時間のしずく time drops 

たいせつなもの。すきなこと。

ふわりと。

2024-06-27 | essay

あ、トンボ!と見上げた途端
フワリとわたしの日傘にとまった。

立派なオニヤンマだ。
この辺りでみるのは珍しい。
道端に立ち止まり暫し眺めてから、そうっとスマホを出して1枚パチリ。
すてきなモデルさん。

昔から蝶やトンボなどが近づいてきてくれると何だかとてもウレシイ。
そしていつも
ダレカナ?と想う。

アチラにいってしまったわたしを知る誰かなのかもしれない。なぁんて想う。

以前奄美を旅した時、不思議と何度も蝶がふわりと近くに来てくれた。
奄美では蝶はヒトの霊(たましい)なのだと云われていると聞いた。

以来特に自ら近づいてきてくれる蝶やとんぼには何だかとても親近感が涌くのだ。

1周忌を過ぎてもうすぐ誕生日が近づくオヤジさんかな〜?
お寺の蓮ももうすぐ咲きそうです。





可愛いすぎてビックリ

2024-06-24 | essay

え?あなた誰?
と二度見!
庭の片隅に何とも可憐な小さなお花を発見。

よく見たら見慣れた多肉植物からニョッキリ伸びて咲いているのだった。
義父が趣味で育てているいろんな植木鉢が庭に無造作に置かれているので、洗濯物を干しながら時に可愛い花にビックリさせられるのだ。
植物はナゾと驚異に満ちている。

雨粒をまとってうつくしいなぁ。君は葉が既に花だよね。
よくよく見たら、葉の先のピンクとお花のピンクはお揃いなのね。
DNAってすごいなあ。




六月の球体

2024-06-21 | essay
ひとには幾つもの顔がある。
それはウラとかオモテとかではなく、どれもそのひとなのである。

ひとのココロは多面体ではなく
球体なのだ。

というわたしなりの持論。
我が身に於いても。

今日は母の命日。
いつも亡くなった時刻に覚醒してしまう。
出来れば泥のように眠ったまま過ぎてしまいたいのに。

そしてまだ生きていた母の
ココロを想う。
母もまたわたしの知らない顔をたくさん持つひとりのヒトだったのだ。
わたしの「母」である以外のヒトとしての彼女。

わたしが「ただのアタシ」でありたいと時に思うように
母もまたわたしの知らない「ただのアタシ」を持っていたはずなのだから。

母のすきだった蒼い紫陽花。
あちらにも紫陽花は咲いているのだろうか。
それとももう別の姿になって此の世で今年の紫陽花をみているのだろうか。

19回目の命日
間もなく午前4時。
道路に響く新聞配達のバイクの音。。。

そして今
早起きのイソヒヨドリが
高らかに鳴いた。

まだ空は暗いのにね。

もうひとねむりしなくちゃ。




スターに変身!

2024-06-19 | essay
木の花って豪快だ。
想いもよらないカタチの花を突然咲かす。
何度も通った道でいつも素通りしていた街路樹がにわかにスターに変身だ。
モシャモシャのふわふわのお花をつけておしゃれしているのはネムノキ。

ネムノキってこんなフシギなお花をつけるのねぇ。

以前から思っていたけれど、ネムノキとオジギソウって葉っぱのカタチがよく似ている。親戚なのかな。ネーミングも何だか同じにおいがする。

一度認識すると、途端に目に飛び込んできやすくなるもの。
たまに通リかかる公園のこの木もふわふわのおしゃれさんに束の間へ〜んしん!




引き寄せられる場所

2024-06-17 | 展覧会・アート のこと

またまた都会のジャングルに吸い込まれて来ました。
ここは近年とてもお気に入りの場所、南青山にある「岡本太郎記念館」

先日乃木坂駅近くのギャラリーに行った後、あまりの良い天気青い空にわたしの脳裏に浮かんできたのは緑の大きな葉の繁る南国のようなあの庭。

歩こうと思えば歩けそうな距離ではあるけれど方向音痴のわたしには辿り着けそうにないので潔く一駅電車に乗っていつもの表参道下車。

思えば初めて訪れたのも丁度この時期。バショウのバナナみたいな実の成る季節に久しぶりに会ったトモダチと訪れたのでした。
この庭には太郎氏の立体作品が所狭しと置かれていて、時間とともに草に覆われているのがまたいい感じなのだ。

太陽の塔に親しんで育った大阪のコドモだったわたし。
太郎さんの作品は平面より立体やタイルの作品が好み。
油絵はちょっと強すぎるものが多く怖いんだな〜。
(時々かわいい)
そして、作家のアトリエってのはなんとも興味深くてすきだ。
もっと近寄ってじっくり見たいくらい。

今回気づいたのだけれど
アトリエの中二階みたいなところに本棚がずらり。
太郎氏はどんな本を読んでいらしたのだろう。
太郎氏の愛読書を読んでみたい。

食べたものでカラダが作られるように
読んだものでココロも彩られるように思うから。

岡本太郎記念館。
きっとまたエネルギーをもらいに訪れたくなることだろう。

惹かれるものには素直に吸い込まれてしまおう。





ひととひと、つながる時間

2024-06-16 | essay
ものづくりの活動を拡げていくなかで出逢ったひとびとがこの10年余りでたくさんいる。

それぞれに魅力的な作家さんたち。
わたしがすきになるひとは
皆自分の分野で日々切瑳琢磨し、向上心がありながら謙虚さを忘れないひとたち。
そして何よりものづくりがスキで作家活動をたのしんでいることが皆の共通点だ。

この日は丁度同じ方面に
3人それぞれの作家さんの展示が重なっていたので
お昼前から夕方まで三件ハシゴしてきた。

一件はカフェ展示だったため美味しいものをいただきながらおしゃべりは尽きず、その場でまた輪が広がっていく。
コロナ禍を越えてこうしてまた普通に集うことが出来るようになったことを改めて実感する。
こうして他愛のないおしゃべりができるってしあわせなことだ。

コロナ禍の数年、正に「不要不急」の代表格だったアートの世界。先の見えない時代に悶々としながらもものづくりへの情熱は枯れることはない。

これからも何が起きるかわからないけれど、
こうしてつながりをたいせつに慈しみながら
ものづくりに関わるすべてをたのしんでいけたらしあわせだなぁ。。。

暑い一日。夕やけも夏色でした。



夜の子ども部屋

2024-06-11 | essay
真夜中に目覚めてしまい
眠ろうとしているのに
勝手に思考が彷徨う

子どもの頃
夜更けに母が戸締まりを確認しにそっと子ども部屋に入ってくる光景を何故かふいに想い出す。

母は毎夜窓の鍵を確かめカーテンをきちっと閉めてから
ベッドで寝ているわたしたちのふとんを掛け直してくれた。
近づく母の気配。ふとんを掛け直してくれた時の手の重み。ドアを出ていく逆光の後ろ姿のシルエット…

あたたかな
しあわせな
こどもの頃の想い出

思春期くらいになってからも
真夜中に母の気配を感じると小さいころみたいにふとんを掛け直してとんとんしてほしいな…と感じていたことも覚えている。

そう言えば子どもたちが小さいころ、絵本を何冊も読んだ後で寝かしつける時にわたしも同じようなことをしていたなぁ。
3人の子どもたちに順番に布団を首まで掛け直すと
みんな「ぎゅっぎゅってして」と嬉しそうに言っていたものだ。
わたしもぎゅっぎゅっと言いながらわざとお布団を子どものからだに巻きつけていたっけ。。。

一日の終わり…眠りにつく小さな体にかかるおふとんの重みそして母親の手の重みは、どうやらすこぶる安心感を与える格別な魔法を持っているようだ。

わたしがこうしてふと母を思い出すように
彼らもまた遠い先に
ぎゅっぎゅっとされた感覚を思い出してくれるといい。

子ども時代のささやかなしあわせな時間の記憶がちゃんとからだに沁み込んでいれば
何があってもなんとかなるという気持ちの土台となる。ような気がする。

幼少期の愛情は必須栄養素なんだな。
ヒトもけものもね。

空の上の母に感謝!です。







かかりつけ医難民

2024-06-10 | essay
かかりつけ医難民となって数年。

年一の健康診断も
さぁ今年は何処へ行こうかと迷う有り様。

かつていつも診ていただいていた町医者の先生はとても大らかな御方で、毎年話をしながら気になる検査項目を増やしたり臨機応変に対応してくれていた。
検査結果も細やかに説明してくださり最後に「合格!」と太鼓判を押してもらえると、スキップして帰りたくなるような気持ちになったものだ。

ご病気で急に休業されたあと、あっという間にお亡くなりに…。まだ60代だったと思われる。とても残念だ。今でもそう思っている人はかなりの数に上ることだろう。

あの先生にかかっていた友人知人皆同様に「かかりつけ医難民」だ。

さて、今年行ってみた病院は長男を出産した産院併設の内科。
近年立派に建替えられ健診も多く受け入れていると聞いて行ってみた。

問診にあたった先生は
健診の為だけのアルバイト先生らしく、小さな声でボソボソ話すお爺さん。

「なんかね既往歴を聞けと云われていてね、この中でなんかある?」と病名の表を見せてくる。小さな声な上に小さな文字の表。ググッと近寄らなきゃ聴こえないし見えないよ。
何だかあまりに医者っぽくない事務的な聴き取りに
もしかして医者じゃないのかなと、思わず
「えっと、お医者さん…ですよね?」と首からぶら下がる名札を覗き込んじゃった。
「医者なんだけどね…」とにっこり笑うお爺さん。
失礼しました。

アルバイトだからややこしいこと聞かないでねって
言わないけれど
ココロの声が駄々漏れです。

こんなに他人事みたいに話す腰の引けたお医者さんなんて初めて会いました〜。
それにしても
あまりに近づきすぎてお爺さん先生の見事に真っ白なまつ毛をまじまじと見つめ続けた問診の時間なのでありました。
あんなに全部真っ白になるのねえ、まつ毛。

かかりつけ医難民の日々は続く。。。









MICHAEL KENNA氏の写真

2024-06-08 | 展覧会・アート のこと
マイケル・ケンナ氏の写真展へ
数年前、写真美術館での展覧会を拝見してからすっかりファンに。
少し前の代官山で展示は行けなかったので、今回こそは!と滑り込み。
乃木坂のGallery Art Unlimitedさんへ。



以前とても惹かれたこの1枚。
(この木はもう伐採されてしまっているのね…。)
この写真がまた観れてうれしい。

すぅーとココロに入ってくるマイケル・ケンナ氏の写真の数々。

スキに理由はないんだなぁ。

MICHAEL KENNA
50YEARS & JAPAN

ありがとうございました












夢の中のジブンの姿

2024-06-06 | essay
夢をみた

夢のなかでわたしはすっかりおばあさん。
同じく歳をとった友達らしき仲間とビンテージなおもちゃ屋(雑貨屋?)にいる。
棚にずらりと魅力的なレトロなソフビやら置物やらが並んでいる。
なんて魅惑的な光景。
そしてなんていい味わいの色の洪水。
皆で懐かしがって見ている。
ガラスの置物を欲しがる友に
欲しいなら買ってしまいなさいよと勧めてるわたし。
お金はふんだんにあるようだ。
そして自分も昔欲しかったリスのソフビ人形を手に入れようか迷ってる。(現実では見たことないけれど)

けれども同時に自分のものにしてしまっても年齢的にこの先長く持てるわけではない…と身に沁みて感じて躊躇している。

何だか掲示的なゆめだ。
実は潜在意識では断捨離を望んでいるのか。
いよいよ必要な時期に来ているのかもしれない?

近頃あちこちカラダにガタが来ているせいで
ジブンが年寄りになった夢をみたのかも。

年齢を重ねることにムリに抗う気持ちはないのだけれど、
医者に「加齢が原因」と立て続けに云われるとさすがに萎えるものだなぁ。

気持ちだけはアラサーくらいなんだけどな〜笑
実際は気がつけばアラ還なんだな〜
ダブルアラサーだわ〜。

まあ、今日が一番若い!とジブンに言い聞かせておきましょう!





アートの泉

2024-06-04 | 展覧会・アート のこと


先日池袋の東京芸術劇場のギャラリーへ。
Instagramで知り合った知人のアートを観に。

公募入選のいろんな作家さんの現代アート展。
つくづくアートって幅広いなぁと感心しつつ眺める。

アートってなんだろね。
自分がアートと思えばヒトが何と言おうとそれはアート。

なあんて考えていたら
奄美の孤高の画家
田中一村の言葉を思い出した。
「自分のこころを納得させるために描く」
奄美旅行で訪れた田中一村記念美術館。
静かな時間の流れる広々としたとても素敵な佇まいだったな。
丁度ツバメが建物のそばを舞っていて、絵の中から出てきたような…フシギな錯覚を今でも覚えている。
あの濃厚な奄美旅行、ついこの前のように思い出せるのに考えてみればもう12年も前の4月。。。

月日の流れる早さと言ったら!!

奄美の空気を吸いにまた行きたいものだなぁ。




ちびお稲荷さんたち

2024-06-01 | essay


早朝にぱっきり目覚めた日は朝さんぽへ
時折霧雨が風に舞う気持ちの良い朝。

近所の神社の小さいお稲荷さんたち。わたしのお気に入りさん。

かつては境内の古い小さなお社の暗がりに鎮座していた彼ら。
近年一新されみんな並んでアウトドア生活に!笑
日を浴び雨にも雪にも打たれどんどんいきいきとしてきたようにみえます。

少しずつうっすらと緑をまとってきてこれから時間をかけて苔むすお稲荷さんへと味わいを増すことでしょう。




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