご紹介くださったワシモ様の
サイトでは、多くの、ためになるお話、考えさせられる内容、
写真や俳句などを、見ることができます。
特集をメールマガジンで送付していただき購読することもできます。

そのワシモ様のサイトの掲示板で、
船での訪島は初めてだった、同行した妹が、
この歌についてコメント掲載してしまっていますが、

「到着する前の晩の船室で、メロディーを教えた。」
のですが、その理由は、
知らずに初めてだと、歌えないのは、昨年、自分が
経験していたからです。
メロディーとリズムを教えましたが、
楽器無しで声で伝えるのは、なかなか難しかったです。


今年は、できる限り、大きな声で歌いました。
取材同行のNHKのプレスのクルーが近づいて来ました。

が、私より、一列前の、私の斜め右前にいた妹がいる列に
カメラを向けていました。

私が、思い切りの大きさで歌っても、声量では、
一度それなりに教えて歌を覚えてしまったら妹に勝てず
「大きな声で歌っているのがいる」前列の方が、目立ったため
だったと思います。
撮影されただろう、その場面が、番組で使われたりすることは
ありませんでした。

中学二年生たちも、一生懸命に歌ってくれていました。

毎年、慰霊祭で、この「故郷の廃家」を参加者全員で歌って
慰霊・鎮魂の、皆の思いを集中させるということは、
とても良い、大切なことだと思います。

次は、9月14日の「旧島民の集い」で、
歌います。
伴奏楽器もなく指揮者もいないので、
なかなか合わないのですが、頑張りたいと思います。

この曲の歌詞は、
当ブログの昨年の7月投稿の記事に載せてあります。

写真は、慰霊祭が行われた旧島民墓地平和祈念公園を
入り口付近から撮影したものです。

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タコの実2008(5)

2008年07月05日 | 硫黄島・小笠原村
写真は、同じタコの実の裏側です。食べられた房、食べられかけの
表面を剥かれた房があります。
父島の写真をたくさん載せて下さっているブログなどが
検索で見つかって、見せていただいたりしましたが、
「ネズミに食べられた、、」と、あります。
やはり、犯人はネズミ説が有力なようです。
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タコの実2008(4)

2008年07月04日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄ヶ丘の近くの木で、取ったタコの実です。
一つは、実家の仏壇に供えてあります。

なかなか良い感じに熟しています。
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タコの実2008(3)

2008年07月02日 | 硫黄島・小笠原村
この木は、昨年も同じ木からタコの実を取って持ち帰った硫黄ヶ丘の横のタコの木です。

「あの木のタコの実は美味しい。」と昨年も聞きました。

昨年掲載の記事に載せた写真でごらんいただますが、
いくつかの房の表面がかじられて剥けてしまっていました。

ところが、この前の記事の写真の、平和祈念公園のタコの実は、
色づいて熟して見えますが、房が剥けていません。
「実がない。小さくて美味しくないなどの実もある。」とも
聞きました。
平和祈念公園の実が、その、おいしくないハズレの実なのか、
それとも、場所的に食べている犯人がいないから剥けていないのか
は分かりません。

「あそこ(硫黄ヶ丘)の実は美味しいぞ。」
「かじられているということは、実が入っていて
良いタコの実だということだ。」などと、諸先輩から聞いていて、

昨年、「確かにどう見ても、剥けている。
しかし、こんなに硬い房の表面を剥いて、実まで達するのは
大変な労力なはずで、そこまでして、あの実を食べたいのだろうか?」

と、不思議に思っていたのです。

そして、ついに、今年は、この木で、「衝撃映像!」の撮影に成功しました。
ご覧いただけるとおりです。

この実は、手などは届かない高い位置になっていました。
多くの房が食べられて、実のあった位置が空洞になっています。
下の方には食べかけなのか、ほとんど表面が剥かれている房も
見られます。

同じ木の下の方の実も、いくつかの房は、実が食べられていました。

先輩から最初に
「食べようと剥いたのは誰か?」について聞いた話は、
「こうもりだ。」でした。別の方は、「ねずみがかじって食べる」と
言っていました。

パパイヤ、マンゴーなどの糖分の高い果実は豊富な硫黄島ですが、
タコの実は、あの味から、脂肪が豊富だと思われます。
あそこまで苦労して剥いて、実を食べたいほどの栄養価があり、
美味しい実なのでしょう。

こうもり説、ねずみ説、いずれにしましても、
実がきちんと入った美味しいタコの実の房の表面からかじって、
ごちそうにありついているのでしょう。

父島でも、タコの実がこのように、小動物(?)に食べられた痕というの
は見られるのでしょうか。

こうもり、ねずみ のどちらのだろう?と思っていたところ、
コメントをいただいたり、今回は、私たちの訪問のサポートをしていただいたりと、お世話になっている、「おさピー」さんの、
「硫黄島写真館」(光画堂寫眞館別館。今年撮影なさった写真も
新しく数多く掲載していただいています)に
タコの実に群がる昆虫ハナムグリ の写真が!

「こうもりだ。」「ねずみだ。」は、島の先輩の話ですが、
この昆虫の写真は、現場を押さえた写真です!

なのですが、昆虫が房の皮をやぶって実を食べているのでしょうか?
タコの実には、小さい蟻もくっついています。
蟻や昆虫にとって、うれしい、樹液の様な物が出ていて、
実が目当てでなく、群がっているという可能性もあるのでは??


不思議な世界に、どんどん、はまっていきます。

動物、虫、植物の花を観賞したり実を食したり、
豊富な海産物資源と、住民が、共存して独特な世界を作っていたのが、
戦前の硫黄島だったのだろうなぁ、と、また、あらためて思いました。

「タコの実の鉄火味噌」という、伝統の味の名物をいまだに作って下さる
硫黄島出身の方が在住している父島では、
海洋センターでウミガメを保護したり、
独自の生態系を守る活動を続け、自然と共存しながら、
住民の皆様が生活をなさっています。


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タコの実2008(2)

2008年07月02日 | 硫黄島・小笠原村
毎年、訪問墓参団が、硫黄島に上陸すると、最初に、硫黄島旧島民平和祈念墓地公園に集まり、慰霊式典が行われます。

その時に撮影した、タコの実です。タコの実は、かなりの重量があります。
高い場所になるものもありますが、平和祈念墓地公園で、撮影をしたタコの実は
手が普通に届く高さになっていました。

昨年、書きましたが、
一昨年の日帰りの時に持ち帰ったタコの実は、祖母宅の祖父、伯父の仏壇に供えましたが、食べ方が分かりませんでした。
昨年、持ち帰ったものは、帰りの船で房の割り方を教わっていましたので、実家で
父母と、硬さに驚きながら、割って食べました。4個の実が入ってる房がありました。普通は3個ですので、四葉のクローバー ではないですが、4個も実が入った房に当たって幸運だと、思いました。

それにしても、房をはずし、割って、やっと実を取り出して、と苦労が多い割りには、食べる部分は大きくないです。しかし、ほとんどの人は、タコの実の味を知らないでしょうから、鉄火味噌にして食べていたという、戦前のままの食べ方の味を
楽しむことができて実の味を知っているのですから、幸運だと思います。
小さい割には、栄養価は高いだろうと、味から類推されます。
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タコの実2008(1)

2008年07月01日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島での夕食に、おいしい、タコの実を出していただきました。
味噌の甘さに合う、濃厚な実の味でした。
昨年の9月での川崎での集い に、出席者に持たせていただいたタコの実の
鉄火味噌と味付けが、ほとんど同じでした。
違う人が作っても、よく昔の味をご存知の方が作ると同じ味になるんだな、
と思いました。

「首都圏ネットワーク」NHK総合(18:10~19:00)シリーズ小笠原の
最終回、6月27日(金)放送の「硫黄島」で、タコの実鉄火味噌を
「食べさせたい」と、作って下さっている様子が紹介されました。
硫黄島でも、今年は南島ツアーでもご一緒させていただいたご主人が
タコの実を木から収獲して下さっている様子が映っていた方で、
2006年の秋の入間からの日帰り墓参の時の、厚生館でのお弁当の
時に「アナナ」を差し入れて配ってくださったのが、放送で旧島民としての
思いを語っていらっしゃった奥様です。
おいしい、鉄火味噌を本当にありがとうございました。
ご馳走様でした。あれだけ、お作りになるのには、たくさん時間を
かけてくださったことと思います。

番組で見ると、タコの実を収獲している風景から、次には
房が割れているところか実を取り出すシーンでしたので、
どれぐらい大変かが、知らない視聴者には伝わらなかったと思いますが、
昨年の投稿で書かせていただきましたが、
房が硬くて、割るのが本当に大変です。
どれぐらい硬いかというと、とにかく硬い。
3粒の実を取り出すのに、とても、労力がかかります。
慣れていらっしゃるとは言え、ご苦労なさって作って下さったと
思います。

今年、いただいた鉄火味噌のタコの実は、父島産で
あることが放送でも分かりました。

一方、昨年の、9月の集いで、配っていただいたのは、
「集い」の会長ご夫妻が、母島のタコの実を取り寄せて、
作って下さったのだと、帰島促進協議会理事の方から
聞きました。

小笠原は、「母島・父島・硫黄島で、一つの小笠原だと思います。」と、
投稿させていただいた直後に、タコの実の産地で、「母島、父島のタコの実
からの鉄火味噌を、昨年の集いと、今年の硫黄島でいただいた」
と紹介できるのを嬉しく思います。

硫黄島に行く時と帰る時に父島に寄らせていただいている時に、
村役場の2階の会議室を、休憩所として提供していただいています。

写真は、父島の、村役場玄関前のタコの木のタコの実です。
まだ、青いですね。

硫黄島のタコの実を次回から紹介します。
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