パールライスのつれづれなるままに

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よみがえる画家-板倉鼎・須美子展 at 目黒区美術館

2017年04月30日 | アート・文化
この夫婦に対しては、「天才は夭逝する」と安易に言ってはいけないと思います。
しかし、悲劇というか、惜しい才能を失ってしまった、としか表現できない私の感覚。いや、お恥ずかしい限りです。

なぜ悲劇なのか?まずは、作者の略歴を。
夫の板倉鼎(かなえ)は、1901年に埼玉県に生まれ、千葉県立千葉中学校で洋画家・堀江正章に学び、画家を志します。
1924年に美術学校を卒業。翌年、須美子と結婚。その翌年、夫婦ともにパリへ留学します。
当時の先端の美術に触れ、作風がガラリと変わります。サロン・ドートンヌやサロン・ナシオナルに入選、将来を期待されるも、歯の治療中に敗血症となり、1929年、28歳の若さでパリで亡くなります。

妻の須美子は、1908年、ロシア文学者 昇 曙夢(のぼり・しょむ)の長女として東京に生まれ、文化学院創立と共に入学。17歳で板倉鼎と結婚するため、文化学院大学部を中退します。歌人 与謝野寛・晶子夫妻が媒酌人でした。
パリで鼎の指導により、油絵を始めると、同年のサロン・ドートンヌにはやくも初入選。出産・育児など多忙な中でも制作を続け、翌年もサロン・ドートンヌで連続入選。
夫婦ともに日本人画家たちのグループと親しくしていました。
1929年、夫鼎が亡くなる半年前に次女を失っています。その後、夫を相次いで亡くし、失意の中、長女を連れて帰国します。
しかし、悲劇はこれでは終わりません。翌年には長女も病死。その後は再出発を期し、有島生馬に絵画指導を受けるが、結核を発症。1934年、25歳でこの世を去ります。

軽々しく「悲劇」とは言えないですね。残された作品群がまた素晴らしいものばかりです。

まずは、夫鼎の作品。
パリ留学前は、写実的、黒田清輝による外光派のような作品です。


それが、パリへ留学すると、セザンヌのような描き方に。


金魚水槽もよく描いています。夫婦にとって金魚は癒しだったようです。



モデルは、妻須美子。キース・へリングみたいな描き方に感じます。
 

パリへ向かう途中、ハワイに滞在します。そこで現地の風物を描き、個展を開催します。


次に妻、須美子の作品。
よほど、ハワイが気に入っていたのか、ハワイでの思い出を中心に制作しています。
アンリ・ルソーみたいな描き方が良いですね。ルソーも画家としての専門教育を受けていません。こういう描き方になるんでしょうか?
 

これは、ナビ派のモーリス・ドニみたいで、また良いです。


帰国後の絵画指導を受けいた頃の作品です。


両者ともに素晴らしい才能を持っていただけに、この家族の悲劇は、作品以上に胸を打つばかりです。



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