オ気楽ナ・・・毎日

休日のドライブや旅先で見つけたモノを紹介しています。
主に、山口県内。たいして珍しいものはないかも・・・

多田渓谷と、渓谷の滝群

2013-10-31 00:02:40 | 山口県の滝

岩国市多田地区にある『多田渓谷』に、複数の滝があることを知ったので、確認に行ってきました。

岩国インターを降りて右折し、国道2号線を岩国市街方向へ800mほど進んだところ、下多田の交差点を左折。
県道59号線を500mほど行くと、右手に『藤河小学校』が見えてきます。
そこからさらに100mほど。
道路右側にある空き地の奥に、白い看板が2つ並んで立っているところが、渓谷への入口です。

実はここ、江戸時代の道である『岩国往来』を、地元の方々が散策路として整備したもの。

『多田渓谷』の遊歩道は、ここから松尾峠に至る『岩国往来』の途中から分かれているらしい。
国土交通省から「手づくり郷土賞」としても表彰されているみたいだな。

案内板には、滝として『渓谷一の大瀧』と『五の瀧』と2つ紹介されています。

さっそく、『岩国往来』に突入します。
のっけから、結構な坂ですな。

入口から300mほどで、分岐点に到達します。
左側、崖のほうに上がっていく道が、『岩国往来』。
むしろ、そっちのほうが脇道っぽく見えるな。

分岐点からすぐ先、はるか下の谷底に、滝が見えてきました。
落差は5~6mぐらいありそう。
てっきり、これが『五の瀧』だと思ったのですが・・・・

さらに100mぐらい進んだら、『五の瀧』の看板。
じゃ、さっきのは何だったんだろう?
ここは、斜面にロープを張って、滝の前まで行けるようにしてあります。

これが『五の瀧』。
落差は4mぐらいかなぁ・・・。
さっきの滝のほうが、落差がありそうなんだけどな。

そこから200mぐらい先にあるのが、『マンガン鉱採掘口』なるものです。
木の橋が架けてありますが、先の「日本ジャンボリー」で世界から集まったボーイスカウトの奉仕活動によって架けかえられたのだそうな。

採掘といっても、試し掘り程度のものだったんかな?
橋から覗くと、ちょっと変わった洞窟・・・といった感じのものがありました。

さらに200mほど歩くと、『三の瀧』の看板。
ここからは滝がよく見えないし、滝前に出る道もないので、強引に崖の途中まで下りてみます。

ここから下に降りるのはちと厳しい・・・という地点で撮った写真。
奥のほうにも落差があって、全部で20mぐらいの高さがありそうだぞ。

と、思ったら、元の道に戻ってすぐ先に『二の瀧』の看板があるじゃありませんか。
つまり、『二の瀧』『三の瀧』が連続して落ちているということだな。
どちらも、5m~8mぐらいの落差がある滝だと思われます。

ちなみに、『二の瀧』を上から見ると、落ち口しか見えませんでした。

さらに30mぐらい進むと、『渓谷一の大瀧』の看板がありました。

覗きこむと、結構な落差がある。

ここも階段をつけたり、ロープを張ったりして、滝前まで出れるようになっています。

ここからだと、一番上の段が見えにくいですが、総落差は20m以上あるでしょう。
五段になっていて、少しずつ方向を変えて落ちています。
さすがに『大瀧』と名付けられただけあるな。

この滝だけでも、大汗かいて歩いてきた価値があったぞ・・・と思わせるほどのものでした。

ただ、さすがにこれ以上坂を登る元気はなく、この上は探索しておりません。

正直、マイナーな渓谷だし、もっとショボイものを想像していたので、滝の規模も、その数も想像以上で、かなり満足でした。

ところで・・・・。

『一の大瀧』『二の瀧』『三の瀧』『五の瀧』とあったのだけど、『四の瀧』は無いの?
あと、『五の瀧』の下流にあった立派な滝は、『六の瀧』と名付けないのかな?


権現の瀧、再び

2013-10-29 23:16:31 | 山口県の滝

免許更新で小郡まで行くことになりましたので、ついでに、このあいだ中途半端なレポで終わってしまった、嘉川の『権現の瀧』に再度行ってきました。
季節が進んだので、前回よりも見通しがよくなっているだろうと見込んで、滝前へ出る方法を探るのが目的です。

今回も、まずは石鳥居があるところから、滝の上に。

前回気付かなかったのだけど、鳥居の向かいにある崖に、石仏が2体あるのを発見しました。
馬頭観音と、不動さまかな?
ちなみに、普通の人間ではとても近づけないような崖の上にあります。
どうやって安置したんだろうな?

川を渡って対岸へ出、右岸の竹ヤブあたりに下へ降りる手段が見つからないか、探してみましょう。

雑木の葉っぱが減って、下が見えやすくなっていました。
なんだ・・・よく見ると、メインの滝の高さって、5mぐらいしかないんだな・・・。
ただし、その下にも数段になって落ちているみたい。

すでに使われていない用水路沿いに進みます。
この先、少し広くなっている場所があり

イノシシ除けのトタン板をまたいで崖に近づいてみますと、なんとなく道のようなものを見つけました。
写真右手のほうに進んでいきましたら、草ぼうぼうの荒れ地に出るのですが

比較的新しい人の踏み跡が、下のほうにのびているではありませんか。
とりあえず、川まで降りれたら何とかなるかもしれない・・・と、踏み跡をたどって降りていくと、途中から滝の方向へ踏み跡が進み、竹ヤブの下をくぐって、滝の前に出てしまいました。

もしかしたら、同じような滝好きな方が、ごく最近訪問されたのかもしれません。
おかげで、たいして苦労せずに降りることができました。

感謝、感謝。

ちなみに、さきほどの上からの写真でいうと、○で囲んだあたりに、矢印のように出てきました。

それでは、滝の全体像を見ていただきましょう。

初めに期待していた直瀑は、一番上に写っている落差の部分です。
そっちのほうは手前の岩に隠れてよく見えませんが、全体的には、そこそこの高さがありますね。
滝に向かって右側に広い岩壁もあり、下からの高さは15m~20mぐらいあるんじゃないかな?
無理すれば、岩を伝って上にあがれそうでもあったんですが、足を滑らせたらシャレにならんので、やめておきました。

滝の上まで戻ってきました。
お堂の横を抜けて裏に出ますと

人の手で石を積んだ壁があり、赤瓦が山積み。
瓦が余っているということは、元は別に建物があったのだろうか?
石壁と小さな祠の間に、人が通れるような道らしきものがあるんだが、その先には何もありませんでした。
ただ、斜面に生える雑木につかまって降りれば、谷底へ到達することもできそうです。

小さな祠は、確認しただけでも3つありました。
鳥居に、お堂に、馬頭観音、不動尊、祠・・・と、様々な宗教が混在。
それだけ、この滝が信仰の対象であった証なんでしょうね。


塔の岩

2013-10-28 22:37:33 | お出かけ・山口中部

ダムカードを貰いに島地川ダムまで行きましたとき、ダムの周辺案内図に『塔の岩』というのがあるのを見つけました。

ダムの堰堤の東側から、ダム湖の周回道路に入って1kmぐらい。

支流が流れ込む場所で、道が大きくカープをしているところから上を見上げると、特徴的な岩とお社が見えました。

道端にあった、説明板。
お社のほうは、『河内木谷社』というんだな。
この奥の集落にあるという『先山のミズメ』なる巨樹も気になったんだけど、災害復旧工事でもしているのか、トラックやコンクリートミキサー車が、細い道にどんどん入っていく。
先まで通れるかどうかもわからないので、今回はあきらめました。

『塔の岩』については、防長風土注進案(江戸時代末期に萩藩が領内を把握するために編さんした地誌)にも記載があるとのこと。
かなりの昔から、信仰の対象として認識されていたものなのでしょうね。

せっかくですから、『塔の岩』まで登ってみましょう。
岩まで上がる階段があるのですが、登り口は、下の建物の間にあります。
この建物、神社の社務所のような役割なのかな?
なぜか、屋根の下でバーベキューをしたような形跡がある。
神社のお祭りのようなものをした跡なんだろうか?

結構急な階段だけど、手すりがついているのは有難いな。

階段途中には、『猿田彦大神』と彫られた石塔が2つ。
おそらくは、ダムに沈んだ集落にあった庚申塔を、ここに移設したものではなかろうか?

近づいて見ると、見事に三つの岩が積み重なっているな。
岩には、しめ縄がかけてあります。

お社のところまで上がってきました。
この角度で岩を見ると、何か別のモノに見えないこともない。(^^;)

三つの岩は、意外にも、結構不安定な形で積み重なっていました。
この状態で、何百年もよく倒れないなぁ・・・・。

その不思議さが、信仰の対象になった所以なのかもしれませんね。


向道ダム

2013-10-26 23:13:15 | 近代遺産

旧国道筋を走っていたら、いつのまにか『向道ダム』まで来てしまいました。

堰堤の高さは43.3m、幅120.9m。
戦前の昭和13年に着工し、昭和15年に完成しました。
多目的ダムとしては、日本で最初に運用が開始されたダムなんだそうな。

ダムの管理事務所の入り口ドアに、「ダムカードの配布を希望の方は、インターホンを押してください」との張り紙があった。
「ダムカード」って、なんじゃ?

ま、タダでくれる物なら、貰っておこう~♪

と、貰ってきたのがこれ。
トランプぐらいの大きさのカードで、表にダムの写真、裏にダムのデータが書かれています。

後で調べたら、2007年度から国土交通省が管理するダムで配布され始めたのが最初みたい。
現地のダム管理事務所に行かないと貰えないので、ダムマニアの間で収集する事が流行っているのだそうな。

全てのダムでカードがあるわけではなく、山口県では、12のダムで配布されています。
この後、調子に乗って、『菅野ダム』と『島地川ダム』まで行って、それぞれのダムカードを貰ってきました。(^-^;


さて、ダムの脇から下を覗きこむと

謎の建物があります。

下へ降りる道を探してみたら、「向道発電所→」という看板のところから細い道がありました。

建物は、発電所の建屋だったんですね。

コンクリートの外壁に、瓦ぶきの屋根。
なかなか趣きのある建物です。
原発が停止している今、フル稼働しているのか、発電器のタービンが回っているような音が聞こえていました。

ダムの堰堤の下のほうは、ゆるやかなスロープのようになっているんだな。
放流する水の勢いで、川床が削れないようにする工夫でしょう。

発電所の下、新しいブロックで蓋をされた部分は、元は何だったんだろ?

土留めのコンクリ壁に、唐突に蛇口が・・・・。
水が流れっぱなしなんだけど、大丈夫ですかね?


小辻橋と沼城橋

2013-10-25 23:51:39 | お出かけ・山口東部

今回は、須々万本郷にある、須々万川に架かる2つの橋を紹介します。

旧国道376号線からひとつ南側の裏道にあるのが『小辻橋』。

親柱に擬宝珠を乗せ、紅く塗られた欄干。
よく、古いお寺やなんかにある橋を真似た感じです。

橋のたもとに、古い道標がありまして

『西 徳山道』『南 花岡道』と書いてありますね。
北と東の面には何も書いてありませんでした。
つまり、ここは須々万本郷の『中往還』から南へ向かう道で、徳山への道と花岡(下松市)への道への分岐点だったのでしょう。

案内板も立っていましたよ。


もう一つは、旧国道から『沼城址』のほうに向かって真っすぐのびる、少し広い道に架かる『沼城橋』。

須々万の観光案内地図に書いてあったんで、何か由来のある古い橋なのかと思ったのですが・・・

橋のたもとにある案内を見ると、歴史には関係のない新しい橋だったんだな。
毛利元就の沼城攻めのとき、竹を編んだものを沼地に投げ入れて足場をつくり、沼を渡って城を攻略したという逸話があるらしい。
それにちなんで、橋げたに編竹が再現されているのだと。

言われてみないとわからないけど、たしかに、コンクリートで竹を表現してあるぞ。
しかも、なかなか細工が細かい。(*^^)

親柱の上にある、この謎の物体についても、説明を入れておいてほしかったな。

帰ってきてから、写真をよくよく見たら、中に何か入っている感じもするぞ。
仁王さまがいたりして?

(ーΩー )ウゥーン・・・・
よく見てくりゃよかった。


沼城址

2013-10-25 00:41:44 | 山口県の史跡関係

『やげん谷一里塚』から、さらに西へ。
『中往還』が通っていたルートを探してみるものの、やっぱりこういうのって、案内板でも出てない限り、素人では全くわからないな。
そのまま、須々万まで出てしまいました。

須々万は、交通の要衝として古くから開けていた集落。
ここには戦国時代、『沼城』という城がありました。

『保福寺』というお寺の裏にある、小さな丘が、その『沼城』の跡。
城主の菩提寺が、このお寺なのだそうです。
お寺の前の道は、おそらく『中往還』であろうと思うのですが・・・・。

ここは、この地の小学校の発祥の地でもあるそうな。
「須々万」という文字は、昔は「煤間」と書いたのだろうか?
現在は「沼城小学校」という名前で、ここからすぐ南に存在しています。

山門が閉まっていてお寺の境内には入れませんでしたが、門の外にもちょっと気になるものが。
「延命水かけ地蔵」さんの前の水盤。

普通は龍が水を吐いていたりするんですが、これは鳳凰?
なかなか味のある造形ですな。

大黒堂の前には、大理石の獅子が2体。
結構なお値段がするんだろうなぁ(←下衆の勘ぐり)

と、思ったら、横のほうに、木枠の梱包のまま放置されている、同じく大理石製の大仏さま。
買ったはいいものの、置き場所がないの?
もったいないですよ~。


少々脱線しましたが、『沼城』のことです。

説明板を読んでいただくといいのですが、戦国時代、毛利元就が防長制圧に乗り出した時の、最大の激戦地であったとされています。
標高が十数メートルの小さな丘にある城ですが、三方を沼地に囲まれて、攻めにくい城であったようです。

裏の城址に行くには、お寺の中から道があるみたいですが、駐車場脇から車道を上がっていくと

こちらにも入口がありました。
ただし、丘の頂上は平らに削られて老人福祉施設が建っており、城を確認できるような遺構は残っていないらしい。

山腹につけられた小路に沿って、ずらっと石仏が並んでいます。
数えていて、途中でわからなくなっちゃいましたが、約130体ほど。

進んでいくとまた、城についての説明板があり、その脇に

『沼城址』と彫られた石柱と、『沼城主の墓』がありました。

さらに道を進むと丘の上に出ますが、今はこんな状態。
造成するときに、丘の上のあちこちにあった石仏を集めて、山腹の道に並べたんだろうな。

毛利元就軍との戦いのときは、1500人とも3000人ともいわれる人が籠城したらしいから、城域はそれなりの規模があったと思われる。
その部分がごっそり削られているのは、ちょっと勿体ない気がするなぁ。

眼下に見える田んぼや住宅地が、当時は沼地だったのでしょう。
その昔、激戦があったことなんて想像もつかない、のどかな風景が広がっていました。

 

余談ですが・・・・。

『保福寺』の駐車場のところから見えたこれ。

墓石やら石仏やらを積み重ねた、塚のようなものがあったんです。
これは、いったい何だったんだろう・・・・。


やげん谷一里塚

2013-10-24 00:26:28 | 山口県の史跡関係

『中往還』の痕跡をたどって、西へ向かいます。

とは言え、車で走れる道しか通れませんので、旧国道筋をたどってみることにしました。
岩国市から周南市に入ったところで見つけたのがこれ。

道の脇に、6体のお地蔵さんと

屋根付きの小さな石仏が2体。

古い街道沿いには、道端にこういうものがあるものなんです。
ただ、ここより他には、それらしきものは発見できず。
確実な痕跡である、『やげん谷一里塚』を目指しましょう。

広くて走りやすい現国道376号線に戻り、中須の方向に向かいますと、国道脇に入口の案内標柱が立っています。

「ここより400m」とあり、アスファルト舗装の細い道が国道から分かれて山のほうに入っていくように見えますが・・・

100mも行かないうちに、行き止まり。
向きを変えることもできませんので、車で突っ込んでしまうと、入口までバックで戻ることになります。
車は国道から入ったすぐのあたりに、置いていったほうがいいでしょう。
通行止めのゲートから右手に伸びる野道が、一里塚へと至る道です。

ここにも、案内板がありますよ。
「これより300m先」と書いてありますが、実際に歩いてみた感じでは、そこまでなかったような気がしますね。

幅1mぐらいの、よく整備された道です。

この道が、そのまんま『中往還』なんだろうな。

『やげん谷一里塚』が見えてきました。

説明板の後ろにある、石の塊のようなものが、一里塚。
後方の丘の上にも、特徴的な岩があるけど、あれは関係ないのかな?

一里塚を上から見たところ。
直径2m、高さ1mほどの円筒形に、石を組上げてあります。
昔は、塚の上に松の木が植えてあったそうですよ。

説明板を見ると、周南市域には他に3つの一里塚が残っているみたいですね。
そのうち『飛与山』と『長谷』の一里塚は、『山代街道』のものでしょう。
『耕ヶ床』は、『中往還』のものでしょうが、後で調べてみても場所がわからないです。

どうでもいい事ですが・・・・・
看板の見出しと最後は「周南市」に書き換えられているけど、文中は「徳山市」のまんまだな。(^^;

高森から三里ということは、元々は旧周東町側に、2つ一里塚があったはずなんだけど・・・今は残ってないんだろうか?


さて、一里塚の横を通る『中往還』がどこに出るのか気になるところなんですが、どこまで歩かされるかわからないのに突っ込んで行く元気もない。
あきらめて車まで戻り、国道をさらに西に向かって走っていましたら

反対側の入口にも、看板がありました。

こっちからだと、1kmも歩くことになるんだな・・・。

歩いてみたいような、みたくないような・・・・。

(結局、歩かなかったけど)


御上使峠

2013-10-23 00:24:43 | 山口県の史跡関係

先日、『クズシ坂』の石畳道を見て以来、裏街道『中往還』のルートが気になってしょうがないのです。

高森宿→長野→樋余地→中須→須々万→大道理というようなルートらしいのですが、ネットはもちろん、図書館で調べても資料がなく、詳細がわからない。
とりあえず、『中往還』に関係しそうなポイントを選んで、道筋を探りがてら、散策してまいりました。

まずは、以前の記事に何度も出てきた『御上使峠』です。
旧周東町・長野から明神へ県道142号線でのぼっていく途中で、「←石ヶ明神」との標識で左折。

7~800m先、椎尾集落で、写真の標識のところで右折します。
この標識、古びていて、実に見にくい。
見落として、ずーっと先の、「石ヶ明神」集落まで行っちゃいました。

これは余談ですが、「石ヶ明神」の集落で見つけたバス停。

こんな山奥にまで、バスが来るんだ?と、驚いた次第。
しかも、看板がやたら新しい。

さすがに、時刻表を見ると、上り、下りが、一日一本ずつだな。

( ‥) ン?

いやいや、よく見ると、「運行日は火曜日です」と書いてある。
ってことは、週に一便のみなのか? 

ある意味、凄いなぁ。

 

・・・・・話を戻します。

『御上使峠』への道は、昭和50年代ぐらいまで国道376号線として使われていた道なのですが

道幅は狭く、また、今は使う人も少ないのか、かなり荒れています。

カープミラーのミラーが割れているのは、あたりまえ。

標識もカーブミラーも、根元から倒れちゃってますね。

つづら折れに峠を登っていく車道に対し、直線的に上る『中往還』がどこかで交差しているはず・・・と思い、注意して道を探してみたのですが、素人では判別がつきません。

これなんか、前後に神社やお堂があって、怪しいとは思うのだが・・・・。

峠の頂上近くになって、こういうのが道端にありました。
崩れかけた標柱に『日光石・月光石・・・・』と書かれています。
これなんかは、『中往還』に関係しそうなんだけどな。
何か云われがありそうな石ですが、こちらも、調べても何も出てきませんでした。

これが『御上使峠』。
峠であることを示すようなモノは、何もないです。

峠から先は、植林帯を抜けて明るい道になりますが、道幅は狭いので、路肩から伸びたススキで車体を擦りながら進む状態に・・・(>_<)

ここから約500mで、現国道にぶつかりました。
旧道はこの先を直進し、「ひよじトンネル」の上を越えて、樋余地の集落へと出ます。

苦労して走破した割に『中往還』の痕跡は、ほとんどわからなかったな・・・・(ーー;)


宇部市・桃山配水池の登録文化財

2013-10-19 23:09:36 | 近代遺産

宇部市小串・桃山町にある宇部市の水道施設には、国指定登録有形文化財に指定されている建造物が二つあります。
ちょうど、宇部まで行く機会があったので、寄ってみることにしました。

まずは、『桃山配水計量室』という建物。

車で急坂を登っていくと、突然、道のど真ん中に現れます。
大正13年に造られた、味のあるレンガ造りの八角形の建物。
八角形なのに、地元ではなぜか「六角堂」と呼ばれているそうな。

詳しい説明は、こちらの看板を読んでくださいませ。

建物を避けるように、向かって左側を車が、右側を歩行者が通るようになっています。
ですが、くねっと曲がっているうえに狭い。

車体を擦ってしまう車も多いのでしょう。
レンガが、かなり削れてしまっております。
文化財なのに・・・・いいのか?

裏側には、文化庁による登録文化財のプレートが貼ってありました。


『配水計量室』から、さらに山手のほうに進むと、突当たりのフェンスで囲まれた敷地の中に、もう一つの建造物があります。

コンクリート製の角柱のようなのが、もう一つの登録文化財、『旧桃山1号配水池監視廊入口』。
そして、奥のほうに見える宇宙船のようなものは、現在使われている『3号配水池』です。
上に展望塔が立っていて、事前に調べておいた情報によると、土日・祝日は一般開放されているとのこと。

でも、フェンスは閉められて鍵がかかってる?

フェンス沿いに歩き、案内板を見つけます。
ほら、「土曜・日曜・祝日は一般開放しています」と書いてあるじゃ・・・・な・・Σ( ̄Д ̄;)なぬぅっ!!

「土曜日」の字の上に「(第二・第四)」という文字が(こっそり)追加してあるーーっ!
今日は・・・・第三土曜日・・・。

とほほ・・・そりゃないぜ。

しょうがないので、遠くからフェンス越しに、外観だけ撮ってきました。
説明板のほうも読んでくださいませ。

展望塔、登りたかったな・・・。


中往還『クズシ坂』の石畳道

2013-10-17 21:47:43 | 山口県の史跡関係

先日の記事にも訂正を入れましたが、周東町上長野の道端にある石畳道は『クズシ坂』ではないと判明しました。

元々は、『淡海道』について調べていたときに、淡海和尚は他にも『クズシ坂』に石畳を敷いたという記述を見て、ワタシが勝手に『石畳坂』=『クズシ坂』と勘違いしたための間違い。
道が伸びている方向が『御上使峠』の方向と違うので、疑問に思って、周東町図書館に行って郷土資料を調べてみたところ、実は淡海和尚が手掛けた石畳道は、数か所残っているらしいのです。

とにかく、間違えがわかってしまったからには、そのまま放っておくのは気持ち悪い。
正しいものを探してみようと、再度現地に行き、目を皿のようにして探してみたところ、道端に小さな標柱を見つけました。

写真で見てわかるかな?
左側の石垣の先に立っている、小さな杭のようなヤツです。
場所は、このあいだの石畳坂から200mぐらい手前。

近寄って確認すると、「右 川越」「左 樋余地」と彫ってある。
樋余地の方向に進むなら、『御上使峠』に至る道、すなわち『中往還』である可能性が高いぞ。
でも、道はどっちだ?
標柱そのものは、昭和になって立てられたものらしいし、「左」を素直に受け取ると、国道2号線の方向なんだが・・・いくらなんでも、それはないだろ。

と、なると、小川沿いに棚田の間を抜けて登っていく、この細い野道かな?
半信半疑で、徒歩で上がってみます。

棚田の部分を抜け、植林された杉林の中に入った頃から

道に石を敷いたような形跡が出てまいります。

このあたりではまだ、確信は持てなかったのですが・・・

小川に架かる橋も、このあいだ見た道のように、石柱を並べて架けた頑丈なもの。
これは、あたりだったかな?

この辺まで来て、探していた石畳道、『クズシ坂』であろうと確信しました。
単に石を敷いてあるだけでなく、急坂を登りやすいように、石段状にしてありますね。

ここから先100mほどは、幅1mほどの石畳が状態良く残っています。
と、いうより、歴史的遺産ということで、役所なり地域の方なりが、定期的に落ち葉を掃いたり倒木を除去したりして、手入れをしているんだろうな。

それならば、入口に看板の一つでも立てておいてほしかった。
あれじゃ普通、気付かんぞ?

坂をのぼりつめたところで、短い折り返しが2つ続いて、小さな尾根を越えます。
このあたりも、石が敷いてあったっぽい。
はっきり地表に出ていない部分も含めて、石畳である区間は、全部で150m~200mぐらいか?
歴史的価値があるものなのに、埋もれてしまっているのは勿体ないな。

尾根を越えると道は平たんになり、竹林の中を抜けていきます。

途中にあった、石碑のようなもの。
表面が削れてしまったのかもしれませんが、文字らしきものは確認できませんでした。

林を抜け、むこうに車道が見えてきました。

車道にあがって、振り返ったところ。
小さな橋を渡って、道の左側からあがってきます。
表示は何もなし。
こちら側からは、絶対わからないな。

ちなみに、この車道は国道376号線の旧道。
見えている方向に200mほど進んで右折し、山へ登っていくと『御上使峠』です。

車道の反対側にも、道の痕跡を見つけましたが、完全なヤブ。
突っ込む勇気も体力もないので、このあたりで引き返しましょう。

急坂を降りていくのは辛いので、遠回りだけど、車道を歩いて帰ります。
下から登りはじめて、一周して戻ってくるまで、ゆっくり歩いて1時間弱でした。

車道を歩いて戻る途中に、落差4mほどの小ぶりな滝が、道から見えました。
それよりも、はるか下の谷底で数か所、轟音が聞こえます。
木々の隙間からちらっと姿が見えるのですが、少なくとも2ヶ所、それなりの規模の滝があるみたい。

いつか、そっちのほうも確認してみたいもんですが・・・・。