オ気楽ナ・・・毎日

休日のドライブや旅先で見つけたモノを紹介しています。
主に、山口県内。たいして珍しいものはないかも・・・

長登銅山跡

2014-06-02 22:34:00 | 山口県の史跡関係

秋吉台の近くにあって、存在は知っていたものの、なんとなく敬遠していた『長登銅山跡』。
たまたま前を通る機会があったので、ちょっと寄ってみました。

7~8世紀頃から採掘が始まり1960年の閉山まで、約1200年もの間、断続的に操業が続けられた歴史ある銅山。
ですが、本格的に発掘調査が始まったのは、平成になってからだそうです。
遺跡がある「大切谷」(上の写真の奥のほうです)は、長年の操業で出た精錬屑(スラグ)が数十メートルの厚さで堆積しており、現在までに調査が終わったのは全体の1~2%程度なんだとか。
これからの調査で、まだまだ新しい発見があるかもしれません。

これまでの調査で出土した木簡や土器、精錬に使用した道具などの一部が展示してある『長登銅山文化交流館』。
2009年オープンのまだ新しい施設で、入館料は300円だったかな?
中に入るとまず、銅山の歴史をまとめたビデオを、有無を言わさず見せられます(笑)

ぜひ見たかったのは、これ。
10年ぐらい前に見たNHKの番組で、奈良の大仏を造った方法を忠実に再現して、1/30のミニチュア大仏を制作する・・・というのがあったのです。
出来あがったミニ大仏(変な表現)は、当時の美東町に寄贈され、現在はここに展示してあるのです。
奈良の大仏も完成当初は金箔が貼ってあったので、まぁこんな感じではあったんでしょうが、こうやって見ると何か毒々しい色だな。

このミニ大仏もモチーフになったのか、長登銅山のゆるキャラ「こぶっちゃん」。
今年の秋開かれる「東大寺サミット」に向けて作られたそうですが・・・なんだかなぁ~。

館内には、説明板と共に大量の出土品がところ狭しと並んでおりました。
真面目に見ていくと、結構な時間がかかるかも。

さて、外に出てまず向かったのは、交流館の向かいの山にある「花の山公園」。
明治時代の精錬所跡です。

立て札の後ろあたりが、溶鉱炉跡。
わずかに、レンガ塀や土台が残っていますね。

並んでいるレンガの土台の上には、送風機があった模様。
明治期の精錬所ですが、西洋式の精錬方法ではなく、日本固有の吹床精錬法が使われていたそうです。

坑道の入口もありましたが、当然、立ち入り禁止。

溶鉱炉跡に近いところにある石垣は、下のほうが青い色をしていました。
銅が錆びた、緑青の色でしょうかね。

広場のあちこちで見られる、捨てられた精錬屑(スラグ)。
砲弾の頭のような形をしています。
これを砕いたものが公園全体に敷きつめてあり・・・というか、ここの土台そのものなのかな?

キラキラと玉虫色に光る石が、たくさんありました。
銅を採ったあとに残った金属でしょうけど、成分は何なんだろう?
これを使って、別の金属を精製するのは無理なんかな?

奥の斜面には、煙道の入り口と

その上のほうに、煙道そのものも残っていました。
煙道の表面をよく見ると、金属が溶けたような跡がありますね。
実は、スラグで作ったレンガを利用してあるんです。

日曜日だというのに、ワタシの他に誰も来ませんでしたが、何気に内容が濃かったな。
この「花の山公園」、廃墟っぽい雰囲気があって、気に入りました。
また、ちょうど草刈りをされた直後であったらしく、細かいところまで見れてよかったです。

最後に、車で大切谷の奥まで行ってみました。
行き止まりの場所に、車が数台停められる広場がありまして、ここから200mほど斜面を登っていくと、古代に銅を採掘した穴を見れるらしい。

時間もあまりなかったし、ただの穴を見てもしょうがないな・・・と思い、ここで退散しました。
ま、また時間があったら寄ってみよう。


亀尾川関所跡

2014-01-09 22:48:46 | 山口県の史跡関係

前回も書いた、「山代街道」の安芸国境にあった『亀尾川関所跡』。

岩国市美和町と広島県廿日市市佐伯をむすぶ、県道2号線沿いに入口の標柱が立っていました。
この時は広島県側から行ったのですが、県境から500mほど山口県側の、小さな橋を渡ったところです。
『中ノ川山一里塚』からは東方に5kmぐらいの距離でしょうか。

道沿いの空き地に車を停め、幅1mほどの野道に入っていきます。
これが、そのまんま「山代街道」だったんだろうな。

小さな橋の先に、小さな祠と古風な構えの門があるお屋敷がありました。
その先の道は少し怪しげだったので、山裾に見える道のほうに、斜めに抜けると

すぐに、関所跡を示す標柱が立っていました。

県道からここまで、100mぐらい。

案内板などはなく、説明は標柱に書かれたこれだけ・・・。
標柱が立っている山裾の道が「山代街道」だったのかと思いきや、さっきのお屋敷前の怪しい道が街道だったんだな。

この田んぼが、関所の跡らしい。
と、言われても、な~んにもイメージが湧かないんだが・・・(ーー;)

で、田んぼの北側にある畔道が、旧街道。
道幅は50cmぐらいの、とっても細い道。

両側に垣根があるのは、街道があったことを示すために木を植えたのか?
ただ、手入れがされていないので、余計に歩きづらくなってる。

いちおう、街道跡を通って、お屋敷前まで戻ってきました。
ちなみに、このお屋敷の御先祖は、地元在住の藩士だったそうです。
関所のお役人だったのかな?

実はここ、『中ノ川山一里塚』よりかなり前に訪問しております。
ですが、あまりに画像が地味なので、セットにして記事にしてみました。

関所があった当時の、建物の礎石でも残っていればまた、当時の面影を感じることもできるんでしょうがねぇ。
せめて、解説を書いた案内板を立てるぐらい、できないものなのかな?


中ノ川山一里塚

2014-01-06 20:34:30 | 山口県の史跡関係

江戸時代の長州藩にとって重要であった街道の一つに、「山代街道」という道がありました。
萩より、福栄、阿東、鹿野、錦、本郷と山間部を通り、美和の亀尾川というところに関所があって、安芸国へ抜けるようになっています。

「山代街道」沿いには、当時の一里塚がいくつか残っているのですが、旧本郷村と旧美和町の境にある「引地峠」の近くに、「中ノ川山一里塚」というのがありました。

旧本郷村の中心部より、本郷川沿いに県道134号線を走ります。
途中、小さな水力発電所があるのですが、「山代街道」はこの辺りから「引地峠」へ直登していくらしい。
ただし、標高差は300m近くありますから、歩いて登るのは相当な体力がいるでしょうね。
県道のほうは、もう少し本郷川を遡ってから川を渡り、8kmほど迂回してから「引地峠」のやや北側へ出てきます。

県道で坂を登りきって、釜ヶ原の集落に入る少し手前に、右後方へ折り返すように伸びる林道があります。
写真は反対側から撮っていますので、右側の道が県道134号線、左側のが林道。
入口に白い標柱が立っていますが、注意していないと見えにくいかも。

未舗装の林道ですが、道は荒れてなく、注意して走れば危険はないでしょう。

500mほど進むと、道の右側に一里塚への入口がありますので、車を停めて、ここからは歩き。

幅1mほどの山道は、昔の「山代街道」そのものなのでしょうね。

100mも歩くと、一里塚が見えてきました。

県指定の史跡だったんだな。
と、いうか、そこの部分だけ新しいプレートをはめ込んであるから、最近になって指定されたのかな?

いちおう、説明板もご覧くださいませ。

この先にも「引地峠」に向かって道が伸びているのですが、なんとこの先には処刑場跡があるのですよ。
そこも史跡として石碑や説明板、あと「太刀洗いの池」などという恐ろしげなものがあるそうなのですが・・・・。
すでに暗くなりかけている時刻でしたし、さすがに処刑場まで行くのは気持ちわるい。

お化けに襲われないように、逃げるように帰ってきました。(>.<)

車を停めたところから道の反対側を見ると、山代街道らしきものが続いていましたよ。
この先をたどると亀尾川の関所跡へと至るわけですが、それはまた別の日に見てきましたので、次回に。(*_ _)


若山城址

2013-12-15 23:48:41 | 山口県の史跡関係

国道2号線を防府方面から周南市中心部に向かっていますと

このような標識が目につきます。

また、ずいぶん看板を立てたものですが・・・。
ここから曲がると、室町時代の守護大名、大内氏の重臣である、陶氏の居城『富田若山城』址に行けるらしい。
ま、居城といっても、普段住んでいた屋敷は少し離れていて、今の永源山近くにあったらしいですが・・・。

ちなみに、国道の反対側の車線からは曲がれませんのでご注意を。

何はともあれ、城址まで行ってみましょう。

細いけれどもしっかりと舗装された道。
道沿いには、黒塗りの板に白い文字で俳句なんかが書かれたものが、やたらぶら下げてあったな。
桜の木がたくさんあったので、春は花見に訪れる人も多いんじゃないでしょうか。

車で2kmぐらい上っていきましたら、展望の開けた広場のような場所に到着しました。

城の見取り図で確認すると、ここは城の「三の丸」であったらしい。

なかなかの景色ですが、この日はあいにくの天気で、少し霞んじゃってるな。

見取り図の看板があった場所からは、山頂の「本丸」へと続く遊歩道が伸びています。

よく整備された道ですが、だんだん勾配がきつくなり

息絶え絶えになりつつ、石の鳥居をくぐった先が「本丸」跡。

意外に狭く、小ぢんまりとしたものでした。
普通の家2~3軒ぶんぐらいの広さかな?
中央部分に、小さな祠がありました。

さきほどの「三の丸」よりも、さらに展望はよろしいですな。

ここで、陶氏と若山城について簡単に説明を。

陶氏は、大内氏の一族で、代々周防守護代職をまかされた重臣でした。
よく知られているのが、主君である「大内義隆」を謀反(大寧寺の変)によって自害させた「陶晴賢」。
その後、「義隆」の養子である「大内晴英」を当主として擁立し、大内氏の実権を握りますが、「毛利元就」との戦いに敗れて滅亡します。

主君に謀反を働いたということで、悪人とイメージしてしまいがちですが・・・。
それを言ったら、戦国期の大名のほとんどは、主君を滅ぼして成りあがっているわけで、「陶晴賢」だけが特別なわけではりません。
領内の政(まつりごと)をおろそかにして学芸や茶会に没頭する主君を追いだすことは、ある意味では正義だったわけです。
実は「毛利元就」もこの謀反には手を貸していたりするのですね。

「若山城」は、石見国の吉見氏との戦いに備えて、「晴賢」の2代前の当主「陶弘護」によって築城されたと推測されているとのこと。
その後「晴賢」が大規模な改修を加えて、この地で謀反の挙兵を行います。
「晴賢」が厳島の戦いで毛利軍に敗れて自害した後、一族が守っていた「若山城」も攻め落とされて、廃城となりました。

北側斜面には「畝状空掘群(竪堀)」なるものがあるそうなので、ちょっと北側に降りてみます。

説明を読んで、理屈がわかるような・・・わからないような・・・?

たぶん、この溝がそうなんだろうな・・・たぶん。


再び頂上に戻って、うろうろしてたら

こんな碑を見つけました。
「徳山要港境域標」と書いてあります。

裏には、「海軍省」の文字。
戦前、徳山港が軍港として使われていた頃の標識らしい。
ひょっとして、この場所に監視所のようなものがあったのかもしれませんね。


須賀社の「馬乗り地蔵」

2013-11-06 23:32:48 | 山口県の史跡関係

錦川沿いの国道187号線から、本郷川沿いの県道69号線に曲がり、羅漢山のほうに向かっておりましたら、途中でこんな看板を見つけました。

場所は、岩国市本郷町波野。
新道と旧道が交わるところに看板があります。
面白そうなので、ちょっと寄り道しましょう。

道と川に挟まれた小さな丘に、大きな木が密集していて、『須賀社』はすぐにわかりました。

さっそく石段を登って、お堂の中のお地蔵さまを拝もうと・・・・あれぇ?
中はからっぽ?

お堂の裏手に回ってみると、一段高いところに、もっと小ぢんまりした祠。
これが『須賀社』でしょうね。

さらに高い場所に、看板に書いてあった『勝軍地蔵さま』がいらっしゃいました。
「馬に乗っている」と書いてあったから、騎乗姿をイメージしてたんだが

馬、息絶え絶え・・・。

ど、動物虐待じゃーーーっ!! (x_x) ☆\( ̄ ̄*)バシッ

すぐ横の説明板には「横たわった馬」と書いてあるが、力づくでねじふせて尻に敷いているようにしか見えんよなぁ・・・

何にしろ、とっても珍しいお地蔵様でございました。

『須賀社』がある丘の下から、いい水音が聞こえてきたので、川まで降りてみました。
落差1mほどの小滝と、渕と、沈下橋があります。

水しぶきをあげて複雑に絡みつつ流れていて、面白かったですよ。

手持ちスローシャッターに挑戦。
ちょっと、無理があったかな・・・(;^_^A アセアセ・・・


沼城址

2013-10-25 00:41:44 | 山口県の史跡関係

『やげん谷一里塚』から、さらに西へ。
『中往還』が通っていたルートを探してみるものの、やっぱりこういうのって、案内板でも出てない限り、素人では全くわからないな。
そのまま、須々万まで出てしまいました。

須々万は、交通の要衝として古くから開けていた集落。
ここには戦国時代、『沼城』という城がありました。

『保福寺』というお寺の裏にある、小さな丘が、その『沼城』の跡。
城主の菩提寺が、このお寺なのだそうです。
お寺の前の道は、おそらく『中往還』であろうと思うのですが・・・・。

ここは、この地の小学校の発祥の地でもあるそうな。
「須々万」という文字は、昔は「煤間」と書いたのだろうか?
現在は「沼城小学校」という名前で、ここからすぐ南に存在しています。

山門が閉まっていてお寺の境内には入れませんでしたが、門の外にもちょっと気になるものが。
「延命水かけ地蔵」さんの前の水盤。

普通は龍が水を吐いていたりするんですが、これは鳳凰?
なかなか味のある造形ですな。

大黒堂の前には、大理石の獅子が2体。
結構なお値段がするんだろうなぁ(←下衆の勘ぐり)

と、思ったら、横のほうに、木枠の梱包のまま放置されている、同じく大理石製の大仏さま。
買ったはいいものの、置き場所がないの?
もったいないですよ~。


少々脱線しましたが、『沼城』のことです。

説明板を読んでいただくといいのですが、戦国時代、毛利元就が防長制圧に乗り出した時の、最大の激戦地であったとされています。
標高が十数メートルの小さな丘にある城ですが、三方を沼地に囲まれて、攻めにくい城であったようです。

裏の城址に行くには、お寺の中から道があるみたいですが、駐車場脇から車道を上がっていくと

こちらにも入口がありました。
ただし、丘の頂上は平らに削られて老人福祉施設が建っており、城を確認できるような遺構は残っていないらしい。

山腹につけられた小路に沿って、ずらっと石仏が並んでいます。
数えていて、途中でわからなくなっちゃいましたが、約130体ほど。

進んでいくとまた、城についての説明板があり、その脇に

『沼城址』と彫られた石柱と、『沼城主の墓』がありました。

さらに道を進むと丘の上に出ますが、今はこんな状態。
造成するときに、丘の上のあちこちにあった石仏を集めて、山腹の道に並べたんだろうな。

毛利元就軍との戦いのときは、1500人とも3000人ともいわれる人が籠城したらしいから、城域はそれなりの規模があったと思われる。
その部分がごっそり削られているのは、ちょっと勿体ない気がするなぁ。

眼下に見える田んぼや住宅地が、当時は沼地だったのでしょう。
その昔、激戦があったことなんて想像もつかない、のどかな風景が広がっていました。

 

余談ですが・・・・。

『保福寺』の駐車場のところから見えたこれ。

墓石やら石仏やらを積み重ねた、塚のようなものがあったんです。
これは、いったい何だったんだろう・・・・。


やげん谷一里塚

2013-10-24 00:26:28 | 山口県の史跡関係

『中往還』の痕跡をたどって、西へ向かいます。

とは言え、車で走れる道しか通れませんので、旧国道筋をたどってみることにしました。
岩国市から周南市に入ったところで見つけたのがこれ。

道の脇に、6体のお地蔵さんと

屋根付きの小さな石仏が2体。

古い街道沿いには、道端にこういうものがあるものなんです。
ただ、ここより他には、それらしきものは発見できず。
確実な痕跡である、『やげん谷一里塚』を目指しましょう。

広くて走りやすい現国道376号線に戻り、中須の方向に向かいますと、国道脇に入口の案内標柱が立っています。

「ここより400m」とあり、アスファルト舗装の細い道が国道から分かれて山のほうに入っていくように見えますが・・・

100mも行かないうちに、行き止まり。
向きを変えることもできませんので、車で突っ込んでしまうと、入口までバックで戻ることになります。
車は国道から入ったすぐのあたりに、置いていったほうがいいでしょう。
通行止めのゲートから右手に伸びる野道が、一里塚へと至る道です。

ここにも、案内板がありますよ。
「これより300m先」と書いてありますが、実際に歩いてみた感じでは、そこまでなかったような気がしますね。

幅1mぐらいの、よく整備された道です。

この道が、そのまんま『中往還』なんだろうな。

『やげん谷一里塚』が見えてきました。

説明板の後ろにある、石の塊のようなものが、一里塚。
後方の丘の上にも、特徴的な岩があるけど、あれは関係ないのかな?

一里塚を上から見たところ。
直径2m、高さ1mほどの円筒形に、石を組上げてあります。
昔は、塚の上に松の木が植えてあったそうですよ。

説明板を見ると、周南市域には他に3つの一里塚が残っているみたいですね。
そのうち『飛与山』と『長谷』の一里塚は、『山代街道』のものでしょう。
『耕ヶ床』は、『中往還』のものでしょうが、後で調べてみても場所がわからないです。

どうでもいい事ですが・・・・・
看板の見出しと最後は「周南市」に書き換えられているけど、文中は「徳山市」のまんまだな。(^^;

高森から三里ということは、元々は旧周東町側に、2つ一里塚があったはずなんだけど・・・今は残ってないんだろうか?


さて、一里塚の横を通る『中往還』がどこに出るのか気になるところなんですが、どこまで歩かされるかわからないのに突っ込んで行く元気もない。
あきらめて車まで戻り、国道をさらに西に向かって走っていましたら

反対側の入口にも、看板がありました。

こっちからだと、1kmも歩くことになるんだな・・・。

歩いてみたいような、みたくないような・・・・。

(結局、歩かなかったけど)


御上使峠

2013-10-23 00:24:43 | 山口県の史跡関係

先日、『クズシ坂』の石畳道を見て以来、裏街道『中往還』のルートが気になってしょうがないのです。

高森宿→長野→樋余地→中須→須々万→大道理というようなルートらしいのですが、ネットはもちろん、図書館で調べても資料がなく、詳細がわからない。
とりあえず、『中往還』に関係しそうなポイントを選んで、道筋を探りがてら、散策してまいりました。

まずは、以前の記事に何度も出てきた『御上使峠』です。
旧周東町・長野から明神へ県道142号線でのぼっていく途中で、「←石ヶ明神」との標識で左折。

7~800m先、椎尾集落で、写真の標識のところで右折します。
この標識、古びていて、実に見にくい。
見落として、ずーっと先の、「石ヶ明神」集落まで行っちゃいました。

これは余談ですが、「石ヶ明神」の集落で見つけたバス停。

こんな山奥にまで、バスが来るんだ?と、驚いた次第。
しかも、看板がやたら新しい。

さすがに、時刻表を見ると、上り、下りが、一日一本ずつだな。

( ‥) ン?

いやいや、よく見ると、「運行日は火曜日です」と書いてある。
ってことは、週に一便のみなのか? 

ある意味、凄いなぁ。

 

・・・・・話を戻します。

『御上使峠』への道は、昭和50年代ぐらいまで国道376号線として使われていた道なのですが

道幅は狭く、また、今は使う人も少ないのか、かなり荒れています。

カープミラーのミラーが割れているのは、あたりまえ。

標識もカーブミラーも、根元から倒れちゃってますね。

つづら折れに峠を登っていく車道に対し、直線的に上る『中往還』がどこかで交差しているはず・・・と思い、注意して道を探してみたのですが、素人では判別がつきません。

これなんか、前後に神社やお堂があって、怪しいとは思うのだが・・・・。

峠の頂上近くになって、こういうのが道端にありました。
崩れかけた標柱に『日光石・月光石・・・・』と書かれています。
これなんかは、『中往還』に関係しそうなんだけどな。
何か云われがありそうな石ですが、こちらも、調べても何も出てきませんでした。

これが『御上使峠』。
峠であることを示すようなモノは、何もないです。

峠から先は、植林帯を抜けて明るい道になりますが、道幅は狭いので、路肩から伸びたススキで車体を擦りながら進む状態に・・・(>_<)

ここから約500mで、現国道にぶつかりました。
旧道はこの先を直進し、「ひよじトンネル」の上を越えて、樋余地の集落へと出ます。

苦労して走破した割に『中往還』の痕跡は、ほとんどわからなかったな・・・・(ーー;)


中往還『クズシ坂』の石畳道

2013-10-17 21:47:43 | 山口県の史跡関係

先日の記事にも訂正を入れましたが、周東町上長野の道端にある石畳道は『クズシ坂』ではないと判明しました。

元々は、『淡海道』について調べていたときに、淡海和尚は他にも『クズシ坂』に石畳を敷いたという記述を見て、ワタシが勝手に『石畳坂』=『クズシ坂』と勘違いしたための間違い。
道が伸びている方向が『御上使峠』の方向と違うので、疑問に思って、周東町図書館に行って郷土資料を調べてみたところ、実は淡海和尚が手掛けた石畳道は、数か所残っているらしいのです。

とにかく、間違えがわかってしまったからには、そのまま放っておくのは気持ち悪い。
正しいものを探してみようと、再度現地に行き、目を皿のようにして探してみたところ、道端に小さな標柱を見つけました。

写真で見てわかるかな?
左側の石垣の先に立っている、小さな杭のようなヤツです。
場所は、このあいだの石畳坂から200mぐらい手前。

近寄って確認すると、「右 川越」「左 樋余地」と彫ってある。
樋余地の方向に進むなら、『御上使峠』に至る道、すなわち『中往還』である可能性が高いぞ。
でも、道はどっちだ?
標柱そのものは、昭和になって立てられたものらしいし、「左」を素直に受け取ると、国道2号線の方向なんだが・・・いくらなんでも、それはないだろ。

と、なると、小川沿いに棚田の間を抜けて登っていく、この細い野道かな?
半信半疑で、徒歩で上がってみます。

棚田の部分を抜け、植林された杉林の中に入った頃から

道に石を敷いたような形跡が出てまいります。

このあたりではまだ、確信は持てなかったのですが・・・

小川に架かる橋も、このあいだ見た道のように、石柱を並べて架けた頑丈なもの。
これは、あたりだったかな?

この辺まで来て、探していた石畳道、『クズシ坂』であろうと確信しました。
単に石を敷いてあるだけでなく、急坂を登りやすいように、石段状にしてありますね。

ここから先100mほどは、幅1mほどの石畳が状態良く残っています。
と、いうより、歴史的遺産ということで、役所なり地域の方なりが、定期的に落ち葉を掃いたり倒木を除去したりして、手入れをしているんだろうな。

それならば、入口に看板の一つでも立てておいてほしかった。
あれじゃ普通、気付かんぞ?

坂をのぼりつめたところで、短い折り返しが2つ続いて、小さな尾根を越えます。
このあたりも、石が敷いてあったっぽい。
はっきり地表に出ていない部分も含めて、石畳である区間は、全部で150m~200mぐらいか?
歴史的価値があるものなのに、埋もれてしまっているのは勿体ないな。

尾根を越えると道は平たんになり、竹林の中を抜けていきます。

途中にあった、石碑のようなもの。
表面が削れてしまったのかもしれませんが、文字らしきものは確認できませんでした。

林を抜け、むこうに車道が見えてきました。

車道にあがって、振り返ったところ。
小さな橋を渡って、道の左側からあがってきます。
表示は何もなし。
こちら側からは、絶対わからないな。

ちなみに、この車道は国道376号線の旧道。
見えている方向に200mほど進んで右折し、山へ登っていくと『御上使峠』です。

車道の反対側にも、道の痕跡を見つけましたが、完全なヤブ。
突っ込む勇気も体力もないので、このあたりで引き返しましょう。

急坂を降りていくのは辛いので、遠回りだけど、車道を歩いて帰ります。
下から登りはじめて、一周して戻ってくるまで、ゆっくり歩いて1時間弱でした。

車道を歩いて戻る途中に、落差4mほどの小ぶりな滝が、道から見えました。
それよりも、はるか下の谷底で数か所、轟音が聞こえます。
木々の隙間からちらっと姿が見えるのですが、少なくとも2ヶ所、それなりの規模の滝があるみたい。

いつか、そっちのほうも確認してみたいもんですが・・・・。


淡海和尚の石畳道

2013-10-14 23:31:10 | 山口県の史跡関係

前回の記事で書いた『淡海和尚』ですが、別に「遺徳之碑」というのが建てられています。

下差川の交差点から国道2号線まで北上し、国道を越えてさらに100mほど、道の右手にあるのがこの碑。
半分、雑草に埋もれてしまってるな・・・・。
せっかくの碑なんだから、もうちょっと草取りしようよ・・・。

ツタが絡まっていて文字が読みにくいのですが、碑の文字は、安倍総理のお父様である、安倍晋太郎元外相が書かれたらしいですよ。
下の方に、和尚の功績などを記しているのであろうプレートもあるのですが、草に阻まれて近づけず、読めません。

ただ、『淡海和尚』という人。
道の改修をしたり、用水路を造ったりと、村民のために数々の土木工事をしているのです。
その痕跡の一つが、ここから1kmほど先の道脇に残っています。

この石畳の道、『クズシ坂』といい、淡海和尚が整備したものだそうです。

横にあった標柱を見ると、道路下にも、ゆかりの石橋があるみたい。

たしかに下に降りる道がありました。

むぅ・・・これのことか?

石の柱を3~4本、小川に架けただけのシンプルなもの。
苔むして、いい味は出てるが・・・。

小川の下流側にも道は続いてましたが、その先までは行きませんでした。

さて、この道はただの田舎道ではなく、江戸時代に山陽道の脇街道として使われた、『中往還』という道でした。
高森から小郡までの山中を抜ける街道で、城下の萩まで行くには、こちらが近道だったらしい。
このまま坂を登っていき、『御上使峠』を越えて、この前『早乙女塚』を見た、樋余地の集落に出るルートだったそうな。

-----≪10/16 追記・訂正≫-----

この石畳坂のことを、当初『クズシ坂』と書いたのですが、再度現地で探索した結果、別の場所で『クズシ坂』と思われる石畳道を発見いたしました。
「淡海和尚による石畳道」=「クズシ坂」と誤認していたためですが、文献を調べると、淡海和尚による石畳道は『クズシ坂』以外にも数か所残っていたのです。
よって、ここで紹介した石畳坂は、奥長野から明神の集落へ至る道のものであると、訂正させていただきます。

また、『中往還』に関してですが、『クズシ坂』から『御上使峠』を通る道の他に、「明神から梅の木を経て樋余地へ至る」と書かれている文献があります。
その場合、ここで紹介した道が『中往還』になるでしょう。
『クズシ坂』がある道のほうが、『中往還』である可能性が高いですが、昔の街道は、時代によってルートが違っていたりする場合もあります。
ここの道が『中往還』であることが否定できないので、本文そのものは訂正せず、追記の形をとらせていただきました。
あと、タイトルの部分からは『クズシ坂』の表示を消させていただきます。

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石畳のところまで戻って、坂を登ってみましょう。

坂の上のほうは、石畳はなし。

50mほどで、スタート地点の車道が遠回りして上がってきたところに、ぶつかります。
この車道、国道376号線の旧道でして、『御上使峠』を通る道。
峠への方向とは違う気もしますが、坂は道を横切って先に続いていますので、そのまま進んでみましょう。

なんか標柱も立っています。
『右 川越近道』
『左 仝 木道』
『仝』という漢字は、『同』という漢字の別文字らしいが・・・意味がよくわからんなぁ。

とにかく坂をのぼっていくが、方向は、行きたいほうとは逆の、現国道のほう。

林の中に入りますが、この先、未舗装の林道にぶつかります。
『御上使峠』の方向に曲がってみましたが、しばらくして行き止まり。
逆方向にこれ以上のぼっても、明らかに行き先が違うので、あきらめて下りてきました。

と、なると、『中往還』って、さっきの石畳坂から先、どういうルートだったんだろ?

旧国道を、峠のほう向かって少し進んだところ。
大きな岩がある先が

ずっと前、ブログで紹介しましたが、国土地理院の地形図で滝マークがついていた場所です。

方向から考えると、『中往還』は坂の上で折り返して、この旧国道沿いと進むと見るのが、理にかなっているのかなぁ。
ただし、この滝(?)部分を横断していたとは考えにくい。

うーん・・・・。
いろいろ謎が残ってしまったな。