少し前になりますが、このあいだの日曜日に撮ったアサギマダラの写真です。
場所はまた、鹿野の清流通り。
羽根の後ろの花が、透けて見えるのがわかるかな?
この日は、3~40頭が飛び回っていました。
少し前になりますが、このあいだの日曜日に撮ったアサギマダラの写真です。
場所はまた、鹿野の清流通り。
羽根の後ろの花が、透けて見えるのがわかるかな?
この日は、3~40頭が飛び回っていました。
前回の記事で書いた『淡海和尚』ですが、別に「遺徳之碑」というのが建てられています。
下差川の交差点から国道2号線まで北上し、国道を越えてさらに100mほど、道の右手にあるのがこの碑。
半分、雑草に埋もれてしまってるな・・・・。
せっかくの碑なんだから、もうちょっと草取りしようよ・・・。
ツタが絡まっていて文字が読みにくいのですが、碑の文字は、安倍総理のお父様である、安倍晋太郎元外相が書かれたらしいですよ。
下の方に、和尚の功績などを記しているのであろうプレートもあるのですが、草に阻まれて近づけず、読めません。
ただ、『淡海和尚』という人。
道の改修をしたり、用水路を造ったりと、村民のために数々の土木工事をしているのです。
その痕跡の一つが、ここから1kmほど先の道脇に残っています。
この石畳の道、『クズシ坂』といい、淡海和尚が整備したものだそうです。
横にあった標柱を見ると、道路下にも、ゆかりの石橋があるみたい。
たしかに下に降りる道がありました。
むぅ・・・これのことか?
石の柱を3~4本、小川に架けただけのシンプルなもの。
苔むして、いい味は出てるが・・・。
小川の下流側にも道は続いてましたが、その先までは行きませんでした。
さて、この道はただの田舎道ではなく、江戸時代に山陽道の脇街道として使われた、『中往還』という道でした。
高森から小郡までの山中を抜ける街道で、城下の萩まで行くには、こちらが近道だったらしい。
このまま坂を登っていき、『御上使峠』を越えて、この前『早乙女塚』を見た、樋余地の集落に出るルートだったそうな。
-----≪10/16 追記・訂正≫-----
この石畳坂のことを、当初『クズシ坂』と書いたのですが、再度現地で探索した結果、別の場所で『クズシ坂』と思われる石畳道を発見いたしました。
「淡海和尚による石畳道」=「クズシ坂」と誤認していたためですが、文献を調べると、淡海和尚による石畳道は『クズシ坂』以外にも数か所残っていたのです。
よって、ここで紹介した石畳坂は、奥長野から明神の集落へ至る道のものであると、訂正させていただきます。
また、『中往還』に関してですが、『クズシ坂』から『御上使峠』を通る道の他に、「明神から梅の木を経て樋余地へ至る」と書かれている文献があります。
その場合、ここで紹介した道が『中往還』になるでしょう。
『クズシ坂』がある道のほうが、『中往還』である可能性が高いですが、昔の街道は、時代によってルートが違っていたりする場合もあります。
ここの道が『中往還』であることが否定できないので、本文そのものは訂正せず、追記の形をとらせていただきました。
あと、タイトルの部分からは『クズシ坂』の表示を消させていただきます。
-----------------------
石畳のところまで戻って、坂を登ってみましょう。
坂の上のほうは、石畳はなし。
50mほどで、スタート地点の車道が遠回りして上がってきたところに、ぶつかります。
この車道、国道376号線の旧道でして、『御上使峠』を通る道。
峠への方向とは違う気もしますが、坂は道を横切って先に続いていますので、そのまま進んでみましょう。
なんか標柱も立っています。
『右 川越近道』
『左 仝 木道』
『仝』という漢字は、『同』という漢字の別文字らしいが・・・意味がよくわからんなぁ。
とにかく坂をのぼっていくが、方向は、行きたいほうとは逆の、現国道のほう。
林の中に入りますが、この先、未舗装の林道にぶつかります。
『御上使峠』の方向に曲がってみましたが、しばらくして行き止まり。
逆方向にこれ以上のぼっても、明らかに行き先が違うので、あきらめて下りてきました。
と、なると、『中往還』って、さっきの石畳坂から先、どういうルートだったんだろ?
旧国道を、峠のほう向かって少し進んだところ。
大きな岩がある先が
ずっと前、ブログで紹介しましたが、国土地理院の地形図で滝マークがついていた場所です。
方向から考えると、『中往還』は坂の上で折り返して、この旧国道沿いと進むと見るのが、理にかなっているのかなぁ。
ただし、この滝(?)部分を横断していたとは考えにくい。
うーん・・・・。
いろいろ謎が残ってしまったな。
光市の中心部を流れる「島田川」を下流から遡っていきますと、旧熊毛町と旧周東町の境あたり、両側から山が迫った渓谷のようになっています。
この上流側、つまり玖珂盆地は、太古の昔、広大な湖でした。
この地点から流れ出す水が谷を削り、それにしたがって湖の水が抜けて、今のような地形になったわけです。
しかし、室町時代までは、削り残された固い岩盤でせき止められた水が残り、すぐ上流の差川地区のあたりは、まだ湖のままであったようです。
「白滝」という地名も残っていて、堰き止められていた湖水が落ちる、豪快な滝があったんでしょうね。
室町中期の頃から、水を堰き止めていた岩盤も崩れて上流側の水がひいていきます。
陸地化した土地に人が定着して、今の下差川の集落が形成されました。
そして、それまで山越えで大きく南に迂回していた『山陽道』も、下差川経由で中山峠を越え、呼坂へ出る道に変更されます。
邪魔な湖はなくなったものの、この島田川の渓谷部分は岩が多い急流で、船で下るのは無理。
また、両岸が険しくて、この区間は人馬の通行も困難でした。
熊毛勘場(旧藩時代の郡役場)がある小周防(現光市)や、河口の港へ物資を運ぶには、山越えで大回りするしかなかったのです。
ここからが本題。
江戸時代の文政の頃、三丘村広末の貞昌寺にいた客僧、淡海和尚は、自ら率先して鍬を取り、村民を励まし、島田川右岸の絶壁を切り崩して、約2kmの新道を完成させます。
新道の完成により、人々は最短距離で下流側に通行できるようになりました。
また、上流より運ばれてきた物資は、この区間は駄馬によって運ばれ、下流側の筏場で川船に積み替えられて、海まで輸送されるようになります。
これにより、奥地の経済に活気をもたらし、人々は大いに恩恵を受けることとなりました。
天保元年に完成したこの道は『淡海道』と呼ばれ、使われなくなった現在も残っているというのです。
てなわけで、見に行ってきました。
前置きが長くなってしまいましたが、まずは『淡海道』へ至る道順。
下流側は高速道路によって寸断されており、わかりにくいとのこと。
よって、上流の差川地区から入ります。
三丘側からだと、島田川を渡る橋の先、下差川の変則十字路を、高水(呼坂)方面へ左折。
この道は、昔の山陽道になります。
100mほどで、右手に石垣と石仏群が見えてきます。
ここは、宗泉寺跡。
その前で道が二俣に分かれていて、矢印のように、左の細い道に下っていきます。
道なりに150mほど進むと、行き止まり。
その手前に、少し広くなった場所がありますので、ここに車を停めさせてもらいましょう。
停まっている車の先、小さな矢印のところから、下っていく道に入ると・・・
民家に出ますが、庭には入らず、矢印のように進むと
田んぼの脇を通って、島田川の川沿いに出ます。
あとは、川に沿って下流側に進み
草ボウボウになったところで、少し尻込みしましたが、この状態なのは10mほど。
木々が茂るところまで行くと、道ははっきりします。
小さな川があり、そのすぐ先にあったのが、この石組。
複雑に入り組んで、ちょっと変わった形をしています。
道を管理する番所のようなものがあったのでしょうか?
その先、右手の斜面にあるのが『淡海和尚の碑』。
『淡海道』完成の翌年、天保2年に建てられた、和尚を讃える顕彰碑のようなものでしょうか。
一緒に並ぶ石仏群も、独特の雰囲気があって素敵。
さらに先に進みます。
道は、幅が1.5m~2mぐらい。
荷物を積んだ馬が通ることを想定して、道を造ったのでしょう。
山側を削り、谷側は石を積んで土台を組み、道幅を確保したようです。
ほぼ全行程にわたり、石組みが残っていました。
大きな岩が見えてきました。
『弁慶岩』というらしい。
岩の先、少し下に降りれましたので、下から道を見上げてみます。
岩と岩の間にも、道を支える石組み。
すぐ先に小さな沢があるのですが、ここも石を高く積んで道を平坦にし、水を抜く穴がつけてあります。
さらに先に進む。
時々、道の脇に石仏が並んでいたりするのですが。
地味な写真ばっかりだ・・・
高速の高架橋が見えてきたし、そろそろ帰ろうかな・・・・。
戻る途中、道端で見たもの。
直径10cmはあろうかという、ぶっとい蔓が、人間が結んだような形になっていました。
どうやったら、こんなになるんだ?
そろそろ、アサギマダラが飛来している時期じゃないかな?
と、思い立ち、周南市鹿野の『清流通り』に偵察に行ってきました。
いました。
今年、「初」アサギマダラです。
全部で4頭。
人を恐れない蝶なので、1m弱の距離から撮ることも可能。(*^^)
羽根の薄水色(いわゆる浅葱色)の部分は、半透明です。
反対側の羽根の模様が、透けて見えますね。
一頭だけ、羽根がボロボロになっていました。
何があったんだろ・・・。
最盛期になると、数十頭が舞う姿を見ることができます。
来週~再来週ぐらいが見頃になるでしょう。
≪おまけ≫
近くにある、二所山田神社の狛犬が面白かったので・・・。
顔も個性的ですが、胴体の省略具合がハンパじゃないな。(^^;)
『鶴の里』として知られる周南市八代から、国道376号線を東に向かって走り、岩国市との境を越えたところに、『樋余地』という集落があります。
国道から20mほど入ったところに、こんな碑がありました。
『早乙女塚』だそうです。
由来はこちらを読んでいただくとして・・・・。
この女性は、旦那さんの代わりに切られてしまったわけだな。
泥がついたぐらいで激怒すして刀を抜く侍もそうだし、張本人の旦那はどうなったのか疑問も残るし、なんだか、何重にも納得できない話ではあります。
実は似たような話は全国にあって、ちょっと調べただけでも、県内にいくつも『早乙女塚』が残っています。
萩市むつみ、防府市久兼、柳井市阿月、周南市中須、周南市久米・・・などなど。
少しずつ話の内容は違うのですが、要は、昔はこういう理不尽な事件が数多くあり、しかも泣き寝入りするしかなかったことの表れでしょう。
移転再建と書いてあるから、元は別の場所にあったのかな?
名前が彫られた立派な石は、移転の際に建てられたもので、側に立っているこの細い石が、元々の塚にあった碑なんでしょうね。
『早乙女塚』から奥のほう、正面に見えるのが『ひよじふれあい会館』。
ここは、廃校になった『樋余地小学校』跡です。
左側の古い建物が小学校の旧校舎みたいですが、屋根の形をよく見ると、元々の建物を半分に切り取っているみたい。
ですが、近寄って切られた部分を見ると、特別違和感はない。
廃校になる前に、すでに、ちょん切って使ってたんだろうな。
建物の左手の端に残っている、屋根つきの渡り廊下が、いい味を出していました。
『閉校記念碑』を見ると、昭和63年が閉校の年なのでしょうか。
今から25年も前なんだなぁ。
ところで・・・・。
ふと上を見ると、軒下に、どでかいスズメバチの巣があって、さかんに蜂が出入りしておりました。
危ないから、早く撤去したほうがいいっすよ~~~。
≪おまけ≫
同じ樋余地の集落。
国道沿いに、こんな看板が出ていました。
こちらが『やすらぎ館』なるものらしく、中も覗いてみたかったのですが・・・。
開けるのは土日のみで、しかも予約がいるらしい。
機会があれば、また行ってみよう。
『権現の瀧』へ向かう途中に
こんな標柱と石碑を見つけました。
場所は、同じく、山口市嘉川の西本郷地区になります。
『山上ヶ滝』という名前からすると、水が極端に少ないか、あるいは流れていないか・・・。
滝としては期待できないかもしれませし、そのために、どれだけ登るかわからない登山をするのも大変だ。
と、いうことで、行くかどうするか悩んだのですが、車から降りてチェックすると、石碑のほうに「これより380m」と彫ってあります。
「それぐらいなら・・・」と、行ってみることにしました。
登山道は、幅が2mぐらいあって、軽トラックぐらいなら上がって行けそう。(いや、実際上っているみたい)
歩いて行くのに危険はなさそうです。
この案内板が見えたら、残りあと150mぐらい。
この場所には、立派な鳥居もあります。
お堂が見えてきました。
どうやら、目的地に着いたようです。
石段を上がると、こんな風景。
石垣などが残っていて、昔は、立派な神社なりお寺なりがあったんでしょうね。
奥のほうに、巨大な岩壁と岩窟があります。
岩窟には、たくさんの石仏。
そして、上のほうを見上げると
いく筋もの水が滴り落ちている滝がありました。
広角で撮っているので寸詰まりに見えますが、高さは8mぐらいかな?
滝の前までは、急な石段があります。
ただし、石が崩れかけていますので、気をつけて。
正面から撮ってみました。
水量は少ないですが、完全に枯れることはなさそう。
垂直に落ちていますし、雨上がりに見ると、それなりの姿になるんじゃないでしょうか。
後で調べると、この場所、麓のほうにある『浄福寺』というお寺の「奥の院」という扱いなんだそうな。
『大瀧山』というのは、山の名前というより、この霊場を表す名前みたい。
毎年9月に、法要も行われているそうです。
滝だけでなく、周囲の岩窟や石仏、石垣などを含めて、「これぞ、パワースポット」というような場所でした。
でも、お寺なのに、なぜ鳥居が?
国土地理院の地図閲覧サービス「ウォッちず」を見ていたら、知らない所に滝マークが載っているのに気が付きました。
場所は、山口市嘉川の西本郷地区。
宇部市と山口市の境あたりにある山、平原岳の南東方向へ約1.8km。
「出葉」という集落から流れ出す、河内川という川に、マークがついています。
ネットでどんなに検索しても、該当するものにあたらないので、この目で確認するしかないだろうと思い、現地に行ってまいりました。
JR宇部線の「上嘉川駅」近く、嘉川小学校の付近から山のほうへ向かい、細い道を約3km。
道端に、こんな標柱があるのを発見します。
ほほぅ。
『権現の瀧』という名前のようだな。
(ちなみに、小郡上郷にも同じ名前の滝がありますが、これは別物です)
後で調べたのですが、この標柱は、「嘉川地域づくり協議会」が平成22年度より、地区の埋もれた文化財を発掘して、立てているものだそうです。
地図で見るかぎりは、滝はもうちょっと上流側のはずなんだけど、ここに入口でもあるのかな?
とりあえず、道も狭く車を停める場所もないので、一旦ここはスルー。
さらに車を進めると、左手の道の下に
鳥居を発見。
地図で見た滝マークの位置と合致するし、ここに間違いないだろっ!
しかし、ここも車を停めれるような所がないのです。
結果から言うと、さっきの標柱のところから100mほど先、道が左にカーブしているところに、かろうじて一台分ぐらいのスペースがあって、そこに車を停めるしかないだろうな。
ここから先は舗装もきれて、未舗装の道を延々と進まないと、車の向きを変える場所もありません。
ようやく戻ってきて、カーブのところに車を停め、まずは鳥居のところを目指しました。
すぐ次の右カーブのところに、丸い石があって、ここから谷に下りていきます。
これが、滝の上の全景。
赤瓦のお堂の右横が、滝の落ち口です。
川の対岸に道があるようなので、そっちに行ってみましょう。
むぅ・・・。
滝そのものの姿が、よく見えない・・・。
藪越しに写真は撮ってみたものの、何がなんかわからんな。
落差10mほどの、形のいい直瀑のようではあるんだが・・・。
滝の前に出られないものか・・・と、さらに進むも、この道は細い用水路の管理のためのものらしく、どんどん違う方向へ行ってしまう。
下に降りれそうな場所も見つからず、お堂のところまで戻ってきます。
お堂の裏手の崖からはどうだろ?
と、探ってみるものの、踏み跡は残っていない。
やっぱり、最初の標柱のところしかないだろなぁ。
と考えて、車道まで上がり、てくてく歩いて標柱まで戻ってきましたが・・・。
荒れ果てた棚田跡を、ヤブ漕ぎしながら近づくしかないみたい・・・・。
写真中央あたりが、滝が落ちている場所です。
足元もよく見えないし、せめてマムシの危険がない季節でないと、怖いなぁ。
標柱のところから、滝の上のほうが、ちょっとだけ見えました。
つまりは、滝まで道はないから、ここから遠目に眺めろということか?
立派そうな滝だけに、前まで行けないのは悔しいのぉ・・・。
望遠レンズで、できる限りアップにしてみました。
手前の竹ヤブさえなければ、全体像が見えそうなんですが・・・・。
せっかく新しい滝を見つけたのに、中途半端なレポで申し訳ないです。
滝へ至る道は、新山口駅前からだと、旧国道2号線(県道355号線)を下関方面に約3km。
嘉川小学校の近くに、『明正寺』というお寺がありますので、このすぐ先の細い道へ右折します。
あとは、道なりに山のほうへ、約3km進むと・・・。
道が大きな家に突き当たり、家を避けるように右側から回り込むようになっています。(犬が吠えます)
そのすぐ先にまず、「出葉平家落人の里」という標柱があり、さらにその50mぐらい先に、滝の標柱が立っています。
島からの帰りの船が出るのは、夕方の5時10分。
時間はたっぷりあるので、山越えの前にちょっと、海水浴場の近くにある神社に寄ってみます。
きれいに草取りがされている境内を通って
こちらが拝殿です。
かなりの規模の立派な神社で、港の近くにあった小さな社とは大違いですね。
人が住む集落から、かなり離れていますが、きっと島を代表する氏神様なんでしょう。
ですが、ここ、むちゃくちゃヤブ蚊が多くて、落ち着いて写真撮ることも、ままならない。
「こりゃたまらん」と、走って逃げだし、風通しのいいところで、体の止まるヤツを30匹ぐらい叩き潰したのですが、その後、山を越えるまでずっと、数匹がついてきました。
参った・・・・。
さて、また1時間かけて山を越え、島の中央の砂州部分まで戻ってきました。
ここには家も耕作地もなく、広い平地部分が、見渡す限りの荒れ野原になっています。
(後で調べたら、奥のほうにヘリポートがあったみたい)
昔は、和牛を飼育する牧場があったみたいで、赤く錆びた鉄骨だけになった建物が、草に埋もれて残っていました。
牛舎の跡かなんかでしょうか?
ちょっと高くなった土手の部分には、ずらっと石仏が並んでいました。
島の東側の海岸まで出て、堤防の陰でちょっと一休み。
遠くには、うっすら、四国の山並みが見えます。
さすがに疲れたので、波の音を聞きながら、30分ほど、うとうとしていました。
休憩後、港まで戻ってきましたが、船の時間まであと1時間もある。
その時間を使って、集落の中を歩いてみましょう。
大きな石垣の上に、立派なお屋敷。
一軒一軒が、かなり大きなお家です。
石垣の間を縫うような、細い道。
かなりの高台まで、石垣は続きますが、串の歯が抜けたように、草ボウボウになった空き地も目立ちます。
建物は残っていても、人が住んでない家も多い。
お寺も、住職さんが島にいなくなったのか、庭が荒れ始めていました。
高台から港の方向を見たところです。
景色はきれいなんだけど、その手前に写っている土地は、荒れ果ててしまっています。
美しい集落も、このまま消えていく運命なのでしょうか・・・。
港に戻る途中、道端に大きなシュロの木が2本。
幹に寄生して生えた木(ハゼの木かな?)の赤い葉っぱが、飾り付けたみたいで、少しだけ華やかさを演出していました。
5時すぎに、帰りの船がやってきて、これで島とはお別れ。
いやいや・・・一日中歩きまわって、疲れた。
今度来るときは、海水浴場に船が寄る、夏にしよう。(;^_^A
八島には、これといった観光名所などないのですが、唯一、島の北部に海水浴場があって、そこは風景もいいらしい。
船着き場もあって、夏場の7・8月のみ、連絡船が立ち寄るようになっています。
ですが、今の時期にそこに行くには、歩いて山越えするしかありません。
港から南側、つまり集落のほうには、車が走れるような道はないのですが、北側には立派な車道がのびていました。
向こう側に見える山を、今から越えていくわけですが、道は心配なさそうだな。
集落の側を振り返って見たところ。
海辺は砂浜ではなく、こぶし大の丸石が積み重なったような浜です。
波が寄せるたび、石どうしがぶつかって、「カチカチ・・・」というような音がしていました。
島をつなぐ砂州部分を抜け、山へ上がっていく坂をのぼります。
標高差は約120m。
道は荒れていませんでしたが、暑さを避けて木蔭に寄ると、クモの巣にひっかかってしまうのに参りました。
1時間かけて山を越え、ようやく目的地が見えてきましたよ。
まず目に入ってきたのは、島から砂州でつながっている、『与崎』と呼ばれる岩場。
いくつものピークを持つ細長い岩場で、地図で見ると、長さは約1kmもあるみたい。
その昔、壇ノ浦の合戦で入水した安徳天皇が、赤間関に向かう途中、八島に立ち寄った際に、「よい崎」と褒め称えたことから、「与崎」と呼ばれるようになったそうです。
砂州は、幅3~40mで、海水浴場になっているのはこの反対側。
砂浜というにはやや粗めの、小石が積み重なったような浜ですが、水はとっても綺麗ですね。
浜から見て『与崎』と反対側にある堤防の先に、夏場に連絡船がとまる船着き場。
砂州の付け根部分は、かなり広い平地になっています。
元はキャンプ場があったらしいのですが、2009年に廃止となりました。
『古浦』という地名もついているようですし、元々は集落があって人が住んでいたのではないでしょうか。
いまは広大な荒れ地になっていて、高台にある神社の鳥居と常夜灯だけが目立ちます。
電柱の根元に石碑・・・と思ったら、これお墓じゃないの?
なんで、ポツンと一つだけあるんだろ?
堤防の上を通って、船着き場のほうに行ってみましょう。
船着き場にある岩場に、いい具合な日陰ができていたので、ここでちょっと休憩しましょう。
1時間半、歩きっぱなしで、汗びっしょりになっていました。
岩陰に座ると、海風が吹いて、気持ちいい。
ここからの景色も最高。(*^^)
てな感じで、靴まで脱いでリラックスしていたのですが、とある事に気づく・・・。
これって、背後の岩が崩れて、落ちてきたんじゃないの?
こんなのに直撃されたらたまらんので、あわてて陰から逃げだしました。
よく見ると、岩場には小さな祠もありました。
神聖な岩なのかもしれないのに、お尻つけてゴメンナサイ。(罰があたらんでよかった・・・)
誰もいないところで、素晴らしい景色を一人占め。
いやいや、1時間以上かけて歩いて来た甲斐があったな。
名残り惜しいけれども、キリがないので、そろそろ港のほうへ戻りましょう。
『八島』、もうちょっと続きマス。
このあいだ、山口県の東の端、『情島』に行ってきたので、今回は山口県の南の端、上関町の『八島』に行ってみることにしました。
上関町の室津港を、10時に出る定期船に乗ります。
これまた、漁船のような小さな船ですな。
上関大橋の下をくぐって外洋に出ると、ここから『八島』まで、約30分の船旅。
結構揺れるな・・・と思ったら、並行して走っていた漁船の、航跡で出来た波にあおられていたみたい。
漁船の向こうに見えるのは、『平群島』のようです。
島の西側にある、八島港に到着しました。
さすがに水が綺麗だな。
ここで、『八島』についてご紹介。
上関港から南に12kmの沖、瀬戸内海に浮かぶ、山口県最南端の離島。
人口は37人(平成25年4月現在)。
人が住む集落や港がある南側の島と、それよりやや小さめの北側の島、屏風状に岩が並ぶ『与崎』の3つのパーツからなり、それぞれが砂州でつながって、南北に長く伸びる形状になっています。
つながった一つの島だけれども、角度によって、いくつもの島が重なっているように見えることから、『八島』という名前がついたのだとか。
最南端を目指してきたわけですが、島の南側は高い崖になっていて、陸から近付くのは無理。
地図上では、集落の裏手にある高い山の、山頂近くを通る林道があって、島の南側まで行けるようなのですが・・・。
調べてみると、長い事使われておらず、道とはわからないぐらい荒れているらしい。
そんなところに入り込んで、山の中で迷ったりした日にゃ、確実に遭難です。
なので、そっちの道はパス。
集落の中を抜け、海岸沿いに、行けるところまで南に進み、最南端ということにしましょう。
船着き場のすぐ近くには、小さな神社。
島で唯一の商店?
右側の新しいのは、診療所と公民館を兼ねた建物。
左側の小さい建物には、郵便局があります。
診療所のお医者さんや、郵便局の職員さんは、本土から船で通って来るらしい。
と、いうか、ワタシが乗ってきたのと同じ船に、乗ってらっしゃいましたね。(^^;
近くにあった半鐘。
もの凄く年期が入ったモノでしたが、柱はえらく新しかった。
小学校跡です。
それとわかる遺物は、創立100周年の記念碑だけ。
敷地内にある、真新しい物体は、放射能を測定する「モニタリングポスト」でした。
ここは、愛媛県の伊方原発の、半径30km圏内に入っているのです。
国の指示で、県が今年になって設置したらしい。
小学校跡の先には大きな墓地があり、その中を抜けて海岸沿いへ。
細い道が南のほうへ続いていますが・・・
歩いて行けるのも、ここが限界。
山側から雑草が浸食してきていて、これ以上は進めません。
よって、この場所を、(歩いて行ける)山口県の南端とさせていただきます。
さて、せっかくやって来たのですから、これで帰っては勿体ない。
今度は島の北側を目指します。
・・・・長くなるので、続きは次回に。 m(_ _"m)ペコリ